What is Editing?

“なんでもデザイン”時代の足元を見つめて:『デザインにできないこと』編集者・石井早耶香(BNN)に訊く

グラフィック、プロダクト、ウェブページにアプリ、さらにはコミュニティや思考そのものまで……私たちの日常を取り巻く環境は、いまやほとんどが「デザイン」という営みの対象になっている。その限りない拡張は、デザインの可能性を示してきた。と同時に、あらゆるものがデザインしうるとされ、その技術もまた民主化してくるなか、いったい何がデザインなのだろうという迷いもまた生じる。

一概には整理しきれぬような状況を、まずは真摯に見つめることでわずかな光を見出だそうとする書籍が、2024年11月に刊行されたシルビオ・ロルッソ『デザインにできないこと』(牧野晴喜訳)である。そして日本語版の版元であるBNNで本書を担当したのが、同社の取締役・副編集長の石井早耶香だ。デザインの地平の広がりを多くの書籍のかたちで後押ししてきた石井が、『デザインにできないこと』に見出だした逆説的な希望を訊ねる、インタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」第22回。

TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Kaori Nishida

——今回は取材をお引き受けいただき、ありがとうございます。ただ事前のやりとりで、「出版物に編集者が新たな意味づけをする」ことへの戸惑いも示しておられましたね。

石井 編集者が表に出ることがあまり好きではないということもあるのですが、それ以上に、自分が手がけた本に対して言及をすることが、決して好ましいことばかりではないと感じているんです。そもそも自分は編集者としていろんな言説を本のかたちにして出してはいるのですけれど、「こんな考え方も、あんな考え方もあるよ」と、無数の塵のようなものに光を当てているような気持ちで取り組んでいるんですね。

——塵、ですか?

石井 塵だとちょっと言葉がわるいですよね、埃のほうがいいかな……いや、どちらもダメか(笑)。自分のなかで誰かの言葉や思考というものは、基本的に塵のようなイメージなんです。私たちの身のまわりに浮遊しているんだけれども、普段は意識していなくて、ふと光が当たった瞬間にきらきらして見えて、存在していたことに気づく、という。その瞬間がとても重要で、そうしたきっかけをつくりたい、と思っています。

——本を読んで、その存在に気づく、と。

石井 私たちはいつも、それぞれ自分の仕事などに一生懸命に取り組んだり、所属しているコミュニティやSNSの空間のなかで時間を過ごしたりしているわけですけれど、そこで見えないもの、気づかないものがあるなら見せたい。自分では想像が及ばないことが世界にはあって、それがフッと視界に現れる瞬間をつくりたい。だからこそ、せっかく浮かび上がったものに対して、不必要に言葉を足していきたくないんですね。

——ようやく、塵の比喩が理解できました。適した量の光で照らされていれば綺麗に浮かび上がりますが、あまりに強い光で照らすと、また見えなくなってしまいますね。

石井 そうそう、なにせ塵ですから……(笑)。本はちいさな空間に塵を閉じ込める術で、見やすいように文字という形を与えているようなものだと感じているんです。言葉を軽んじていると各所から叱られそうですが、でもそれぐらい無数に生まれる、自由なものだと考えています。

——今回は不必要ではない範囲で、お話をうかがえればと思います。シルビオ・ロルッソ著『デザインにできないこと』は、まさに無数のきらめく塵の集合体のような本ですよね。

石井 きらめく塵の集合体のような本──本当にそういう一冊だと感じますね。デザインをめぐる状況を考えるために、いろんな塵を集めることが上手な著者だと思います。

——まずは、刊行に至る経緯を教えていただけますでしょうか。

石井早耶香|Sayaka Ishii BNN取締役、副編集長。2004年に武蔵野美術大学デザイン情報学科を卒業、株式会社BNN(BNN, Inc.)入社。編集者として、ジョセフ・アルバース『配色の設計』(永原康史監訳、和田美樹訳)、木浦幹雄『デザインリサーチの教科書』などのほか、徳井直生『創るためのAI』、本インタビュー連載でも登場した岡瑞起の著書『ALIFE|人工生命』など、デザイン関連の専門書を150冊以上担当する。

石井 オランダにいくつか、面白い出版社があるんです。たとえば「Set Margins’」は、Freek Lommeさんという、アーティストやキュレーターなど多くの顔をもつ方が立ち上げた会社。関連して、同じ方が創設に携わった「Onomatopee」というキュレーションと編集をおこなう出版社が、ビジュアルコミュニケーションにかんする気になる書籍をつくっているんですね。彼らの刊行ラインナップのなかから、いくつか自分が興味を抱いたタイトルをピックアップして、まずは内容を読ませてくださいと連絡しました。翻訳書にかんしてはよくあるやりとりなのですが、著者のシルビオ・ロルッソさんも含めて早くに反応をいただいたのがSet Margins’刊行の『デザインにできないこと』、原題What Design Can’t Do: Essays on Design and Disillusionでした。

