
今年2025年は、戦後80年という節目の年とされる。この夏、記憶の継承はあらゆるところで謳われているが、広島を写真に撮るという表現を通じてむしろ“写らなさ”と長年向き合ってきたのが、同地出身の笹岡啓子による「PARK CITY」シリーズだ。現在の広島を撮影することを通じて、1945年8月6日の原爆投下後に平和都市として復興する歴史のなかでこぼれ落ちたものを拾い上げ、さらには1945年以前へもアプローチしようとする困難な道のり。だからこそ、そのイメージは、見る者を幾度でもハッとさせる。 インタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」、今回は第26回。2025年7月18日から30日にかけて個展「Keiko Sasaoka/笹岡 啓子 “PARK CITY”」を開催する写真家に、自身が運営にも携わる展示会場photographers’ gallery(東京・新宿)で、じっくりと話を聞いた。積み重ねてきた経験の先で発せられる言葉と写真は、やがて私たちの胸のうちに、「まだ戦後80年なのだ」という実感をもたらすことだろう。
MAIN PHOTO BY Keiko Sasaoka
TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO DURING INTERVIEW BY Kaori Nishida
——2001年以降継続して取り組んでいらっしゃる「PARK CITY」シリーズは、そのなかで二度ほど大きな手法の変化がありました。現在の広島を撮ることはベースとして変わらず、たとえば2022年からは、かつての広島のイメージが重ねられていますよね。
笹岡 制作している自分の意識としてはそんなに大きく変わっていないのですが、たしかに写真としての見た目はかなり異なってきていると思います。現在の広島を写した写真を発表してきたところに、原爆投下以前の街の写真を重ねるようになったときは、シリーズをずっと見てくださってきた方にも衝撃だといわれました。自分でも、最初こそ発明に近い発見のような驚きはありましたが、発表に際しては何度も自問しましたし、勇気もいりました。
——ご自身としても大きなステップだったわけですね。
笹岡 2001年から20年以上考え続けてきたのは、いまの街を写すことで、原爆投下後から現在に至る広島をどのように知り、想像することができるのか、ということです。そのなかで、原爆の“前”の広島のことをどのようにとらえたらいいのか、どうやったら自分がかかわることができるのかということも、必然的に頭の片隅にあり続けていました。
——原爆の“前”の広島と、自分とのかかわりですか。
笹岡 かつて軍都だったということも含めて戦前・戦中の広島にもまた考えるべき問いがあるはずで、いまの広島を撮影しながらそこにどう関係していけるのか思いを巡らせつつも、なかなかかかわり方を見つけることができなかったんです。目の前の広島の街には、そうしたかつての痕跡もほとんどありません。
——方法を考えあぐねていた、と。

笹岡啓子|Keiko Sasaoka 1978年、広島県生まれ。写真家が共同運営するphotographers’ galleryに、2001年の設立時より参加。2002年、東京造形大学卒業。2008年に「VOCA展2008」奨励賞、2010年に日本写真協会新人賞、2012年にさがみはら写真新人奨励賞を受賞。近年は「新・今日の作家展2017 キオクのかたち/キロクのかたち」(横浜市民ギャラリー)や、「風景論以後」(東京都写真美術館、2023年)などの展覧会で作品が展示される。写真集に『PARK CITY』(インスクリプト/2009年)、『FISHING』(KULA/2012年)、『Remembrance:三陸、福島 2011-2014』(写真公園林/2021年)など。
笹岡 ただあるとき、自分が撮影してきた写真のなかに、戦前や戦中、つまりは大正から昭和前期の広島を写した絵葉書自体を撮った写真がいくつかあることに思い至ったんですね。「そんなに簡単に広島のことを理解することはできない」という断念を受け止めることから「PARK CITY」シリーズははじまり、取り組んできたわけですが、その過程での経験を自分のなかにある程度積み重ねてきたと信じられたからこそ、現在とかつての広島のイメージを具体的に重ねてみるという手法に踏み出すことができたんです。
——自分のなかの経験、ですか。
笹岡 詳しくは後でお話しすることになるかとは思うのですが、活動をはじめた頃であれば絶対にできなかったことですし、経験の堆積によって自分自身からGOサインが出た、というところがあります。それは、ここまでやってきたことが逆に試されるようなことでもあるのですが。
——その境地についてお尋ねするためにも、時計の針を巻き戻しつつお話をうかがいます。2009年の写真集『PARK CITY』に収録された作品をはじめ、シリーズ初期はすべてモノクロです。ほとんど真っ暗ななかに人影がわずかに白く浮かび上がるような写真が、シリーズの多くを占めていました。そもそも2001年にシリーズを開始された理由も含めて、当時考えていらしたことをお聞かせいただけますか。

