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連載エコゾフィック・フューチャー

Ecosophic Future 11

Possible Water

「コモンズ」としての水、そしてアート

水車橋からの玉川上水(東京都小平市)

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水車橋からの玉川上水(東京都小平市)

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生き生きとした生活や人生やいのちに必要不可欠な「水」から開かれる思考の創造性——。キュレーターで批評家の四方幸子が、未来の社会を開くインフラとしての〈アート〉の可能性を探る連載「エコゾフィック・フューチャー」の第11回は、「水」をきっかけに新しいコモンズのあり方を模索する。

text by Yukiko Shikata

玉川上水〜分水嶺

新緑が爽やかな日々の中、東京では6月6日頃、西日本に先駆けて早くも梅雨に入った。その日は雨、美大へ向かう玉川上水緑道では、あちこちにできた水たまりを避けながら歩く。すると大きな水たまりが広がる難所が。一瞬「無理!」と思ったが、道端の草むらに迂回してなんとか乗り切る。

水は常に、環境に順応してフレキシブルに変容する。流れ、時には滞留や(人間から見れば)暴走もする。時に気体や固体となる。そんな水の性質を思うと、「アフォード(affford)」という言葉が浮かぶ。このような言葉(使い)を日本語はもたないが、あえて表すと「許容する」というニュアンスだろうか。

この言葉から1960年代に米国の生態光学者ジェームズ・J・ギブソンが派生させた概念に、「アフォーダンス」がある。環境が人間や動物にもたらす意味や動きを意味するもので、デザインや認知心理学で応用され、AI研究でも注目されている。水は人間や動物のような知覚がないため「アフォーダンス」は適応できなさそうだが、様々なものを「アフォード」し、またされる存在ではと思う。人類は、そのような水とともに生きてきた。

玉川上水は、木々が豊かで美しい。それに沿う緑道は、刻々と変化する光や風に彩られた自然のシェルターになっている。江戸時代(1653)に四代目徳川家綱の命により多摩川上流の羽村取水堰から四谷の大木戸まで、7カ月という短期間で切り拓かれた全長42.74Kmの水路は、わずか92.3cmの高低差でなだらかに結ばれている。それを実現した土木技術と繊細な土地感覚には驚きを隠せない。

 

「江戸上水配水図」(1718)千川家文書絵図 Photo courtesy: 練馬区立石神井公園ふるさと文化館

 

玉川上水は、尾根に沿って切り開かれている。東から西に流れる玉川上水から、北も南もなだらかに低くなっていく。北は、奥秩父連山の甲武信ヶ岳(こぶしがだけ)を源流とする荒川に合流して東京湾へ、南は山梨県の笠取山を水源とする多摩川に合流し、東京都と神奈川県の間から東京湾へと注いでいる。

甲武信ヶ岳からの水はまた、静岡県から太平洋へ、長野・新潟県経由で日本海へと流れていく。一滴の水が、地形の機微に応じて東西の海へと分かたれる、分水嶺である。単なる物理現象にロマンを感じてしまうのは、ミクロな差異が途方もなく大きな差異を生み出していくダイナミズムによるのだろう。「分水嶺」からは連なる山々の頂(いただき)を想像しがちだが、尾根を流れる玉川上水も分水嶺である。武蔵野台地など、起伏がさほどない土地にも尾根があり、水がおのずと分かたれていく。

水は世界に存在するあらゆるものの中で、その変化を最も顕著に私たちに実感させる。水に接することで私たちは、世界と向き合い、その一部として包まれるような気持ちになる。野口体操の創始者である野口三千三は、人間の身体を「皮膚という袋に入った液体の中に、骨や内臓が浮かんでいる」と表現した。なんという身体のイメージだろう!と同時になるほどと思う。私たちの内部は水で満ち満ちている。生まれ出る前は羊水に浮かんでいたことも、身体には刻まれているだろう。水は、私たちの内外を包み込んでいるのだ。

