日々の業務に忙しく、食生活の乱れ、睡眠不足、運動不足などに陥りがちな特に若い世代のワーカーたち。気力と体力を維持するうえでウェルビーイングな暮らしが不可欠と分かっているものの、何から始めてよいかわからない、続かない──。 そんな悩みを抱えるヒルズワーカーに向けて森ビルでは、「日常に気軽に取り入れられる」ウェルビーイングプログラムを展開している。昨秋は、麻布台ヒルズ「Hills House」にて、生活を整えることで余力を生み出す「養生」の考え方のもと、食、睡眠、運動などの専門家を講師に迎えてウェルビーイングプログラムを開催した。 講座の一つを担当したのは、森ビルとの共創も多い長野県茅野市を拠点に食育活動などを行っている地産地消料理研究家・中村恭子さん。中村さんがウェルビーイング講座でレクチャーしたプログラム「週に1回・1食取り入れるだけでも食生活が向上する『腸を労る一汁一菜体験』」をここに再現。 体験したのは、ドイツ・ベルリンの美術大学3年生で、昨夏から1年間、東京のファッションブランドでインターン研修中の茂木サヨさん。麻布台ヒルズの「クスダ シャルキュトリ メートル アルティザン」の販売に携わるヒルズワーカーでもある(2025年3月取材時点)。
TEXT BY Kazuko Takahashi
PHOTO BY Ayako Mogi
食養生の基本は「どのように食べるか」
中村 「腸を労る一汁一菜体験」講座では、主に次のことについてお伝えしています。
・どのように食べるか(咀嚼・腸活・少食)
・箸の上げ下ろしと器の持ち方
・姿勢と呼吸を整える
・満腹感を数値化する
・感謝を捧げる
・五感を使って食べる
・思考や感情を言語化する
・咀嚼は一口30回
・一口は少なく
日本の伝統的な食文化と「食養生」の体験を通じて、日常に取り入れられる「食べ方」を習得していただき、心身の健康管理や健康増進に役立てていただければと思っております。
サヨ 楽しみです。どうぞよろしくお願いします。

中村 サヨさんには、実際に「食養生」に基づいた食事を召し上がっていただきますが、その前に、どのように食べるかについてお話します。食養生においては「何を食べるか」と同じくらい「どのように食べるか」を重視します。その基本は「咀嚼」「腸活」「少食」の3点です。
まず「咀嚼」ですが、よく噛むことで出る唾液には、穀物など炭水化物を消化する酵素が含まれます。口は第一の消化器官ですので、よく噛むほど消化が促され、そのぶん内臓の負担が軽減されます。また咀嚼により「幸福ホルモン」と呼ばれる脳内物質・セロトニンの分泌が活発になるため、幸福感や心の平穏につながる効果もあります。反対によく噛まないと唾液の自浄作用が減退し、虫歯や歯周病になりやすくなります。日常的に咀嚼を増やす方法としては、虫歯になりにくい甘味料・キシリトールを使ったガムを噛むと良いと思います。ぜひ試してみてください。
サヨ はい。
中村 腸内バランスを整える「腸活」は、食事の見直しが第一歩です。腸内環境が悪いと、便秘や下痢、肌荒れなどにつながります。また、免疫力が低下し、風邪や感染症に罹りやすくなり、悪くすると大腸ガンのリスクも。ちなみにセロトニンの90%は腸で作られるため、腸内環境の悪化は「幸福ホルモン」の減退、ひいては精神不安やうつ病の原因になる可能性もあります。
サヨ 幸福ホルモンの90%は腸で!?
中村 そうなんです。しかもセロトニンは良質な睡眠に欠かせないメラトニンの材料になるので、セロトニンの減少は不眠の原因にもなります。
サヨ 腸活にいい食事というのは、どのような食事なのでしょう?
中村 日本古来の精進料理をイメージしていただけると分かりやすいと思います。今回は食養生の献立として、半膳の玄米ご飯、季節の野菜・海藻・豆腐を具材とするお味噌汁、季節の野菜と豆腐を炒った炒り豆腐、ごぼうの味噌漬けをご用意しました。お膳をご覧になって量が少ないと思われますか?