「PARK CITY」シリーズより、シリーズ初期のモノクロ写真
笹岡 広島に生まれ育ってきたなかで当たり前だと思っていたその街並みが、東京へ上京して外側から見たときに、まったく当たり前のものではないということに気づいたことが、制作のきっかけでした。原爆ドームや平和記念公園が中心にある、そうした街のあり方が当たり前でなく、むしろ異様だということを理解していなかった。そのような街になった経緯を、いまの広島の街を撮ることで知ることができるだろうかと思ったんです。
もちろん、そのまま現在の街を撮ったとしても、簡単に過去を探り出すことはできません。原爆ドームや広島市民球場、路面電車があるほかは、どこにでもある地方都市とさほど変わらない。やはり、過去は簡単には写らない、すぐに知ることなんかできない——そうした断念から出発するなかでもかろうじて何かが写ることで、その到達できなさ自体を拾い上げるような写真を撮ろうとしましたし、その試みを通じて逆に諦めない気持ちで広島を知ろうとしてきました。
——素人としてうかがっていてもあまり難題で、かつ大変な制作のように聞こえますが……
笹岡 自分が写真家として歩み出した頃ということもあって、はじめたからにはやり続けるしかなく……。最初の10年弱は、中判のハッセルブラッドという重たいフィルムカメラを背負って、朝から晩まで一日中、街のなかをウロウロしていました。20代だったからできたことというか、正直にいえばほとんど修行僧のような、なかなかつらい時期でしたね(笑)
——シリーズ初期の作品は、仄かに白く見えるのが広島を訪れた修学旅行生の輪郭、というような写真などが印象的です。


写真上、一番右が2009年刊行の『PARK CITY』。写真集刊行後も現在までシリーズは続く。左が日本各地の海岸線を撮影した『FISHING』(2012年)。中央が、本文で後述される東日本大震災後の土地の変容を収めた『Remembrance:三陸、福島 2011-2014』(2021年)。写真下は『PARK CITY』(2009年)のページより。
笹岡 普通に適正露出で撮った後に、プリントの段階で黒く焼き込んでいるわけではなくて、最初からアンダー、つまりは露出不足で撮っているものが大半です。逆に露出オーバーで撮っているものもあります。つまりは真っ黒か白飛びかでほとんど写らない。昼間の平和記念公園の写真もありますが、夜に撮った写真の多くがほとんど真っ黒ですね。ストロボもほんのすこししか焚いていなくて、適正な露出ではなくしているんです。あえて写りにくい状態にしながら、それでもかろうじて写るものをとらえる、ということを繰り返していました。
——修業時代だとおっしゃっていた所以ですね。現在から歴史や記憶の層にアプローチするために、ほとんど写らないものを写し続けていた、と。
笹岡 写真集『PARK CITY』の後半では、公園内の、広島平和記念資料館のなかにも入っていきながら撮影しているんです。2019年にリニューアルされる前の資料館ですね。いまのようにインバウンドの観光客の方々が列をなしているような状態ではなく、シーズンによってはガランとした状態だったので、長時間、館内にいることができました。展示された資料を見ている人たちを眺めながらその後ろ姿を撮ったり、同時に私自身もその展示や更新されていく新着資料を見たり、ということを繰り返していました。
——写真集として一度まとめた後、2014年からはカラー写真でシリーズが展開していきます。

笹岡 大きなきっかけは、2011年3月11日に発生した東日本大震災と、原発事故でした。広島とはまた異なるかたちではありますが、自分のどこかで、二度とはありえないと思っていた被ばくが再び日本で起きてしまった。翌月の4月には福島も含めた三陸の被災地域に入って、それから継続的に撮影しにいくようになりました。そのときにフィルムカメラからデジタルカメラに切り替えたんです。現地の状況がわからないなか、撮ったその場で写真を確認できるというメリットが大きかったですね。以降の写真は、カラーで撮るようになりました。
——広島の「PARK CITY」シリーズがカラーになった背景に、東日本大震災後の被災地の撮影があったのですね。
笹岡 並行して、原発事故のショックのなかでSNSを中心に、ネット上でデマも含めたさまざまな情報やイメージが渦巻いている様子も目にしました。原爆投下後の広島や長崎の写真、あるいは関東大震災後の写真が交錯していて、福島の被災地域の行く末であるかのように扱われているものもありました。撮影者や正確な場所のクレジットもなく、コピーのコピーが拡散されているような時期でした。ただ、それぞれの写真をきちんと同定できない自分にも気づいたんですね。現在の広島の写真を撮り、そこから過去をたどるといいながら、爆心地の写真それ自体のことをよく知らなかったな……と。
——実際の過去の写真を、一度きちんと知るべきだ、と思い至ったわけですね。