「ポッシブル・ウォーター」

地球は水を得ることで生命を育んだ稀に見る惑星である。水はさまざまな形態をとり、大気中、地上や地中、動植物などあらゆる存在を満たしている。水は自然の浄化作用の恩恵を受けてきたが、20 世紀以降、科学技術の発達とともに環境汚染が進行、現在世界では安全な水を充分に得ることができない地域が数多く存在する。水はそもそも誰のものでもなく、地球に存在する全てのものの「コモンズ(共有物)」である。人間中心的な世界観から離れ、世界を満たし流動する共有的なリソースとして水を再発見すること。 ——四方幸子 「Possible Water|〈コモンズ〉としての未来」に際して(2012)

 

 

10年前の7月、初めて「水」をテーマにしたキュレーションを行なった。展覧会+ラウンドトーク「Possible Water|〈コモンズ〉としての未来」(2012/7/7-21)、会場は東京ドイツ文化センター(現:ゲーテ・インスティトゥート東京)である。センターから、東日本大震災、とりわけ津波や福島第一原子力発電所事故後の状況も念頭に、「水」をめぐる展覧会を依頼されたことによる。壮大なテーマだが、以前から水に興味を持っていたこともあり、「3.11」後という時期に向き合う必要を実感して引き受けた。

「Possible Water」には、地球規模で様々な意味で危機にある水の可能性をアートを介して開くこと、水を地球の「コモンズ(共有物)」として提起する思いが込められている。展覧会は20代から70代の日独の8人による絵画、写真、アニメーション、映像、サウンド・インスタレーション、バイオアートの作品で構成、上映会や七夕の祝祭的なイベントを含め、震災一年後の世界を来場者とともに見つめる機会となった。

地球に偏在する水は、生命の源である。その水が、「3.11」では沿岸の町々を破壊し、原発事故で大気や水が汚染された。水のアフォード的性質を思うなら、津波は地震に起因する。しかし自然現象は、人間の思惑や善悪を超えた地平にある。原発事故は人災でもあり、人間中心主義的な世界観が背後にある。産業革命以降、人間は機械や情報技術を駆使して自然をモノ化し支配する方向に邁進してきた。その結果訪れた「人新世」と呼ばれる現在、地球規模の環境汚染や気候変動が多くの生物を脅かし、人間にもそれは及んでいる。そして支配や搾取や汚染の影響を受ける最前線が、他ならぬ水なのである。

万物は水なり ——ミレトスのタレス(BC624年頃〜546年頃)

水は古来から、森羅万象に偏在する、重要なものと見なされてきた。日本では、この国の自然に即した無常観が水を通して語られる、あの有名なフレーズが思い出される。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし ——鴨長明『方丈記』(鎌倉時代)

水の汚染は、とりわけ20世紀以降、機械化による大規模採掘や工場の稼働、化学の発達や原子力の登場で急速に進み、地球環境を脅かすまでに至った。進行する環境汚染を敏感に感知しいち早く知らしめたのは、米国の生物学者レイチェル・カーソンである。

生命の輪と切りはなしては考えられない。水は生命をあらしめているのだ。——レイチェル・カーソン『沈黙の春』(1962)

カーソンが同書を発表したのは、今世紀に登場した「人新世」の概念で言えば「グレート・アクセラレーション」の初期である。この時代には宇宙開発も進み、初めて人間が地球を外から眺めることで、新たな認識論的展開を生み出した(幼児が初めて自身の姿を鏡を通して認識する、ラカンの「鏡像段階」のように)。水の惑星として、地球が再発見されたともいえる。

この地球という岩から成る球体の70パーセントは水におおわれているので、宇宙から観察すると、大きな水滴のようにみえるだろう。 ——ラザフォード・プラット『水=生命をはぐくむもの』(1971)

植物の樹液や動物の血液のなか、あるいは地面に降る雨水のなか、海へ注ぐ川を見れば、水が我々の惑星の上で描き出している循環系が分かる。——エドウィン・ウェイ・ティール『水―生命をはぐくむもの』(1971)まえがき

地球上のあらゆるところに偏在する「循環系」としての水、それは地球のたえざるダイナミクスによる。地球が保持する水の量は一定で、自然の浄化作用で連綿とめぐっている。動物や人間のホメオスターシス(恒常性)に近い。その意味で、地球を一種の生命体的なものと見なすこともありえるだろう。

人間も、地球と同様に約70%が水分で構成されている。水や水分は地球を循環し、人間の身体内でも循環する。摂取した水も体内をめぐる水も、地球のサイクルの中で、様々な時と場所でそれぞれの環境と絡まり合いながら存在してきた。現在私たちが飲む水は、過去に人間の身体を5回は通過してきたものだとどこかで読んだが、循環する水は、すべての存在を生かし潤す、まさに「コモンズ」なのである。