サヨ そうですね(笑)
中村 食養生の基本である「少食」は、最初にお話した「咀嚼」を十分にすることで、実現しやすくなります。よく噛むとゆっくり食べることにつながり満腹中枢を刺激するので食べ過ぎを予防できます。食べ過ぎは朝食・昼食後の眠気や集中力の低下、夕食後の睡眠の質の低下を引き起こし、寝起きの悪さや、疲れが取れないなどの症状につながります。
サヨ なるほど。
中村 次に、箸の上げ下ろしと器の持ち方です。いわゆる和食の作法で、次のような手順になります。
箸の上げ下ろし
利き手でお箸の上部を持ちます。
次に、反対の手に箸先を預けます。
利き手で、お箸を使いやすいように持ち直し、食べ物を口に運びます。
次に、お箸を箸置きに戻します。
利き手と反対の手に、箸先を預けます。
利き手でお箸を持ち直します。
お箸を箸置きに置きます。
器の持ち方
お味噌汁の器を両手で持ちましょう。
次に、利き手と反対の手で親指を器の飲み口の部分に当てて、
残りの4本の指を揃えて底の部分を持ちます。
利き手でお箸を持ちます。
器の底の4本の指のいずれかに箸先を預けます。
利き手でお箸を持ち直し、お箸を使って食べます。
では器とお箸を戻す練習をしましょう。
まず、器の底の4本の指のいずれかに箸先を預けます。
利き手でお箸を持ちなおします。
お箸を箸置きに戻します。
器を両手で持ち、置きます。
サヨ このような所作は初めて経験しました。慣れないのでぎこちなかったですよね(苦笑)
中村 いえいえ、お上手でした。和食の所作は、茶道のおもてなし文化に見られる所作に通じるところが多いです。茶道では、袱紗と呼ばれる絹の布で道具を清める所作を行います。清める所作には、道具を大切に扱うだけでなく、茶を点てる側の心を鎮める意味もあるそうです。その思想は、雑念を鎮めて「今」に集中する「マインドフルネス」の思想に通じます。和食の所作には、マナーとしての要素だけでなく、食べるスピードを整え、丁寧に食事に向き合う習慣を促す効果もあります。また、一つ一つの所作を意識することでマインドフルな食事が実現します。
五感を意識すると食事の満足度が高まる
中村 次に、姿勢と呼吸を整える。今回は椅子に座っての食事ですので、食卓と体の間隔を拳1つ程度あけ、足裏全体を床につけます。そして背筋を伸ばし、ゆっくりと鼻から息を吸い、鼻(もしくは口)から息を出します。これを5回程度繰り返します。続けて満腹感を数値化する。空腹が1、満腹が10として、食前の満腹感を数値化してみてください。
サヨ 少しお腹がすいているので、3くらいでしょうか。
中村 3ですね。覚えておいてください。次に、感謝を捧げる。この講座では、手を合わせて「食材」「作り手」「自分自身の健康」に感謝することを勧めています。「作り手」は、食材を育てた人をはじめ、流通にかかわった人、調理にかかわった人などを含みます。感謝することで「心が温かくなる」「自分や人に優しくなれる」とおっしゃる受講者の方が多く、私自身もそのように感じます。
サヨ (手を合わせて)食材に、作り手に、自分自身に感謝します。
中村 感謝を捧げたらいよいよ実食となりますが、五感を使って食べることに集中していただきます。最初の一口だけ、五感を使う食べ方をナビゲートしますね。まず、お味噌汁の器を両手で持ち、温かみなどを感じます(触覚)。次に食材の種類、色、形などを観察します(視覚)。さらに食材の香りを嗅ぎます(嗅覚)。どんな香りがしますか?
サヨ ごぼうの香りがします。
中村 湯気も鼻先に感じるかと思います。次に、お味噌汁をゆっくりと口に含み、飲み込まずに3回ゆっくりと噛み、噛む音を意識します(聴覚)。そして口に含んだお味噌汁をゆっくりと喉の奥に送り込み、味わいます(味覚)。以上が五感を使った食べ方になります。
サヨ 五感を意識して食事したことなどなかったので、とても新鮮です。
中村 五感を意識して食べることで、食材本来のおいしさを感じやすくなり、食事の満足度が高まります。これは心の安定にもつながり、ストレスの軽減や食習慣の改善にも効果的です。また、人は常日頃から思考や感情をめぐらせているものです。そこで、思考や感情を言語化する。「自分はお腹がすいている」「食後に控えている仕事が気になる」など、よぎった思考や感情を頭の中で言語化してみてください。
サヨ 思考や感情を言語化する?
中村 はい。思考や感情は「お腹がすいた」→「夕飯は何にしよう」→「スーパーに行かなくちゃ」などととりとめもなく連鎖していきます。言語化することで連鎖が断ち切られ、目の前の食事に集中できるようになるのです。
サヨ そうなんですね、面白いです。
中村 では、実食していきましょう。よく噛むことの効用については先に触れましたが、具体的には、咀嚼は一口30回が目安です。もう一つ意識していただきたいのが、一口は少なく。箸先2cmだけを使うようにすると、食材をたくさん挟めないので自ずと一口の量が小さくなります。少量をよく噛むことで胃腸に優しい食べ方となります。
サヨ (実食約5分経過)お豆腐をよく噛むと、大豆の味がしっかり分かります。
中村 どれも薄味にしてありますが、物足りないと感じますか?
