ここ1、2年、テクノロジー系のカンファレンスに哲学者が招かれるケースが散見される。AIやバイオサイエンスの進化の速度や方向性に、人々が不安や欠落を感じている証左なのかもしれない。今秋開催の「Innovative City Forum 2017」にて、「人工知能時代のアートの役割」と題したセッション「イノベーティブ シティ ブレインストーミング」に登壇する哲学者・岡本裕一朗の、テックを見つめる視座の一端に迫る。
TEXT BY TOMONARI COTANI
PHOTO BY KOURAROU WASHIZAKI
哲学の「冬の時代」は終わった!?
──岡本さんが著作を発表されるようになったのは、2000年代に入ったからだと思いますが、当時から現在に至るまでの、哲学界/思想界のおおよその変化の流れをお聞かせいただけますか?
岡本 私が1冊目の本(『異議あり! 生命・環境倫理学』)を上梓したのは2002年でしたが、当時は、日本においても世界的にみても、社会における哲学の存在価値は基本的に停滞していました。「エビデンスがない」とか「役に立たない学問」だとか、言われていましたから(笑)。研究者の数という意味でも、縮小していた時代だったと思います。
教壇に立っていても、「ヘーゲルやカントをやっているだけでは、学生は興味を持ってくれない」ということを肌で感じていました。それもあって、現代的/具体的な問題を、自ずと意識するようになりました。ですので、遺伝子組み替えにしても、環境問題にしても、トロッコ問題(後述)にしても、実は90年代の時点で、ひととおり考察を済ませているんです。「そうしたテーマが、やがて重要な問題となるだろう」という予測は当然ありましたが、その一方で、「旧来の学問領域だけでは、これからの哲学者は食っていけない」という危機感もあったわけです。
その後2010年代に入り、テクノロジーの進化、とりわけ自律走行車やIoTに関連する人工知能(AI)、あるいは遺伝子編集に代表されるバイオサイエンスといった領域に、めざましい躍進がみられました。その反動として、哲学や倫理の問題が再びクローズアップされるようになった、というのが現在だと思います。
「トロッコ問題」は誤解されている
——トロッコ問題は、AIに代表される自律走行車まわりのテクノロジーを、倫理の面から指摘する象徴的なトピックになりつつありますね。
岡本 そうですね。でも、自律走行車に関していわれているトロッコ問題は、本来のトロッコ問題とは少し論点がズレていると私は思っています。
トロッコ問題というのは、ブレーキが利かなくなってしまった暴走電車の進路の先に、「5人の作業員がいて、ポイントを切り替えると進路が変わるけれど、切り替えた先には1人の作業員がいる」という状況(A)と、同じく暴走電車の先に5人の作業員がいるけれど、「線路の上の陸橋にいる1人の太った男を突き落とすと、5人が助かる」という状況(B)、という2つの状況を想定しています。
この2つの質問をすると、大抵、対立する答えが返ってきます。つまり、Aの状況では、「5人を救うためにひとりを犠牲にする」と答えるのに対し、Bの状況では、「5人を救うためにひとりを犠牲にしない」と答えるのです。
「5人かひとりか」という問題なのに、なぜ判断を変えるのか。この謎に対し、ハーヴァード大学の心理学者ジョシュア・グリーンはfMRI(磁気共鳴機能画像法)を使った実験を行い、「AとBとでは脳の違う部分で判断がなされている」という結論を導き出しました。
具体的に言うと、Aの状況では、脳の「前頭前野背外側部(DLPFC)」と呼ばれる部分で判断が行われています。このDLPFCは、「冷静に知的な推論を行う」部分なのだそうです。一方、Bの状況で判断を行っているのは、「前頭前野腹内側部(VMPFC)」と呼ばれる部分で、「情動や感情が大きく作用する」のだといいます。
グリーンは決して「脳決定論」を推奨しているわけではないのですが、今後、脳科学研究が、法や道徳に対して影響を深めていくことは避けられないと思いますし、もっと言うと、「人々が合理的(理性的)な判断に対する一般的な能力を持っている」ことを前提としている近代的な刑罰制度を、いま一度見つめ直してみる時期が来たことを示唆しているのかもしれません。
——「“5人かひとりか”という同じ問いなのに、なぜ人は判断を変えるのか?」、という問いについて考察するのが、本来のトロッコ問題というわけですね。
岡本 そうなんです。MITがインターネットを通じて「自律走行車におけるトロッコ問題」についてアンケートを行っていましたが、古典的なトロッコ問題とそれは、本来似て非なるものなんです。当然、自律走行車やAIを語る上で議論されるべきトピックであることは間違いありませんので、問題をきちんと捉え直した上で、自律走行車のAIについて必要な議論をしなくてはならないと思います。
かつてトロッコ問題をやっていた立場からすると、いま実際に議論されている部分に、わりと積極的に情報を提供できるのではないかと思っています。
AIの時代における哲学とは?