「コモンズ」としての水

「コモンズ」という概念を意識し始めたのは、20世紀末、米国の法学者ローレンス・レッシグの著書『コモンズ』を介してだった。Linux OSを筆頭にしたオープンソース・ムーブメントが注目された時期で、レッシグは「デジタル・コモンズ」を守るために積極的に発言、当時彼が設立した「クリエイティブ・コモンズ(CC)」の動きは、現在世界的に広がっている。

その頃台湾で開始したデジタル・コモンズを探求する実験的なオンライン・プロジェクトに「Kingdom of Piracy (KOP)」(2001-2006、シュー・リー・チェン、アルミン・メドッシュ、四方の共同キュレーション、東京を含む世界5都市で作品を追加しながら展開)がある。「KOP」は、2020年の「Forking PiraGene」(台北C-LAB、シュー・リー・チェン、四方の共同キュレーション)において、デジタルに加えてバイオ・パイラシーの問題へと派生(Fork)し、5つのグループによる新作の展示とワークショップやオンライン展として展開された。

「KOP」の系譜は、NFTアートが注目された近年において「コモンズ」の可能性を批評的に検討するテキスト・プロジェクト「From Commons to NFTs」(シュー・リー・チェン、フェリックス・シュタルダー、Ewen Chardronnetによる共同キュレーション)に結実し、今年の1月から7月まで毎月末日に新たなテキストを追加している(私は2番手として原稿を発表)。

 

Yukiko Shikata “Can NFTs be used to build (more-than-human) communities? Artist experiments from Japan”

 

「デジタル・コモンズ」が提起された時代、日本では経済学者の宇沢弘文が著書『社会的共通資本』(岩波新書、2000)を発表している。「社会的共通資本」は、「自然環境」「社会的インフラ」「制度資本」という3つの要素で構成され、それぞれが「水や大気、森林や河川など」「道路、交通機関、上下水道など」「教育、医療、金融など」を含んでいる。

また2002年には、水を20世紀の「石油(Black Gold)」戦争に代わる21世紀の「Blue Gold」戦争として検討し、コモンズを推進する同名の本が出版されている。

神聖な生命の水は地球と全生物種のコモンズ。——モード・バーロウ、トニー・クラーク『「水」戦争の世紀』(集英社新書、2003 / 原題『Blue Gold』、2002)*1

水は、政治、経済、環境、健康などあらゆる分野を横断し、人間だけでなく、あらゆる生命の生存権に関わってくる。水をモノとして支配、管理すること、境界を設けることは、水本来の特性とも「コモンズ」としてのあり方とも矛盾してしまう。

21世紀初頭以降、デジタルと水が「コモンズ」として守られる対象となっていた。現在においては加えて「バイオデータ」、つまり人間を含む生命に関わる情報や私たち個人の日々の行動や身体情報までもが守られるべきものとして浮上している。

水はそもそも誰のものでもなかった。人々は水のある場所、流域で集落を形成してきた。国境や県境など人為的な境界はなく、遊牧民や狩猟民は、季節に応じて移動し生活をしていた。

地球規模の視点を獲得した現在、水の本来性を「コモンズ」としてあらためて取り戻していくこと。それは現在を生きている私たち人間に与えられた重要なミッションではないだろうか。


*1 本書を原作としてサム・ボッソ監督『ブルー・ゴールド 狙われた水の真実』(2008)が制作されている(配給:アップリンク)

水をめぐるキュレーション

2012年の「Possible Water」以降、水をめぐるキュレーションを継続、2013年には渋谷の暗渠化された川のルートを地図で可視化し、マンホール越しに音を取得した山川冬樹の《Shibuya Water Witching》を展開*2。翌年の「札幌国際芸術祭2014 」では、扇状地である札幌の失われた水脈や人やデータなどの情報のフローを可視化・可聴化する企画展「センシング・ストリームズ」を、かつては豊平川が流れていたという札幌駅前地下歩行空間を中心に、10余りの新作で構成した。茨城県の県北に位置する5市1町という広域で展開した「茨城県北芸術祭2016」では「山側エリア」で30作品以上を担当、茨城・福島・栃木県に渡る八溝山を源流として県北を南下し、日立市から太平洋に注ぐ久慈川水系と、そこで育まれた漆や楮、発酵産業などと科学技術とのコラボレーションを含め「水」を底流にした数多くの作品に関わった。