サヨ いいえ、とてもおいしいです。
中村 薄味なぶん、食材の味を感じやすいのではないかと思います。咀嚼、所作、五感を意識すると、食べるのにとても時間がかかると思いませんか?
サヨ はい。玄米ご飯もお味噌汁もおかずもまだいっぱい残っています(笑)
中村 どうぞ食事を続けてください。その間に、もう少し講義をしますね。食養生は、漢方や薬膳、アーユルヴェーダなど東洋医学のいずれの分野でも重視され、「病気の人のための薬や食事」というよりは「健康な人が予防のために取り入れる食事法」として広まりました。日本ではマクロビオティックという思想があり、発祥は明治時代に陸軍医の石塚左玄が提唱した食事法にさかのぼります。四季のある温帯地域に暮らす民族に適した食事プログラムを体系化したもので、日本人は日本の食材を使った和食が合うとしています。このマクロビオティックの考え方は、日本の食養研究の第一人者たちを通して海外に伝えられ、アメリカで「マクガバンレポート(慢性病と栄養に関する調査報告書)」に取り上げられたことで、世界に知られるようになりました。
サヨ マクロビオティックについては知っていましたが、日本が発祥とは知りませんでした。
中村 そういう方は多いと思います。マクロビオティックにおける食養生の考え方は、次の3つ。「一物全体」「身土不二」「陰陽のバランス」です。
「一物全体」とは、生命あるものはすべて調和が保たれ、調和のとれた全体を食べることで栄養バランスが取れるという考え方です。リンゴなら皮ごと、魚なら頭から尻尾まで、ご飯なら精米前の玄米、つまり食材を丸ごといただくということです。「身土不二」とは、人は生まれ育った土地や環境と一つであり、その土地で採れた季節の穀物や野菜を取り入れることで健康になるという考え方です。「陰陽のバランス」とは、自然界やすべての物事には陰と陽の性質があり、例えば夏に採れる野菜は体をクールダウンさせ、冬に採れる野菜は体を温める作用があるなど、陰陽の性質を知りバランスを取ることが大切という考え方です。なんとなくイメージできますか?
サヨ はい。
中村 マクロビオティックにおける食養生の考え方では、肉・卵・乳製品を食べる頻度は月に2、3度、魚介類・甘味・種子・ナッツ・果物を食べる頻度は週に2、3度、植物油・調味料・ふりかけ(ごま塩やゆかり)・豆・豆製品・海藻・野菜・漬物・精白しない穀物は日常的に食べる、というのが理想的としています。明治発祥の思想ですから必ずしも現代の日本人に合ったものではないと捉えていただいて良いと思いますが、大まかな目安にはなるはずです。
サヨ 「腸を労る一汁一菜」は日常食に適した食材を中心に使っているのですね。
中村 その通りです。日本人の民族体質を考えて、穀物を中心に野菜や豆製品、海藻などの国産の食材を用い、不足しがちなビタミンやミネラル、食物繊維、発酵食品を補うメニューになっています。また、味付けにも日本の伝統的な製法で作られた味噌や醤油などの発酵調味料を用いています。長期熟成されて作られたものは味わいが深いため、過度な味つけはせずに素材の味わいを生かして仕上げることができます。
食養生を体験したら「頭の中が満腹」に
サヨ (箸を置いて)完食しました!
中村 きれいに召し上がっていただけましたね。では、食後のセレモニーをしていきましょう。今の満腹感を数値化してください。
サヨ 食事前の3から、今は7くらいになりました。
中村 最後に、もう一度感謝を捧げましょう。
サヨ (手を合わせて)食材に、作り手に、自分自身に感謝します。ごちそうさまでした。
中村 実際に食べてみて、食事の量はいかがでしたか?
サヨ お腹がいっぱいになったわけではありませんが、少量を時間をかけて食べていくフレンチのコース料理を味わったような満足感があります。「頭の中が満腹」という感覚です。
中村 頭の中が満腹! 初めていただいたご感想です。過去には「若い頃にピラミッドに登ったときと同じくらい感動的な体験でした」という驚くようなご感想や、「親が作ってくれる料理に感謝するようになった」という心温まるご感想をいただいたことがあるのですが、サヨさんのご感想もとても興味深いです。よく噛んで食べたことでセロトニンがきちんと出て、頭の中が満たされたのだと思います。
サヨ 私はベルリンで大学生活を送っている時は一人暮らしなのですが、1日1食や2食のこともざらで、しかも毎日ほとんど同じものを食べているんです。
中村 どんなものを?