──ちなみにAI全般について、岡本さんはどのようなお考えをお持ちでしょうか?
岡本 規則的な計算や情報処理などは、現時点でも人間の能力をはるかに超えていると思います。しかし、自然言語での会話は、子供でも可能なレベルの会話ですらまだできません。いわゆるチューリングテストを完全にパスするAGI(汎用人工知能)がいつ登場するのか、気になります。
もうひとつの興味は、「フレーム問題」という、AIが具体的な場面で行動を起こすときに陥る難問を、どうやって解決するのかという点です。自分の目的を遂行するためには、それに関連する無数の結果も考慮しなければなりません。しかし、結果をすべて考慮していては、瞬時の判断や行動はできませんし、あらかじめ「目的に関連する重要な結果だけを考慮せよ」と命じても、なにを考慮し、なにを無視するのか、無限に判断することになります。
そうしたフレーム問題を、人間は「解決する」のではなく、「拘泥しない」というかたちで回避して(ときには失敗して)いるのですが、AIはこの問題をどう解決ないし回避するのか。
そのあたりのことを、Innovative City Forum 2017でご一緒させていただく松尾豊先生にお訊きしてみたいですね。
──チューリングテストをパスしたり、フレーム問題を解決した汎用人工知能ができたら、哲学者は職を失うと思いますか(笑)?
岡本 どうでしょうね(笑)。哲学者の役割というのは、「知性とは何か」を問うことだと思います。言うなれば、非常に抽象的な議論をする役回りなわけですが、それこそ今後は、「AIと人間の関係性とは、どういうことなのか」を考えていく時代になっていくわけですから、おもしろいというか、哲学者の仕事がたくさん出てきたなと私は思っています。
哲学とテクノロジーというと、哲学の方も敬遠していましたし、テクノロジーサイドからも「抽象的で無意味で役に立たない」みたいに思われていたフシがあり、対立というか断絶があったのかもしれませんが、もしかしたら、それぞれがそれぞれの観点でおもしろい発想をすることで、社会に貢献できる時代が今なのかもしれません。
哲学をやっている人間が、技術的な領域においそれと素人的なカタチでかかわることは不可能ですが、AIにせよバイオサイエンスにせよ、テクノロジーの最前線において、常に哲学の問題として存在していた課題が発生しているように思います。それらは基本的に、人間の考え方とか知性とか感情だとか、そうしたものを含めて「人間のありかた」にかかわっていることなので、哲学の重要なテーマとして、扱っていくことはできると思います。
──今後、新しい哲学の領域が誕生する可能性はあるのでしょうか?
岡本 ニューロサイエンスや心理学といった認知諸科学や、人間を含む生物の進化的な流れも含めて、総合的なかたち知性を研究していくような学問が出てくるかもしれません。たとえば倫理学ににおける進化心理学のように、領域が融合し、横断した議論がなされているケースが、もっともっと増えていくといいと思います。
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岡本裕一朗 | Yuichiro Okamoto
1954年福岡県生まれ。玉川大学文学部教授。西洋近現代思想を専門とするが、興味関心は幅広く、領域横断的な研究を続ける。著書に『いま世界の哲学者が考えていること』(ダイヤモンド社)、『フランス現代思想史─構造主義からデリダ以後へ』(中公新書)、『思考実験─世界と哲学をつなぐ75問』(ちくま新書)など。
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