2018年から東京を中心に展開するプロジェクト「オープン・ウォーター~水(*)開く*3では、東京の豊かな水脈を再確認するとともに、水のもつ可能性をアートの創造力から掘り起こすことで、東京を21世紀の水都として活性化しようと試みる。東京は、かつて舟運で栄えながら、高度経済成長時代以降に水の風景が失われてきた歴史をもつ。水はそのゆらぎやきらめきで、人々の心を生き生きと豊かにしてくれる。「オープン・ウォーター~水(*)開く」では、水源から東京湾まで水辺や水関係のインフラのフィールドワークから始め、これまでいくつかアートプロジェクトを実施した。

その一つが、2019年9月に新木場一丁目緑地公園で行った「大気の入江 for OPEN WATER 2019年9月14日新木場」である。杉本格朗(漢方家)、瀬藤康嗣(サウンドアーティスト)、三浦秀彦(デザイナー)で構成される「大気の入江」が、初の屋外版として制作、満月の出を待ちながら、参加者の聴覚、触覚、嗅覚、味覚が開かれていくイベントとなった。

 

「大気の入り江 for OPEN WATER」(2019年9月、東京都江東区) 主催:オープン・ウォーター実行委員会 写真:齋藤彰英

 

2020年11月には、山川冬樹が東京港の水上(東京ウォータータクシー)で複数の地点を移動しながら行うライブ・パフォーマンス「DOMBRA」を実施した。

 

山川冬樹「DOMBRA」(「オープン・ウォーター〜水(*)開く」トライアル公演 / 東京港上 / 2020年11月29日)※映像アーカイブ公開中

 

2021年の夏には、多摩川がかつて運んだ礫層によって高層化が可能になった大都市東京を、水源から辿り写真に収めた齋藤彰英個展「東京礫層:Tokyo Grabel」を開催した(会場:iwao gallery)。水へのアプローチは山川と齋藤でそれぞれ異なるものの、人間存在を超えたスケールの時間や空間の導入や、現代の東京が抱える諸相に向き合うまなざしが共通している。人間中心主義から距離をとった、多自然主義的な存在論といえるだろうか。


*2 「シェアリング・バイブス|共振する場、そして私」展(アーティスト:Maki Ueda、新津保建秀、山川冬樹)、2013年9月11日-10月6日、会場:アツコバルー arts drinks talk(渋谷・松濤)
*3 「オープン・ウォーター」のタイトルの()内に助詞を入れることで、複数の意味が生まれる。「水を開く」「水に開く」「水は開く」「水へ開く」「水と開く」「水で開く」。

「コモンズ」としての水、そしてアート

「コモンズ」としての水は、物質・非物質を超えて世界に偏在し、生態系を支えている。ここでの生態系とは、自然そして生命だけではなく、社会そして私たちの精神も含まれる。そしてアートも同様に、自然、生命、社会、精神が相互循環する生態系を支えるものではないだろうか。アートは人類が生み出したものだが、その始原となったのは、洞窟絵画に見られるように世界への畏怖や生存への祈り、つまり人間を超えた存在に向けたコミュニケーションといえる。

アートも本来は「コモンズ」、つまり人間だけでなく世界と関わるものだった。狩猟採集社会において人類は、日々の暮らしや祈りのために様々な物や表現を生み出してきた。やがて農耕社会とともに所有の概念が生まれ、絵画や彫刻も特定の政治、経済、宗教的なフレームに支配され始めた。その後の大航海時代には、ヨーロッパの国々が世界各地から宝物や(征服者にとって)珍しい品々を持ち帰り、それらを収集・陳列した「驚異の部屋」が博物館の起源となった(美術館は博物館の一つに分類される)。品々はオリジナルの文脈から引き剥がされ、所有者が空間的に「編集」し展示することで、その権力や嗜好を誇示するツールとなった。

