ARCH PARTNERS TALK #30
総合化学メーカーartienceはなぜ、日本初のマテリアル特化型イノベーション拠点をいまオープンさせたのか?——artience × WiL 三吉香留菜
大企業の事業改革や新規事業創出をミッションに虎ノ門ヒルズにて活動を展開するインキュベーションセンター「ARCH Toranomon Hills(アーチ)」。企画運営は虎ノ門ヒルズエリアにおいてグローバルビジネスセンターの形成を目指す森ビルが行い、米国シリコンバレーを本拠地とするWiLがベンチャーキャピタルの知見をもって参画している。WiLの三吉香留菜氏が、artienceの新拠点を訪問し、髙橋隼人氏に同社の取り組みについて伺いました。
TEXT BY Kazuko Takahashi
PHOTO BY Ayako Mogi
明治創業の東洋インキは総合化学メーカーartienceへ
三吉 1896(明治29)年創業の東洋インキは、2024年1月1日に社名をartienceへと変更しました。また、2025年10月30日には、東京メトロ京橋駅直結の複合施設・京橋エドグラン29階にて、日本初のマテリアル特化型イノベーション拠点「Incubation CANVAS TOKYO」をオープンしました。今回はこちらにお邪魔し、artienceの新規事業創出部門であるインキュベーションセンター所長の髙橋隼人さんに同社の取り組みについて伺っていきたいと思います。

「Incubation CANVAS TOKYO」内のコワーキングスペース(Photo Courtesy: artience)

「Incubation CANVAS TOKYO」内のセミナールーム(Photo Courtesy: artience)
三吉 今回は御社の歴史に敬意を表してインキ柄のブラウスを着てきました。
髙橋 ありがとうございます。私自身はインキ関連の事業に携わったことがないのですが(笑)
三吉 そうなんですね。確かに御社はインキ以外の事業も幅広く展開していらっしゃいます。
髙橋 はい。それが社名変更の理由でもあります。当社は今年で創業130年を迎え、その長い歴史の中でインキのメーカーから総合化学メーカーへと成長を遂げてきました。社名変更は業態の多角化を改めて社内外に示す意図とともに、企業改革の決意表明でもありました。新社名artienceは、人の感性や心に寄り添う「art」と、長年培ってきた技術や素材や品質を示す「science」をかけ合わせた言葉です。当社の強みであるartとscienceの融合によって生まれる「感性に響く価値」を世界に提供していくことで、心豊かな未来の実現に貢献していくという思いを表しています。
三吉 御社の事業について改めてご紹介いただけますか?
髙橋 売上のポートフォリオを大きく4分割すると、1つ目は創業来の事業である、新聞や雑誌といった紙用の印刷インキ。2つ目は、食品などのパッケージ用のインキです。

髙橋隼人|Hayato Takahashi 2003年に新卒で東洋インキ製造(現artience)に入社。R&D部門で機能性コーティング剤の研究・開発ののち事業化に成功、事業移管・工場立ち上げ・営業・マーケティングなどを経験し、2023年に新設されたインキュベーションセンター所長に就任。グループの新規事業創出をミッションに、企業風土改革・オープンイノベーション活動を推進中。
三吉 例えば、私たちがスーパーマーケットで買い物をしていて、御社のインキが使われているパッケージをどの棚で多く見ることができますか?
髙橋 商品をランダムに3つ手に取ったとすると、そのうち1つは当社のインキが使われたパッケージの可能性が高いと思います。
三吉 そんなにも!
髙橋 3つ目は、ペットボトルのフタや、車のバンパー、液晶テレビのカラーフィルターなど、プラスチック材などを着色する色材です。4つ目は、建築用の塗料、工業用の接着剤や粘着剤、缶のコーティング剤など、ポリマー(樹脂)の技術を活かした製品群です。
三吉 缶のコーティング剤というのは?
髙橋 例えば、缶飲料をただのアルミ缶に入れると、飲む時に金属の味や匂いがしてしまうので、それを防ぐためにコーティング剤を施すのです。ちなみに三吉さんはアサヒスーパードライの生ジョッキ缶をご存じでしょうか。
三吉 缶のフタを開けると、きめ細かい泡が自然に出てくるビールですよね?
髙橋 はい。あの商品には当社の特殊なコーティング技術が使われています。
三吉 そうなのですね。今ご紹介いただいたようにさまざまな領域でartienceの技術が活躍しているわけですが、グループを率いる髙島悟社長は、社名変更と同時に「第2の創業」を掲げ、企業変革と新たな価値創造への強いコミットメントを表明しておられます。

