現代美術の巨匠ゲルハルト・リヒターがケルンやドレスデンでの個展で公開したばかりの新作ペインティングがもう東京に到着していた。それだけではない。作家自らが厳選した1992年以降の主要作品もここに。ワコウ・ワークス・オブ・アート25周年記念だからこそ実現した展覧会が開催中である。
TEXT BY Yoshio Suzuki
ゲルハルト・リヒターの絵画展が六本木のワコウ・ワークス・オブ・アートで始まっている。ギャラリーの片隅にはまるで美術館での展示のように監視する人の椅子が置いてある。それだけ展覧会に駆けつけるファンが多く、混乱を整理しなければならない事態に備えているのだろう。作品が高価だということはもちろんある。
旧東ドイツ側ドレスデン出身の画家。ベルリンの壁が築かれる直前に西側デュッセルドルフに移住。1960年代から活動を始めた現在85歳のこの偉大な画家は大いに敬意をもって語られる。具象と抽象を長い間、並行して制作してきたこと。そして両方のカテゴリーを追求し、極めて高く評価される作品を生み続けたこと。ヨーロッパの伝統を受けつぐようなロマンティシズムを描く一方で(リヒターはラファエロ、ベラスケス、フェルメール、マネが好きだと語っている)、同時代の戦争や社会問題にもテーマとして正面から取り組んでいること。
ドクメンタやヴェネツィア・ビエンナーレには1970年代から何度も参加し、常に話題となってきた。作品は世界各地の有名美術館に収蔵されている。日本国内でも東京国立近代美術館や大阪の国立国際美術館にペインティングが収められている。
この25年の重要作を作家本人が選んだ
日本では2005年に金沢21世紀美術館と千葉県佐倉の川村記念美術館(現在の名称:DIC川村記念美術館)で大規模な展覧会が開催された。今回の展覧会はギャラリーという親密なスペースでこの作家の作品と出会える良い機会である。
こんな質の高い展覧会が実現したのはリヒターを日本に紹介してきたワコウ・ワークス・オブ・アート開廊25周年を記念してのことだ。画廊開廊の1992年から2017年までに描かれた重要な作品を選んだ。出品作品の決定、展示の構成に関しては、作家みずからがそのアトリエで、展示室模型を傍らに置いて、慎重に検討したという。そして、日本初公開となる最新作とともに、世界初公開作品も複数展示することになった。
ギャラリーの最初の部屋には大小の新作アブストラクト・ペインティング(抽象画)が並ぶ。この作品《Abstract Painting (943-2)》が一番の大作で、144×220cm。面積にするとほぼ畳2帖分ということになる。小さいものでは40×50cmというものも。
すでにして美術史の中で重要な作家であり、今後何百年の間、20世紀21世紀の美術を語る時に必ずや名前を挙げられるであろうアーティストだ。世界中の有名美術館に作品が収められ、出身地から遠く離れた極東の日本の国立美術館も誇らしく所蔵しているこの人の作品がギャラリーで買おうと思えば買えるという現実。
奥の部屋にとても美しい風景画が一点、掛けられていた。ここでこのような作品に遭遇することができるとは。スイスの山の麓の森のなかに抱かれたような建物が描かれている。
リヒターについてあまり知らなければ、これらの抽象画とこの風景画が同じ作者の手によるものだとはすぐには信じられないかもしれない。
抽象画と具象画を巡ってはさまざまに本人も語り、また周囲に語られてきた。たとえば、リヒターと彼の絵のモデルとしても登場する長女バベッテ(作品タイトルの中では「ベティ」と称される)との2002年の対話がある。
バベッテ「初期のアブストラクト・ペインティングについて聞かせて。あの派手で、鮮やかなやつ。学校の同級生には『めちゃくちゃなあれは何なの?』って言われたけど、実際は『めちゃくちゃ』じゃないからこそ話題になった。むしろ、よそよそしくて冷たい、人為的な印象を与えるものとしてね。(中略)それは境界を壊すこととなにか関係してる? そしていまは、その作品群をどう捉えているの?」
ゲルハルト「当時もそうだったけど、いまはいっそう時代の産物だと感じるね。(中略)身につけた伝統やスキルについてつねに客観的であろうとしたんだ。監視役のように、その意識はいつもわたしについてまわった。」(本展カタログ『Gerhard Richter Painting 1992–2017』ワコウ・ワークス・オブ・アート 2017年)
ここでは「時代の産物」と語っているアブストラクト(抽象)がその後はむしろ主流になっていくわけだが。
リヒターにとって風景画は並行して制作されているアブストラクト・ペインティングに対立したりましてや矛盾したりするものではない。むしろ、両者は同じ芸術的な問題、つまり『自らに対し世界についての一つのイメージをつくる』という課題をめぐる二つの異なる扱いなのである。(『ゲルハルト・リヒター』淡交社 2005年 所収 ディートマー・エルガー/ハノーファー、シュプレンゲル美術館キュレーター「ゲルハルト・リヒター、風景」)
リヒター本人は1981年のノートにこう記している。
「アブストラクト・ペインティング」が私の現実を表現しているとすれば、風景や静物は私の憧憬を表している。これでは話が単純すぎるし、一面的ないい方だ。でも、たとえ古典的秩序と平安の世界への夢想、つまり徹頭徹尾ノスタルジックな動機から描かれているとしても、私の作品がもっている反時代性には、現代という時代を転倒する力があるのだ。」(『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』淡交社 2005年)
追求するべき必然、降りてくる偶然
リヒターは絵画の素材として収集した膨大な写真を《アトラス》という作品に仕立てている。つまり元の写真を公開することを厭わないどころか、これ自体800点を超えるパネルに収められた作品として、ニューヨーク近代美術館などの主要な美術館や1997年のドクメンタXで展示している。日本でも2001年に川村記念美術館で公開された。
写真素材と出来上がった作品を見比べるとわかるが、写真の被写体は理想化され、写真という近代以降の簡易な記録から古典的な絵画に転換され、時間モデルから非時間モデルに置き換えられている。ペラペラの印画紙に焼き付けられた風景をキャンバスに油絵具で拡大して描くことによって絵画作品に昇華することは必然的に成されるべき追求、修養のように思える。一方、アブストラクト・ペインティングに関してはネット上の動画サイトでいくつもそのプロセスが公開されているように、筆で描いたあと、定規状のもので絵具をこそぎ落とすことを中心的な作業とする。その行為はある意味、偶然性を頼りにしている。前者は作者の抱いたイメージを極め、集中する行為であり、後者は拡散する行為であると言い換えてもいい。それらがひとりの作者の中に共存し、これらの作品を生み出すことに興味を禁じ得ない。
リヒターに関しては、今後も大きな美術館で大々的な回顧展は開催されるであろう。しかし、それとはまったく異なり、ギャラリーというインティメートな空間で厳選された絵画をじっくり集中して鑑賞するというのは大変貴重な機会であると断言できる。
美術作品がそれを見る前と見た後で見た人の何かを変えるものだとして、どんな作品ならそれが起こるかはもちろん人によって違う。意外にも古典的な風景画の形をとっていたり、長い美術史の中では新参な抽象画であるかもしれない。彼が「反時代性」と称するものがそれなのかもしれない。リヒター作品の魅力は見た目になにがどう描かれているかということも、奥に潜むその効用なのではないかと思うのだ。
鈴木芳雄|YOSHIO SUZUKI
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌ブルータス元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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