初の市民のための博物館は、フランス革命後に誕生したルーブル博物館である。以後収蔵物は原則的に万人、つまり「コモンズ」としての財産であり、博物館はそれを保管し展示する場所でありシステムとしてある。アートマーケットやギャラリーがグローバルに稼働したのは「グレート・アクセレレーション」の時代以降で、そこでは個人や企業によるコレクションが話題を呼んでいる。しかし誰かに所有されても、アートは本来「コモンズ」であり、所有者は人類や世界の遺産を預かる立場なのではないだろうか。

アートはそもそも、モノに還元しきれない。世界への祈りや省察、美への感動など精神的なものの顕現であり、売買や所有はその一面でしかない。アートは水のように世界に浸潤するものであり、元来人間だけでなく人間以外のためのものとしてあった。私たちは、アートが本来もっている、人間のためだけではない、そして人間だけによらないアートのあり方を、あらためて抱擁する時期にいるのではないだろうか。

深刻な環境汚染や社会の非対称、ポストパンデミックの時代、そして戦争……。いずれも人間中心主義、とりわけ所有を基盤に起きている。人類は、根源的な生存への不安から、技術やアートを発達させてきた。しかし現在、不安が欲望を加速させ、止められない様相を呈している。科学・技術が発達し、倫理や哲学的な営為が積み重ねられてきた時代にいながら、人間もそれ以外の諸存在も、傷つきもがいている。

水やアートを「コモンズ」と見なすこと。それは同時に世界を、そして自らの存在をコモンズとして発見することでもある。それはまた、自然や社会、精神をケアし修復し、本来の息吹を回復するプロセスでもある。それは近代以前への回帰を意味しない。古来からの叡智に寄り添いながらデジタルの可能性を生かしていく、新たな「コモンズ」の創造であるだろう。

水を開く、波に委ねる、水になる!

遍在する水をめぐってその三態(液体、気体、固体)の循環を一つの空間内で実際に生成している作品が、三原聡一郎の《無主物 / Res Nullius》(2020)である。素材は、展示空間の空気中にある水分で(来場者から発される水分も含まれる)、天井と床にある装置が水の分子を液体に変化させ、それが凍り固体となり、気体へと戻るプロセスが続いていく。床に置かれた苔が、来場者とともに生命体として循環に関わっている。

 

三原聡一郎《無主物 / Res Nullius》(2020) Photo: 木奥惠三 Photo Courtesy: 日産アートアワード

 

空間が一つのクローズドな生態系を形成する本作のタイトル(無主物)は、福島第一原子力発電所事故で飛散した放射性物質の除去を裁判所に訴えられた東京電力の発言に由来するという。「飛散した放射能を除去する責任はない、なぜならそれは『無主物』であるから」(2011年8月)。「無主物」は法律用語で、「現に所有者の無い物をいい、過去において所有者がいたかどうかは問わない」という意味を持つ。*4

無主物という言葉から、コモンズを想起する。とはいえふたつの言葉が表すものは、似ているものの決定的に相反するように思われる。人為的な境界を超えて環境内に広がるイメージでは共通している。けれど無主物は測量や所有という人間による領土化が前提となっていて、コモンズはそもそも人間を超えている。

福島第一原発では、除染された汚染水が海洋放出される予定だという。残存するトリチウムの安全性を保障することは誰にもできない。それ以外の放射性物質が含まれている可能性もある。「風評被害」への懸念から地元の漁業関係者から反対の声もある。そして忘れていけないのは、放出が地域や国を超えた地球に関わる問題であることだろう。

昨年6月に三原聡一郎たちと初めてのサーフィンを福島県双葉郡岩沢海岸(J-ヴィレッジの下)で体験した。そして今年の3月11日、東日本大震災をきっかけに始まった三原の空白のプロジェクト関連企画「3.11に波にのろう」*5で、11年前のこの日を思いつつ、同じ場所で再びサーフィンに参加した。快晴でいい波の日で、ボードには立てないものの、波に身を委ねるかけがえのないひと時となった。

 

オンライン展覧会 『空白に満ちた世界』関連企画「3月11日に波に乗ろう」(岩沢海岸、縁側の家)でのサーフィン(2022年3月11日)

 