髙橋 髙島社長が常々語っているのは「ゆでガエルになるな」ということです。つまり社会環境のめまぐるしい変化に対応するためには、従来のビジネスモデルだけでは不十分であると。
三吉 インキュベーションセンターは髙島社長直轄の組織だそうですが、髙橋さんはどのような経緯で所長に就任されたのですか?
髙橋 私はずっと技術部門にいたのですが、2023年の1月に突然社長室から呼び出しがありまして、「来年から新規事業の専門組織を立ち上げるつもりなので、加わってほしい」と髙島社長から言われました。
三吉 先ほど「インキ関連の事業に携わったことがない」とおっしゃっていましたが、以前は技術部門でどのようなお仕事を?
髙橋 2003年に入社以来、約20年間ずっとポリマー関連の研究を行っていました。製品の強度を強めたい、熱に強くしたいなど、多様なニーズに対して最適なポリマーを創り出す研究です。私は主に、スマートフォンに傷や指紋がつくのを防いだり、フラットパネルディスプレイの光の反射を防いだりするコーティング剤の研究開発を行っていました。
三吉 スマートフォンやフラットパネルディスプレイが急速に普及し始めたのは2008年ぐらいだったと記憶しています。ということは、もともと研究していた技術を新興の製品に転用したということでしょうか?
髙橋 そうです。以前から続けてきた基礎研究がスマホやフラットパネルディスプレイに活かせるということで、研究部門から新設の部署に事業移管をしました。その流れで自分も事業の立ち上げに参加し、新しい技術について知っている人が少なかったので、営業やマーケティングにも携わりました。
三吉 ガラケーからスマホへの移行は一気に進みましたから、それに伴ってコーティング剤も需要の伸長が著しかったでしょうし、営業の仕事も忙しかったのではないでしょうか。
髙橋 そうですね。また、フラットパネルディスプレイに関しては、部材を製造しているのが主に中国、韓国、台湾になりますので、営業の仕事で海外に赴くことも多かったです。
「イノベーター」「サポーター」「フレンズ」が革新を支える風土づくりに注力
三吉 髙橋さんが当事者であるように、新規事業の探索は御社の中で常にあったと思います。専門組織の立ち上げに至った背景についても伺いたいです。
髙橋 新規事業を探索する試みは無数にありましたが、その多くは各部署からメンバーを集め、それぞれ自分の仕事と兼業で携わる形でした。それではなかなか成果につながりにくいという課題意識がある中で、企業改革の一環として専任の部署が立ち上がりました。最初のメンバーは私を含めて3人でした。
三吉 皆さん技術部門の方ですか?
髙橋 いいえ、技術畑出身は私だけで、あとの2人は営業畑出身です。
三吉 専門組織としてどんなことから始めたのでしょう?
髙橋 私たちが与えられたミッションは「新しい事業を生み出す」ということだけで、ゼロからのスタートでした。経営陣は当初、3人のアイデアの中から可能性のあるものを順次事業化していくサイクルをイメージしていたと思いますが、それではできることは限られると私たちは考え、最初の半年間はとにかく社外に出て、他社の話を聞いたりセミナーに参加したりしました。そうした中で一つ確信したのは、いくら良いアイデアがあっても、それをサポートする社員のマインドや社内の風土が醸成されていなければ、決して上手くいかない、ということでした。