サヨ おいしいお肉は高額なので、安く手に入るオーガニックの卵ばかり食べています。自分でゆで卵や目玉焼きを作って、あとはブロッコリーを炒めたものと、ご飯。主にこの3種類です。
中村 バランスは悪くないですし、自炊していらっしゃるのもすばらしいと思います。
サヨ そうですか。ただ、夜にまとまった量を一気に食べるという感じで、しかも「早食い」や「ながら食い」が多くて……。今回講義していただいた食べ方とは真逆かもしれません(苦笑)

中村 人間の体は昼の時間帯がいちばん消化器官の機能が高まるので、朝食と夕食は昼食よりも少食を心がけると良いと思います。体に良い食事の内容は、年齢、性別、体型のほか、環境や文化的背景による民族体質も大きく関係します。日常的に口にしているものを咀嚼や五感を意識して食べることで、自分に合う食べ物は何か、適量はどのくらいか、体がどう変わっていくのかをぜひ発見してみてください。
サヨ はい。
中村 私の講義に参加される方は、ヒルズワーカーをはじめ活動的なワーカーが多いのですが、やはり早食いや作業しながらの食事による咀嚼不足が多く見受けられます。今回召し上がっていただいたような食事を毎日というのは忙しいワーカーにとって難しいでしょうし、無理なく続けていただきたいので、講座ではいつも「調整食」として週に1回ぐらい取り入れてみましょうとお伝えしています。
サヨ 例えば日本のスーパーやコンビニで買える食養生の食材について教えていただけますか?
中村 納豆、味噌、ぬか漬けなどの発酵食品、無添加のだし汁やミネラルが豊富なおぼろ昆布、無塩のナッツ、腹持ちが良くエネルギー源になる干し芋などは、手に入りやすい食材です。また、簡単に作れるものとしては、胃腸を整える長芋のとろろご飯、消化が良く内臓に優しいだし汁茶漬け、栄養バランスが良く体を温める具だくさんのお味噌汁などがあります。果物類は食後よりも空腹時に食べた方が栄養素の吸収率が高まります。また、果物は糖質(食品に含まれる糖質の吸収度合いを示す値)が低いものが多く、糖質が比較的高いものでも食物繊維と水分を含んでいるため砂糖の甘みよりも満足感があり、血糖値の上昇が緩やかであることが知られています。
サヨ ベルリンの大学に戻るまでもうしばらく日本にいられるので、教えていただいた食材を買って試してみたいと思います。
中村 「腸を労る一汁一菜」講座はいかがでしたか?
サヨ 和食の作法をまったく知らなかったので、最初は緊張していたのですが、途中から楽しくなりました。五感を使って食材と向き合う体験もとても新鮮でした。
中村 忙しい日々の中で、つい「何を食べるか」ばかりに意識が向きがちですが、「どう食べるか」が非常に大切であることをご理解いただけたかと思います。よく噛み、五感を使い、丁寧に味わうことで、食事が体を整える時間に変わります。日本の食文化には私たちの健康を支える知恵がたくさん詰まっています。食養生の体験がその「気づき」につながったら幸いです。なぜなら、私自身を含めた現代人が抱えている漠然とした不安や焦りを解放する一つの手段として、娯楽や美食といった興奮作用を伴うものに偏りすぎず、心静かな時間を持つことが大切だと感じているからです。忙しく活動されているワーカーの皆さんにこそ、心と体に優しい「食べ方」を取り入れていただけたらと思っています。

中村恭子|Kyoko Nakamura
健康管理士/料理研究家/日本和装教育協会師範 2011年に地産地消の暮らしを実践すべく長野県へ移住。以後、健康管理士として予防医療の視点を取り入れ、日本の伝統文化に根ざした食育セミナーを開講している他、料理研究家としてメディアでの執筆活動や健食産業に関わる。2015年に一般社団法人蓼科塾を設立。食育事業を主軸に、地域と連携した食に関わる事業やアドバイザリー事業をおこなっている。
ウェルネステレワーク
2018年、茅野市は森ビルの協力により茅野駅直結のコワーキング施設「ワークラボ八ヶ岳」をオープン。茅野市や地元の企業・団体は、虎ノ門地区のインキュベーション拠点「ARCH Toranomon Hills」に参画する大企業のアセットやテクノロジーとの共創を探り、ARCH Toranomon Hillsの参画企業は、豊かな自然に恵まれ、デジタル田園健康特区に指定されている茅野市の最新の取り組みや、地方都市が抱える課題を新規事業創出に活かすなど、2拠点間の連携や人的交流が進められている。
2021年からはビジネスパーソン向けのウェルネス体験・研修プログラム「ウェルネステレワーク」の企画開発がスタート、事業化に向けてPoCが進められている。昨秋は、10月28日〜11月1日の5日間にわたり、麻布台ヒルズの「Hills House」* にて、日常に取り入れられるウェルビーイングのプログラムを提供する「養生Week」を開催。中村恭子さんは10月29日に1時間の講義を行ったほか、期間中にHills Houseのカフェテリアで提供される「養生Week限定ランチ」のメニュー考案にも携わった。

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