笹岡 そしてそれは私だけの話ではなく、日本写真史のなかでも広島・長崎の原爆投下後の写真が、正確に位置づけられ、組み入れられていないということがわかってきたんです。そこで専門家や研究者の方々にご協力いただきつつ「爆心地の写真 1945-1952」という特集を組んだ『photographers’ gallery press no. 12』をつくることに至りました。その制作プロセスのなかで、再び広島に通い、当時の古い写真をたくさん見ました。先ほど広島平和記念資料館で大量のアーカイヴを何度も見たという話をしましたが、それに加えて原爆投下後の写真を、さらによく見る機会を得たんです。
——原爆投下後の広島のイメージが、大量に笹岡さんのなかに蓄積されていった、と。
笹岡 すると自分のなかで、その過去の広島のイメージのほうが、現在の観光地としての広島よりリアルなものとして感じられるようにさえなったんです。写真に残された広島のほうにリアリティを感じるという、逆転した感覚を抱くようになっていきました。
そのうえで考えるようになったのは、古い写真というのは、どうしても人がブレていたりして不鮮明だということです。原爆投下後にかんしては、過酷な状況やはっきり写すことが躊躇される、心理的な葛藤もあっただろうと思います。
——さまざまな理由で、広島の人が鮮明には写されていないわけですね。


『photographers’ gallery press no.12』(写真上、2014年)の特集「爆心地の写真 1945-1952」より、中国新聞社のカメラマンだった松重美人が撮影した1945年8月6日午前11時過ぎ頃の広島市千田町3丁目美幸橋西詰の光景(下)
笹岡 そうした写真を大量に見た後に、自分がカラーで現在の街を撮るときにも、あえてスローシャッターで街行く人をブレさせて、不鮮明な状態にしていくことを試すようになりました。街角に三脚を立ててカメラを固定して、観光客でも地元の方でも、そこに佇んでいる人のちょっとした動きや、通り過ぎていく人の姿をスローシャッターで撮るわけです。
すると不鮮明さのなかで、現在の人たちの姿勢やかたち、たとえば屈み方といった動きだけが、わずかに写真に残っていく。それが古い写真のなかの人の姿やかたち、動きとつながっていくというか、結像していくように感じたんですね。
——それが2014年から2021年にかけての、いわば「PARK CITY」の第二期の取り組みなのですね。現在の広島を写しているのに、まるで1945年8月6日の朝方の人々もこうであったような、いやむしろ自分がそこに写っているかのような感覚さえ、インタビュアーは抱く写真が多くあります。

笹岡 現在なんだけれど、まるで過去のようでもあるといいますか……被爆直後も含めた過去が、現在のなかに存在しているような感じでしょうか。もちろん現実としてはありえないことですが、過去を現在のなかに呼び込むことはできないだろうかとあれこれ試してみたら、すくなくとも写真としてはそのように受け取ることが可能なものができた、ということかもしれません。
——「PARK CITY」シリーズは人に寄って撮影することがなく、基本的にはカメラと距離がありますよね。あくまで風景のなかに人が存在しています。
笹岡 私はそこにいる人の姿を景色の一部、点景としてとらえています。固有のポートレイトを撮りたいわけではなくて、いまここにいる人が、まるで過去から来たような、時制を越えたような存在として写るにはどうすればいいのかということを、試行錯誤しています。「写っているのが自分かもしれない」と思われたというのも、そうした抽象化を施している写真だからかもしれないですね。
——過去から来た人が現在の街に写っている、そうした点景だ、と。