三吉 よくわかります。私はWiLの一員として大企業のイノベーション創出支援を行っていますが、「社内の支援ムードが希薄なために、いざ挑戦してみても孤立してしまう」という新規事業担当者のご苦労をよく見聞きしているからです。
髙橋 ですから私たちは、まず社内の風土づくりに注力しました。具体的には、例えばイノベーター育成プログラムを実施し、できるだけ多くの参加者を募る。あるいは、気軽に応募しやすいビジネスアイデアコンテスト(以下、ビジコン)の環境を整える。あるいは、自分たちが聞いた講演の中で「経営陣も含めて多くの社員に聞いてほしい」と思う内容があれば、その講演者を社内に招いてセミナーを開く。あるいは、長年の自前主義から脱却するため、スタートアップとの共創などオープンイノベーションの可能性を探る。こうしたことから始めたのです。
三吉 一方で、企業風土というのは、営業の数字が積み上がっていくようには明確なKPI(重要業績評価指標)が示せません。サブ指標としてビジコンの応募者数やセミナーの聴講者数は確認できるものの、その数が積み上がったとして、はたして企業の利益につながるのか、といった見方もあると思います。
髙橋 おっしゃる通りで、実際、目に見える成果を急ぐ社内の声もあります。ただ、3年間の活動を通して「企業風土づくりが最優先」という信念はむしろ揺るぎないものになりました。風土づくりのKPIをあえて言葉にするなら、良き理解者、良き協力者が社内にどれだけ増えたか、ということだと思っています。
三吉 全員がイノベーターである必要はないんですよね。反対せずに見守ってくれる人、あるいは手助けをしてくれる人が、社内にどれだけいるか。とても重要なご指摘だと思います。
髙橋 私たちは「イノベーター」「サポーター」「フレンズ」と分けて呼んでいます。イノベーターは、言われなくても推進してハブになる人。サポーターは、言われれば協力する人。フレンズは、新しいチャレンジを理解し、足を引っ張らない人。
三吉 足を引っ張らないというのは本当に大事なことです。ちなみに髙橋さんが新規事業を立ち上げた当時、やりにくいと思ったことはありますか?
髙橋 既存のメイン事業とは違う分野だったので、比較的やりやすかったです。
三吉 メイン事業との違いを言語化するとしたら?
髙橋 そうですね……。守るべきものが大きいか、大きくないか、でしょうか。
三吉 メイン事業には多くのお客様がついていて、長く培われてきた製品への信頼もある。確かに守るべきものは大きく、新しいチャレンジや失敗がしにくい環境と言えます。チャレンジや失敗を恐れないイノベーター、サポーター、フレンズを増やすには、何が必要だと思いますか?
髙橋 “危機感”だと思います。イノベーションの理論としてよく「両利きの経営」(既存事業を磨き上げる「知の深化」と新規事業を創造する「知の探索」をバランス良く行う経営手法)の重要性が語られますが、これはトップが発信しないとなかなか浸透しにくいものです。そういう意味で言うと、当グループの髙島社長は強いイノベータマインドと危機感をもってディフェンシブなムードを変えようと社内に発信し続けています。

graphic recording by Karuna Miyoshi
三吉 3年にわたる活動を通して、イノベーター、サポーター、フレンズがそれぞれ増えてきた実感はありますか?
髙橋 活動する中で、グループの各事業会社に頼れる相談相手が増えていて、「この案件なら、あの人が相談に乗ってくれる」と、顔が浮かぶようになってきました。ビジコンの応募も増えていて、応募者の年代は20代から60代までさまざまです。ビジコンはインキュベーションセンターができる以前に2回ほど開催していたのですが、いずれも練り込まれた企画書の「一発勝負」で、審査員はすべて社内の役員でした。今はその仕組みを見直してエントリーシート1枚で応募できるようにし、新規事業開発を専門とする会社に伴走支援をしていただいています。
三吉 どういったテーマの応募が多いのですか?
髙橋 自社の事業に関係したテーマもあれば、まったく関係ないテーマもあります。新規事業の発掘以前に、企業風土の醸成を第一の目的として設計していますので、どんなテーマでも歓迎しています。
三吉 新規事業創出の活動は3人から始まったということでしたが、現在は何人くらいに?
髙橋 風土づくりに取り組むメンバーが7、8名、事業化に取り組むメンバーが10数名、合わせて20名余りです。
三吉 風土づくりの一環として、長年の自前主義から脱却するためにオープンイノベーションの可能性を探る、というお話がありましたが、それについては進展がありましたか?
髙橋 はい。まず大きかったのは、大企業の新規事業担当者が集まるARCHへの入会です。オープンイノベーションの出会いの場としても、ビジコンのヒアリングなどにおいても有意義な場となっています。その一方で、スタートアップを対象としたソーシング(人材・製品・サービス・資材などを提供するサプライヤーを開拓・選定・交渉するプロセス)の可能性も探っています。
素材・化学系の企業やスタートアップの出会いの場を創出し、新規事業の可能性を探る
三吉 ソーシングの話をぜひ伺いたいと思っていました。
髙橋 最初はスタートアップとのマッチングイベントに足しげく通いました。ただ、スタートアップの大半がSaaS(Software as a Serviceの略。インターネットを介してソフトウェアを提供するクラウドサービスの総称)系や、ディープテック(地球規模の社会課題を解決する可能性を秘めた科学的な発見や革新的な技術)系で、artienceの事業とマッチしやすい素材・化学系のスタートアップと出会う確率が非常に低いんです。ほかの総合化学メーカーも、マテリアル系のシーズを持っているスタートアップや大学も、同じように出会いの場が少ないという悩みを持っていました。であれば、マテリアルに特化した出会いの場を自社で作ったらどうかということになりました。
三吉 その拠点としてIncubation CANVAS TOKYOが誕生したわけですね。
髙橋 ここはもともと社員が自由に使えるフリースペースだった場所で、約900平米の広さがあります。
三吉 Incubation CANVAS TOKYOでは具体的にどのような活動を行っているのですか?