その2週間後には、文化人類学者の奥野克巳から、フィールドワークで荒川の源流から3日をかけて川を下り、東京湾に至ったと報告が届いた。*6「水になる」という言葉の、なんと瑞々しいことだろう!マレーシアの採集狩猟民プナンのフィールドワークを続けながら「人間を超える人類学」を探求する奥野は、コロナ禍の中、今年から開始した国内のフィールドワークで水を得た魚のようである。下流へ行くにしたがって、風景も水にも人の手が強まっていく。それを水の視点から感じることは、ヴィヴェイロス・デ・カストロの「パースペクティヴィズム」に接近するものだろう。

ニュージーランドでは、2017年春に政府が「川は生きた存在である」というマオリ族の主張を認め、川に法的人格を法律で認めたという。*7一つの生命体として(多様な動植物をアフォードする生きた環境であり、また水自体のダイナミズムによって)川が見なされたことを意味する。川や水を人間がモノとして制御するのではなく、生命的なものと見なす視点は、古来から世界各地でアニミズム的叡智として共有されていた。加えて現在、コンピュータを介在させた自然のシミュレーションや観察において、「生命」と「生命」の境界を容易に策定できないグラデーション的な状況に直面している。風や水など自然の流れも特定のリズムやパターンに沿って生成と分散を繰り返している。それらを生命的なものと見なすことはできないだろうか。

水は動植物のように知覚を持たないので「アフォーダンス」は適応できなさそうだと前述したが、そうも言えないかもしれない。加えて「知覚」や「生命」という概念自体も再検討する時期にあるのではないか。

現在、科学・技術の発達の中で「生命」「意識」「知性」などの概念が問い直されつつある。近代以降、人間だけの特権とされてきたものが、動植物やデジタル上の存在との関係の中、境界が策定しにくくなっている。思えば人間も、日々の思考や行動のほとんどは、意思や目的に根ざすというより、状況に応じたリアクションの連続である。人間以外の動植物、そして非生命とされる気象や川なども、ミクロ・マクロな時間や空間スケールでは生き物のように動的に変化し続けている。


*4 無主物
*5 オンライン展覧会「空白に満ちた世界」関連企画「3月11日に波に乗ろう」2022年3月11日、福島県双葉郡岩沢海岸(岩沢海水浴場)+縁側の家。
*6 DAMAGED PLANET(傷ついた地球)研究会【第5回フィールドワーク】2022年3月 水となって、荒川をくだる
*7ニュージーランドが川に『法的な人格』を認めた理由 – 聖なる力をもつ、先住民マオリの「祖先の川」」(「ナショナルジオグラフィック」、2020年3月号)

日本のコモンズ〜地勢、生態系、精神から

分水嶺は水を分かつ尾根だが、山においては稜線と分水界(異なる水系の境界線)が一致することが多いという。分水嶺は、古くは「水分(みくまり)」とも呼ばれていた。「み(水)」「くまり(配り)」、それは生活や生命の糧である「コモンズ」である水を分かち合い共有することだろう。

尾根に沿って各方向に流れた水は、合流して海へと注ぐ。そして海や大気を循環しながら混じっていく。山がちな日本には、急流が多い。川より滝だと感じる海外の人もいるという。近代以前は勢いよく流れる清流が山と海を結び、その流域に信仰や文化が形成されてきた。

本連載の「山々をめぐって——エネルギー・精神・いのち」では、多摩川源流にある神社に下流の村々からお参りに行く御嶽講を紹介したが、「講」のような互助システムが日本各地に存在してきた。この国ならではの「コモンズ」的なもので、講に加えて「入会地」や「結」も挙げられる。地層的に4つのプレートがせめぎ合う日本では、自然の恵みも災害にも川や水が関わってきた。日本の精神性も講や結、入会地というあり方も、水を基盤に生まれたはずである。

昨年から関わっているアートコモンズ「対話と創造の森」(長野県茅野市、かつての入会地にある)では、諏訪・八ヶ岳の自然やそこで育まれた精神性のリサーチやアーティストの滞在などを介して、アートを介した日本ならではの新しいコモンズを探索している。

日本には古来から、山岳信仰があった。和歌森太郎は、『修験道研究』(1942)において日本の山岳信仰は水に結びつくと述べている。スコラ哲学研究者の山内史朗は、生まれ育った山形県の湯殿山(出羽三山の一つで修験道の聖地、縄文時代以降の遺跡も)が水の神だと述べている。*8