笹岡 それから2022年に入って、過去と現在のイメージを実際に重ねるようになっていきます。とはいえ、これは単純に画像を重ねているわけではありません。写真の色を構成するRGB──つまりR(レッド)、G(グリーン)、B(ブルー)という光の三原色の各版に、Photoshop上で分割できるんです。「分版」といいまして、それぞれの写真で分けた三版を別の写真の版同士で統合することもできます。
「PARK CITY」シリーズの場合は、現在の写真と古い写真をそれぞれRGBに分版して、現在の写真の一版の代わりに古い写真の一版を入れる、ということをしているんです。たとえばRとGは現在の写真、Bだけ古い写真の版、というかたちです。
——なるほど、近年の「PARK CITY」の写真の不思議さが、すこし理解できました。現在のレイヤーだけを見ようとか、過去のレイヤーだけを見ようとしてもうまくいかない、まさに現在と過去が分かちがたく結合したイメージですよね。

笹岡 写真の組み合わせによっても、そしてRGBのどの要素を入れ替えるかによっても、まったく見え方が違ってきます。おそらくは、見る人によっても異なるだろうと思います。
現在と過去のどの写真を組み合わせるかにかんしてはルールを厳格化しすぎず、おおよそ同じ場所やエリア、たとえば同じ橋や路面電車の電停であればよし、というところで判断しています。写真の組み合わせができたら、RGBすべての組み合わせを試してみて、自分のなかでリアリティがあるものに決めていく。その判断をくだすための基盤となる、自分のなかの経験の積み重ねがなんとかできてきたのではないか……というのが、インタビューの冒頭でお話ししたことなんですね。
——先ほどおっしゃっていた人の姿勢やかたち、動きにかんする感覚は、現在と過去のイメージを実際に重ねることとどのように結びついているのですか。

笹岡 被爆直後の写真を見ていると、顔が不鮮明ななかで、たとえばうずくまっている人もいれば、子どもを抱えて走っている人もいます。あるいは戦前の絵葉書も、絵葉書ゆえに人々にはフォーカスされておらずあくまで名勝地や街の活気を示すための点景として、後ろ姿であったり、やはり顔が不鮮明だったりする。
しかしそうした人々の、たとえば歩く姿やかたち、その歩幅といったものが、私のなかでは現在のクリアでクリーンな街並よりも圧倒的なリアリティをもっています。広島平和記念資料館で見てきたアーカイヴ、そこに写っている人々の姿も同様です。
——資料館での撮影や、原爆投下後の写真の調査を経て、そうしたリアリティが形成された、と。
笹岡 撮影するときは、その後に実際の過去の写真と重ねていく作業を念頭に撮るわけではありません。それでも、数多く見てきた過去の写真のなかの人々の姿勢や傾きといったリアリティが現在の街より先立っていて、そうした過去と現在のイメージを、時間を超えて結像させていこうとしている意識があることはたしかです。
——そうした取り組みを重ねられて、早くも四半世紀ほどが経った、ということなのですね。


写真上は先述の『photographers’ gallery press no. 12』より、同じく中国新聞・松重美人が撮影した1945年8月6日午前11時過ぎ頃の広島市千田町3丁目美幸橋西詰の光景。下は笹岡の「PARK CITY」シリーズより。時を超えて人々が路上を行き交う。
笹岡 四半世紀……いま、いわれてはじめて気づきました(笑)。ある地域を長い時間をかけて写すことについてこうして話していて、一方でふと考えるのは、どこかの土地に関してのリサーチに基づくアートプロジェクトが、いまかなり多いことです。
——社会とかかわるアートの形態として、レジデンスも含めて、期間を限定して滞在するリサーチプロジェクトは多く存在しますね。
笹岡 作家だけでなく当地にとっても地域に関する話題の発掘、掘り下げの契機や一助になるわけで、そうした需要が増えているのは理解できます。ただ、どんな土地でも、短期的に知りうることには限界があると思います。特に広島は、反核平和の旗振り役のようにしてこれまですでにさまざまに表象されてきたなかで、大枠での語るベースのようなものが整えられてしまっているともいえます。ピュアなふりをしてそのベースに乗っかれば、すんなりと成果だといえるものができてしまうかもしれない。だからこそ、私の場合は今回お話ししてきた、石橋を叩くような、遠回りな模索を続けているのだと思います。誰かに頼まれたわけでも好きで撮っているわけでもないことですが、もはや放り出すことができない、という感覚があります。
——根本的な話として、なぜ続けられるんでしょうか。