髙橋 素材・化学系の企業やスタートアップのマッチング、アカデミアやスタートアップのピッチ開催、マテリアルに関するセミナー、イノベーター育成プログラムなど、週に3、4回は何かしらのイベントを行っています。現在25社にのぼるパートナー企業にもそれぞれの得意分野を活かしたイベントを開催していただいています。
三吉 東京駅から徒歩5分というすばらしい立地ですので、海外の方にも集まってほしいとお考えですか?
髙橋 もちろんです。それもあって、アメリカのベンチャーキャピタルと戦略的業務提携を締結し、世界各国の有力スタートアップとの連携を強化しています。
三吉 コーポレートベンチャーキャピタルを設立して自社でスタートアップ投資をしていく可能性は?
髙橋 将来的にそうできたらいいなと個人的には考えています。ただ、そうした活動も新規事業を応援する企業風土あってこそだと思うので、やはりまずは風土づくりかなと。
三吉 先ほど、目に見える成果を急ぐ社内の声もあるというお話がありましたが、焦ったりしんどくなったりということはないですか?
髙橋 とあるセミナーで、「あなたが『新しい、やりたい』と思ったことが社内で『いいね』と言われたらやめた方がいい。『ふざけんな』と言われるぐらいでないと改革は起こせない」という話を聞いてから、吹っ切れました。社内で抵抗にあうほど、間違った方向ではないと思えるようになったので(笑)
三吉 最強の捉え方ですね(笑)。一方で事業化に取り組むメンバーが10数名いらっしゃるというお話でした。軌道に乗り始めている新規事業もあるようですね。
髙橋 そうですね。例えば、当社のコア技術であるポリマー技術を次世代半導体に活かすための材料開発が進んでおり、この1月から全社プロジェクトとして動き始めています。
三吉 最後に、今後の展望についてお聞かせください。
髙橋 「マテリアルといえばジャパンのIncubation CANVAS TOKYO」というブランドを確立させ、世界中から人や情報や技術が集まる場所にしたいです。将来的には、国内の革新的なアイデアや技術が集結する「素材連合」のような仕組みができたらいいなと思います。素材・化学系は、日本企業が世界で戦える数少ない領域だと思いますので。また、ARCHのコミュニティづくりには学ぶことが多くあり、Incubation CANVAS TOKYOでもコミュニティの活性化に努めていきたいと思います。
三吉 今後の活動にも引き続き注目していきたいと思います。
三吉香留菜|Karuna Miyoshi
東京大学法学部卒業後、ベイン・アンド・カンパニーにて戦略コンサルティング業務に従事。中期経営計画・M&A戦略策定/DD、ポートフォリオ変革支援など全社戦略の策定・伴走を行う。2022年にWiLへ参画し、東京オフィスLP Relation担当Senior Directorとして大企業の変革・イノベーション創出支援を行う。グラフィック化スキルを活かし、大企業向けワークショップのビジュアライズも担当。

ARCH Toranomon Hills は、世界で初めて、大企業の事業改革や新規事業創出をミッションとする組織に特化して構想されたインキュベーションセンターです。豊富なリソースやネットワークを持つ大企業ならではの可能性と課題にフォーカスし、ハードとソフトの両面から、事業創出をサポート。国際新都心・グローバルビジネスセンターとして開発が進む虎ノ門ヒルズから、様々な産業分野の多様なプレーヤーが交差する架け橋として、日本ならではのイノベーション創出モデルを提案します。場所 東京都港区虎ノ門1-17-1 虎ノ門ヒルズ ビジネスタワー4階







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