薬草園跡を利用した一風変わった「蒸留所」が、千葉県の房総半島に設立された。名前は〈mitosaya大多喜薬草園蒸留所〉。クラウドファンディングが始まったばかりのこのプロジェクトは、誰が、どのような思いで立ち上げたのだろうか? そして、都市生活者にとって小さな蒸留所が「ご近所に」生まれる意味とは?
TEXT BY TOMONARI COTANI
ボタニカルブランデーってなに!?
房総半島のほぼ中央に位置する、千葉県夷隅郡大多喜町。豊かな自然(=町の70%を森林が占めている)と、歴史(=戦国時代に築かれた大多喜城を抱え「房総の小江戸」とも謳われる)をもつこの地に、千葉県立薬草園が誕生したのは1987年のこと。約500種類の薬用植物が植えられた5000坪の施設は、県から大多喜町に譲渡された後、2015年にいったんその役目を終え閉園した。
2017年、この敷地を大多喜町から引き継いだのが、江口宏志が代表を務めるmitosaya株式会社である。江口は、2002年にブックショップ「UTRECHT(ユトレヒト)」を立ち上げ、09年からは「THE TOKYO ART BOOK FAIR」を企画・開催するなど、00年代の東京のカルチャーシーンの一翼を(本人がなんと言おうと)確実に担っていた人物だ。
その江口が、UTRECHTとTHE TOKYO ART BOOK FAIRの代表を辞し、蒸留酒造りの修行をするためにドイツへと渡ったのが2015年(そのいきさつに興味がある方はこちらを)。一年後、修行期間を経て帰国した江口は、全国を足繁く回り始める。「高品質なボタニカルブランデーを造る蒸留所」を建てる場所を探すためである。
ボタニカルブランデーとは、ヨーロッパでは「eau de vie(オー・ド・ヴィー/命の水)とも呼ばれる、フルーツやハーブから作る蒸留酒のこと。梨やブドウ、ベリーといった果物を発酵させ、複数回蒸留することで生まれる、豊潤さとクリアさを併せ持つフルーツの芳香を楽しめる蒸留酒だ。
「ドイツで修行した蒸留所では、ブラッドオレンジやヘーゼルナッツを材料にした蒸留酒も造っていました。その製造過程を体験するなかで、日本の果実や植物を使ったボタニカルブランデーを造ってみたいという思いが膨らんでいきました」
ファーム・トゥ・テーブルの蒸留所
その思いを叶える場所として江口が最終的に選択したのが、千葉県夷隅郡大多喜町の薬草園跡地だった。江口はここを、〈mitosaya大多喜薬草園蒸留所〉と名付ける。mitosayaの由来は、実りの象徴である「実」と、実を守る外側の被いである「莢(さや)」。果実だけではなく、葉や根や種、そしてときには莢までも使い、この場所、この蒸留所でしかできないボタニカルブランデーを生み出す組織には、うってつけの名前かもしれない。
「運よく、大多喜町から薬草園跡地を借り受けることができました。広大な敷地内には、3棟の建物と2棟の温室、そして30年のときを経て十分に成長した植物や果実があります。まずは、香りや味を基準に生産品目を選定していく予定です。その一方で、野生種や市場外の果物なども積極的に活用していきたいと思います。そのためにはもちろん、さまざまな分野のプロフェッショナルたちの力をお借りすることなります」
目下の課題は薬草園の改修、そして肝心要の蒸留場の設営だが、こちらも光明が見えている。クラウドファンディングでの資金調達を試みたところ、開始から4日目となる6月23日の時点で、目標額の10,000,000円に対し40%を超える勢いなのだから。
江口は修業先のドイツで、口に含めばフルーツの芳香が立ち上がる繊細で複雑な味わいは、ファーム・トゥ・テーブル、つまりは生産と消費が物理的に近いからこそもたらされるものだと確信したという。mitosaya大多喜薬草園蒸留所がある大多喜町は、東京から車でおよそ1時間半のロケーション。そこで生み出された豊潤なる「命の水」を口にする感覚は、いろいろな刺激に慣れた都市生活者にとっても、得がたい体験となるに違いない。
「得がたい体験と言っても、楽しみなのは酒飲みの人だけでしょ?」と思うなかれ。東京のアート&カルチャーシーンの担い手であった江口が、ひょんなきっかけで蒸留酒の製造に興味をもち、情熱を傾け、その後の行動へとつなげていくプロセスは、都市で生活を送る人々に、さまざまな示唆を与えてくれるはずだからだ。実際、本業(仕事)以外の活動に興味をもっていたり、効率ばかりを求める価値観に疲れたり、以前ほど消費に充足感を得られない、といった思いを少しでも抱いている人ならば、江口のストーリーから、自分なりのヒントを少なからずみつけることができるはずだ。
mitosaya大多喜薬草園蒸留所の本格稼働は、2017年秋の予定。“最初の顧客名簿”の余白はまだ60%ほど残されているが、徐々に埋まりつつある。酒飲みの方もそうではない方も、このストーリーに少しでも引っかかるものを感じたのなら、早めに行動した方がいいかもしれない。
mitosaya
代表は、オー・ド・ヴィーの本場である南ドイツの蒸留所スティーレ ミューレにて蒸留家のクリストフ・ケラーに師事した江口宏志(写真)。事業・運営のサポートを石渡康嗣(WAT)、醸造技術サポートを朝霧重治(COEDOブルワリー)、植物の植生計画や管理を井上隆太郎(Grand Royal Green)、蒸留施設と関連施設の建築設計・監理を中山英之建築設計事務所、インテリアデザインを野本哲平(民具木平)、ロゴ・サインなどのデザイン&アートディレクションを山野英之(高い山)、webデザイン&アートディレクションを谷戸正樹が手がけている。
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