笹岡 なぜなんですかね……。直接の回答にはならないかもしれませんが、最近「PARK CITY」シリーズを展示するときは、新しい写真も初期のモノクロの写真も混ぜて展示することが増えました。写真って面白くて、撮った本人が何度でも見返すんです。以前は選ばなかったカットが、年月を経て今度は最近撮ったものと結びつくというようなことがいくらでも起こる。自分が撮った写真のはずなのに、意外な出会い直しがあるんです。だから、過去に撮った写真を引っ張り出して見直す、ということを繰り返す。
——何度でも出会い直すために、見返すのですね。
笹岡 人間の目とカメラの構造は違うから、見ている通りには写らない。だから面白い。私にとって実は、撮ることよりも見返すことのほうが重要です。観光客の人がスマートフォンをかざす場合は、むしろ見る行為と撮る行為が一体化していて、必ずしも撮影した写真を見直すことはないかもしれません。それは19世紀にツーリズムがはじまった頃からある、名勝地であえて視覚装置を使って景色を見るという経験と基本的には変わらないと思います。けれど写真家は、自分の目で見たとおりではない写真を何度も見返します。私の場合は撮影の時間よりも、見返す時間のほうが圧倒的に多いです。
——自分が撮ったもののようでいて、実はそうではないところがあるがゆえ、ということなのですね。

笹岡 すこし話は飛ぶのですが、東北の被災地域も震災から10年ほど撮るなかで、「平和都市」として復興整備を進めた広島とほとんど同じ構造になっていたことがわかってきました。つまり、10年という復興事業の期限に沿って一気に公園化されていったのです。もちろんそれは遺構や記録・記憶を残すための取り組みという側面もあるのですが……。広島と同じような構造のもとに整備され、公園化され、復興を遂げたと宣言されていく三陸や福島各地域の姿を前にしながら、そこで撮った写真のシリーズを「PARK」と名づけることになるとは自分でも想像が及んでいませんでした。
——「PARK CITY」を撮っていたら、「PARK」が現れた、と。
笹岡 そこでは「伝承」と呼ばれる継承が目指されるわけですが、ここまでお話ししてきたように、過去を理解するということは簡単ではありません。だからこそ、知ろうとし続けることは重要だと思います。被災地域の変遷を写した「Remembrance」というシリーズ名は、「思い出し続ける」という現在進行形の意味をもつ言葉なんです。積極的に過去に介入し、かかわっていく。そのようにして過去を思い出し続けようとすることが、結果的に未来をつくることになればと思います。
——撮った写真を幾度も見返すことは、まさに「思い出し続ける」ことなのかもしれませんね。


写真上は、東日本大震災後の被災地の復興をとらえた小冊子シリーズ「PARK」の一冊。写真下は、同じく被災地の変遷を追い続けた「Remembrance」シリーズ。笹岡はこうした小冊子の刊行を多く手掛けてきている。写真集『Remembrance』は、復興を遂げる前の2014年までのイメージに限定して再編集されている。
笹岡 あるテーマで撮って写真集をつくったらそれで終わり、ということにはならないんですよね。もちろんある程度の区切りではあるんですが、終わりではなくて、あくまでひとつのかたちをとったということに過ぎません。むしろそこから次の課題や展開が見えてくるし、そのなかでまた見直すことになる。一歩進んで二歩下がる、という感じですね。
——二歩下がってしまうんですね(笑)
笹岡 たしかに、ポロッとそう口にしてしまいましたね……(笑)。でも下がりながら、たまにはジャンプして飛躍してみるというような感覚もあるかもしれません。
——戦後80年といわれていますが、笹岡さんとしてはどんな想いを抱きますか。
笹岡 思い出し続けるとか、何度でも見返すといっている自分にはそうした周年に意味はあまりないですが……。逆に「まだ80年」ともいえないでしょうか。
——「まだ80年」ですか。
笹岡 数年前に祖父が100歳を目前にして他界したのですが、その最晩年は私が会いに行く度に、出兵先の戦地での話を昨日のことのように話してくれました。私の幼少期、若い頃も含めてそれまでは一度も戦争の話をしたことがなかったのに、不思議ですね。話しておきたいといった義務的なことではなく、忘れたいのに思い出してしまうのがそのことばかりといった感じで、正直、苦しそうでした。体験者あるいは犠牲者にとっては何十年経とうと、このようにありありと取り憑き、蘇ってくるのが戦争の過酷さ、無惨さなのかと。
そしていま私が用いている写真という技術は、今年2025年が誕生200年とされています。カメラやデジタル技術の進化の速度が目覚ましいのは確かですが、ひとつのメディアとして、写真もまた、その誕生からたった200年しか経っていないんです。


宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。
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