いま、ここにある風景はそういうものでもあるし、そうでない風景もあったのかもしれない。描かれた絵や置かれたオブジェはあるといいと思うし、なかったのかもしれない。必然ではなさそうだが偶然とも言えない。そんな情景を作りながら、実は人々が巻き込まれる社会的事変や災厄、それによる分断を危ぶむということ。
TEXT BY Yoshio Suzuki
PHOTO BY Shigeo Muto
copyright the artist
courtesy of ShugoArts
ギャラリーのドアが半分だけ空いている。クローズドなのだろうか、普通にオープンしているのか。奥を覗くと、映像作品が動いているのが見える。
リー・キットは絵を掛け、プロジェクターも使う。画家? 映像作家? ひとことで言えば、インスタレーションアーティストということになる。絵と映像を操る。絵をよく見せるために照らすライトを使う代わりに、プロジェクターを使う。
そこで目に入るものは、ただの日常のようだ。どうしてもそこにその風景がなくてはいけないというものでもないような気もする。そんなことはない。この絵があって、このオブジェがあって成り立っているものかもしれない。映像には文字も出ている。それは、賛美歌の一フレーズだったりする。All things bright and beautiful. 全ては美しく輝き。あるいは、作家にインスピレーションを与えてくれた港町の名前が投影される。Takamatsu. そしてその景色も。
プロジェクターを使うようになったのは、あるとき、夜の展示室で自分のペインティングを見るためだった。さらに、自分で描いたペインティングを撮影し、それを映像にしてペインティングに投影する試みをしてみた。それが現在の展示スタイルにつながっている。
そうすると、一つの発見があった。絵画がプロジェクション作品になり、それも絵画ならば、人は(鑑賞者は)絵画の中に入ったり、外に出たりできるのだ。
リー・キットは香港出身、台湾を拠点とし、活動している。展示、発表する地に赴き、滞在制作をする。気鋭のインスタレーション作家と紹介されることもあるし、あるいは、絵画の可能性、先鋭的な表現を切り開くアーティストと説明されることもある。
近年、リー・キットは欧米やアジア各地で展示を行ってきた。ビエンナーレなどのイベントや美術館の展示、ギャラリーの招聘など、40カ所近い都市に出向いた。それぞれの土地にしばらく滞在しながら、制作し、展示を作り上げる。
2018年の東京、原美術館での個展「僕らはもっと繊細だった。」のときも10日間あまりの日々を美術館の中とその周辺で過ごした。展示には数点の絵画やオブジェが用意され、それに加えて、滞在中に日々どこかで撮影した映像を編集し、投影する。歴史ある建物の空間が作品として仕上がっていった。
本展は世界を覆い尽くすコロナ禍の中で制作、発表された。滞在制作を旨とする彼が東京を訪れることがかなわなかった。滞在先の香港(通常は台湾を拠点としているがこのときは香港だったとのこと)から、東京のギャラリーに「展示設営インストラクション」を送り、遠隔でインスタレーションを作り上げた。
かつて展示をしたことのある空間ということもあり、結果、展示は作家の不在を感じさせないものとなった。というのも、香港にギャラリーを模したシミュレーション用のスペースを用意し、「ピンクを強くしたい」「もっと甘やかに」などと、指示を送ったのだという。一部には、実際の展示を撮影し、それを大きくプリントし、壁紙にして、別の壁にそれを貼っているところもある。一つの入れ子構造的な展示だ。
普段の展示、設営だと、作家が昼夜、ギャラリーに籠もって制作し、ギャラリースタッフが朝来てみると少しずつ出来上がっていくのを見守るのに対して、今回は、スタッフが作家の手や足となって作り上げた。そのことで、展覧会に向き合う作家の思考のプロセスが把握でき、追体験する形となった。
絵画も写真も映像も。目に見えるものは一見、ポエティックで、感傷的、静謐に思える。しかし、表面に見えるものの向こうにはさまざまな事象がある。たとえば政治的、社会的なこと。2019年3月に高まりを見せた香港民主化デモによって、多くの人が死亡し、数え切れない人々が逮捕された。このことを意識している。さらにそれからおよそ1年後、中国が起点とされる新型コロナウィルスが全世界を覆って、地球規模で大きな混乱に陥れていることも。
英国領だった香港に生まれ、中国に返還された香港から台湾に移り住んだリー・キットにとっては、この数年は一層、さまざまに想うところがあるのだろう。本展のタイトル「(Screenshot)」。「Screenshot」にパーレン(小カッコ)がついている。これは、心のなかで想う、という意味のパーレンである。現実に起こった、起こっている光景を密かにこっそりとスクリーンショットすること。密かに? なぜならそれは罪悪感を伴うもの想いだからだ。政治、社会問題、災禍、さまざまな事象が分断を引き起こす。それが罪である。
今はその景色を見て、それを静止画として留め、目を閉じる。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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