——「デザインと幻滅にかんするエッセイ」というような意味合いの副題が原題にありますね。日本語版の帯には、「デザインに蔓延する〈幻滅〉を紐解く──あらゆるものにデザインがまとわりつく世界で、デザイナーが直面する期待と現実を白日の下に晒し、デザインの純粋な可能性を探る一冊。」とあります。

石井 原題からしてシンプルで、いいタイトルですよね。人によっては煽っているように響いたり、少なからぬ衝撃を与えるようなタイトルだと受け取ったりするかもしれませんが、自分はとても好ましいと感じました。著者はポルトガルのリスボンを拠点とされている作家・アーティスト・デザイナーの方で、大学やデザイン学校で教鞭をとっていらっしゃるのですが、「こんなに率直なことを、素直に言える人が、デザイン教育の現場にいる」ということが、まっとうで、健全で、いいことだなと感じたんです。

——本書のような趣旨がデザイン教育の場で語られる健全さ、というのはどういった意味合いを含むものなのでしょうか。著者はデザインの汎用主義的な態度を「デザイン・パニズム」と名指しながら、それが巻き起こしている「カオス」を見つめようとしていますね。

石井 問いを創造する「スペキュラティヴ・デザイン」なども含めて、これまでデザインにおいては新しい考え方や態度がたくさん生み出されてきましたし、多くの可能性も見い出されてきました。必ずしもそのすべてが成功しているとは言えないというのも事実だろうとは思うのですが、これまでにないクリエイションがおこなわれたり、新たなビジネスが立ち上げられたり、さらにはそうした新機軸のデザインについて教える場も整備されたりと、ヨーロッパでは一定の成果がもたらされてきました。

そうしたデザイン教育の先進的な場において、「でも、それらは本当にうまくいっているの?」と、あるひとつの領域に対してではなく総デザインに問いを投げかけることができる人がいる、ということがシンプルに「いいな」と思ったんです。実際、自分が興味を抱いた段階で、学校の授業の課題図書などにも挙げられていたようなんですね。これはデザインを志す若い人たちも読むべき本だ、と現場も思える内容だということを意味しているのだと感じました。

——なるほど。本書が語るところの〈幻滅〉のニュアンスについて、石井さんの感覚に基づいて、もううすこし詳しく伺えますか。本文にはこうありますね、「幸いなことに、幻滅(disillusion)とは失望(disillusionment)、つまり狼狽や落胆という受動的な感情だけではなく、幻想を能動的に解き放つこと(disillusioning)であり、古いヴェールの一部を脱ぎ捨てて現実と向き合うことでもある」と。

BNNが近年、日本語版を手がけてきた、そして『デザインにできないこと』でも言及されている書籍の一部。デザインの世界では、新たな領域の拡張と、それらをめぐる反省が絶えず繰り返され、そのなかでまた新たな拡張が起きてきたようだ。

石井 何と言えばいいんでしょう、どんな分野の仕事でも、自分が取り組んでいることに対して理想と現実が複雑に絡まり合うことって、往々にしてありますよね。何事においても、仕事をするうえでは矛盾と向き合う場面はあって、結果として愛憎半ばするような感情を抱くこともある。

『デザインにできないこと』は、デザインに関係する範囲において、そのようにして普段ゴチャゴチャと頭のなかで絡まり合っていることを解きほぐしてくれるキーとなるような、多少なりともスッキリさせてくれる要素があるんじゃないかと思っているんです。

——その矛盾含みのムードというのは、デザインの世界のなかではどういうものなのでしょうか。なかなか輪郭は描きづらいとは思うのですが、もうちょっとうかがえれば……。

石井 難しいですね……。たとえば私たちが普段仕事で接しているデザイナーさんは、ご自身にとってのデザインを見失わずに、独自のフィールドを築いて、心豊かに仕事をしているように見えます。一方で、SNSをみればデザインに携わる人びとが零したデザインに関する呪いのような言葉が溢れているんですよね。デザインにかかわる人間として、そうした愚痴を日々目にして、無視をするのも真に受けるのも違う気がしていて。

『デザインにできないこと』がとても面白いのは、ヨーロッパではデザインにかんする愚痴がミームに昇華されていて、著者がそのミームをひたすらに蒐集するなかでつくられていった本ということなんです。その意味では、ちょっと笑いながら読んでもいい本だとは感じているんですよね。正しい読み方かはわからないけれど、ページをめくれば次々と現れるミームの、畳みかけるようなデザイン批判に、思い当たる部分を感じながら思わずそのおかしさに苦笑いをこぼしてしまうような一冊なのでは、と。

——実際、本書にはそうしたミームが山のように掲載されていますね。何かしらのクリエイティブな仕事をしている人なら、「わかる……!」と膝を打つような画像が多数あります。