日本は、独自の地勢から水に溢れた生態系をもち、それによって水に寄り添う精神性や信仰、文化が培われた。水は、時に災害をもたらす。しかし人間は、水のそのような側面を念頭に水と共存してきた。

しかし近代化の中で、水災害が肥大化、それが巨大なインフラ整備を次々と生み出してきた。水の制御が加速化する中、水本来の可能性が抑えられ、人々は水から遠ざけられた。いのちの源としての水との関わりが遮断されること、それは水そして自然全般を、ひいては人間自身を疎外することを意味する。

水問題は、あたかも水がどこにでも流れていくように、世界の紛争、貧困、環境、農業、エネルギー、教育、ジェンダーなどさまざまな分野に縦横無尽に関わってきます。——徳仁天皇 *9

水運の研究に発し、人々と水との関わりの歴史にも造詣が深い天皇は、水がまさに様々な分野に関わっていると記している。4月に開催された「第四回アジア太平洋水サミット(熊本+オンライン)」の開会式での講演では、水が生活を支えるだけでなく、人々の自然観や世界観にも大きな影響を与えてきたこと、水への感謝や恐れが心の清めや祈りの対象へと変化し、水を通じた信仰を生み出したことを日本やアジアの事例を挙げながら語られた。終盤では「全ての人々が豊かな水の恩恵を受け、暮らしを営むこと、それがアジア太平洋地域、全世界の繁栄と平和に繋がることを心から願う」と明言された。

生き生きとしたライフ(生活、人生、いのち)に必要不可欠なコモンズとしての水。「コモンズ」はまた、アートにおいても本質的なもののように思う。人間そして人間以外の多種多様な存在が闊達に活動し、関係していく世界。そのような世界をアフォードし、されるものとして偏在し循環していくアートの創造性。「コモンズ」としての水、そしてアート。それは自らが「水になる」こと、そして「アートになる」ことを想像することから始まるだろう。


*8 山内史朗『湯殿山の哲学』(ぷねうま舎、2017)
*9 徳仁親王『水運史から 世界の水へ』(NHK出版、2019)
*10 第四回アジア太平洋水サミット(2022/4/22-23 熊本+オンライン)。天皇の講演はZoomで行われた。

連載Ecosophic Future
エコゾフィック・フューチャー

四方幸子(キュレーター・批評家)の連載「エコゾフィック・フューチャー」では、フランスの哲学者・精神分析家フェリックス・ガタリが『三つのエコロジー』(1989)において提唱した「エコゾフィー」(環境・精神・社会におけるエコロジー)を、ポストパンデミックの時代において循環させ、未来の社会を開いていくインフラとしての〈アート〉の可能性を、実践的に検討し提案してゆきます。
 
Planning
四方幸子|YUKIKO SHIKATA

キュレーティングおよび批評。京都府出身。美術評論家連盟会長。多摩美術大学・東京造形大学客員教授、IAMAS・武蔵野美術大学非常勤講師。オープン・ウォーター実行委員会ディレクター。データ、水、人、動植物、気象など「情報のフロー」というアプローチからアート、自然・社会科学を横断する活動を展開。キヤノン・アートラボ(1990-2001)、森美術館(2002-04)、NTT ICC(2004-10)と並行し、資生堂CyGnetをはじめ、フリーで先進的な展覧会やプロジェクトを数多く実現。近年の仕事に札幌国際芸術祭2014、茨城県北芸術祭2016(いずれもキュレーター)、メディアアートフェスティバルAMIT(ディレクター、2014-2018)、美術評論家連盟2020年度シンポジウム「文化 / 地殻 / 変動 訪れつつある世界とその後に来る芸術」(実行委員長)、オンライン・フェスティバルMMFS2020(ディレクター)、「ForkingPiraGene」(共同キュレーター、C-Lab台北)、2021年にフォーラム「想像力としての<資本>」(企画&モデレーション、京都府)、「EIR(エナジー・イン・ルーラル)」(共同キュレーター、国際芸術センター青森+Liminaria、継続中)、フォーラム「精神としてのエネルギー|石・水・森・人」(企画&モデレーション、一社ダイアローグプレイス)など。国内外の審査員を歴任。共著多数。yukikoshikata.com

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