『デザインにできないこと』に掲載されている、著者が蒐集したデザインにかんするネットミームの一例。一番下に掲げたページの画像には、「私の身体は、どうしようもなく馬鹿げているクソみたいなアイデアを『このプロジェクトで模索しているのは……』へと変換する装置だ」という、まるで“クリエイターあるある”とでも言えるようなフレーズが見える。

石井 作り手や出典もわからないようなものも含めて、デザインという営みをめぐる不満をミーム化したものがたくさん収録されているわけですが、でもよく考えてみれば、わざわざ愚痴に手をかけて、ミームというかたちにしているという時点で、デザインに対する愛が逆説的に表現されていると思いませんか……?(笑)

——言われてみれば、たしかに……(笑)

石井 しかも著者であるシルビア・ロルッソさんは、見過ごす前提のそのミームを真面目に掬いあげて、『デザインにできないこと』の論を組み立てていっています。もちろんデザインの現状に対して批判的な言及が多くなされている本ではあるのですが、ここにもまた、デザインへの心意気と愛があると自分は感じるんですね。

——このインタビューでも徐々に見えてきてはいるのですが、シルビア・ロルッソさんが捉え直そうとしているデザインをめぐる現況とは、改めてどういったイメージで捉えればよいのでしょうか。

石井 あくまで自分の視点による概観だと前置きしつつお伝えすると、デザインが普遍的な営みであるがゆえに、何でもデザインだと言えてしまう状況を皆が利用してきた、ということなのだと思います。乱暴を承知でまとめると、何かしらの対象に手を加えて意図したかたちにしたら、それはもうデザインだと言えてしまう。

いまこのテーブルの上にあるペットボトルもデザインの産物ですが、手元のスマートフォンで画像を加工すればそれもデザインだし、物事や議論を整理することもある意味ではデザイン。そのようにしてすべてを飲み込みながら、従事しているデザイナーを置いて独り歩きしていくものとして、デザインが広がり続けるという現象が起きているのだと思います。これを、デザインがみんなのものになってしまったと嘆くなら自業自得ですし、みんなのものになったと喜ぶなら成果だし、いずれにせよ止まらない現実がある。

——興味深いです。傍から見ていても、「なぜデザインの世界はこんなにも無尽蔵に拡張していくのだろう」と不思議に思っていました。

石井 わかります、私たち自身も思っていますので。そして自分は、そのようにデザインが拡張していくことは、基本的にはいいことだと思っているんです。

——いいこと、ですか?

石井 シルビア・ロルッソさんが描き出すように、並行して起こっているのは、デザインの民主化でもあります。知識や技術が解体されて広く人々の手に渡っていって、オープンソースのようなものとして、“みんなのデザイン”になっていく。こうした誰でもクリエイティブなことができるようになっていく状況と相俟って、元からデザインという言葉がもっていた何事も飲み込んでしまう性質によって、さまざまな領域のひとがデザインに携われるようになっていく。そうして新しいデザイン、新たなプロセス、まだ見ぬ専門性をどう発明するか、どのようにすれば社会にインパクトをもたらすことができるのかという模索もまた、重ねられていきます。さまざま視点から新たな環境をかたちづくっていけること、それ自体は可能性のあることです。ただ、元からプロフェッショナルとしてデザインに取り組んでいた方々からすると、「デザインって何だっけ」「自分は何の専門家なのだったっけ」と疑念を抱く状況にもなっているわけなんです。

——思わず我に帰るような感じですね。

石井 「デザインが浸透したのはいいことだし、あれもこれもデザインだと語られているけれど、そう言えばデザインって何だっけ……」と、活躍している個人でさえ、ふと思う瞬間が生まれる。シルビア・ロルッソさんが指摘しているように、これは一部のデザイナーが自分の仕事に価値がないと感じはじめる、そのきっかけにもなりえてしまう状況でもあるんですね。デザインに限ったことではなく、どんな職種でも起こりえますが、自分の仕事って本当は何なのだろうか、誰でもできることの延長線上にこの仕事はあるのだろうか……というように悶々とする。

——テクノロジーの進化と共に技術が民主化していき、ジャンルの拡張や境界の溶解も起こっているという意味では、他のクリエイティブな営みに先駆けて、デザイン界がそうした状況を経験しているようにも思えてきました。

石井 もしかしたら、そういう側面もあるのかもしれません。そのうえで、ひとりの読者でありつつ、デザイン関連書を手がけてきた自分自身も問いを投げかけられた、『デザインにできないこと』の記述の魅力というものがあります。それは、グラフィックデザインやクリティカル・デザイン、コミュニティ・デザインといった、これまでデザインと名は付くけれどなかなか並べて語ることができなかったもの、一望できるとは思われていなかったあらゆるデザインを、とてつもない労力で振り返ってくれているところなんです。膨大なミームを収集し、デザイン内外の膨大な文献を引いて、カオスをカオスのままに、なんとか検証してみようとしている。デザインに携わる人は誰もが忙しくて、なかなかそうしたことに手をかけられずにきたわけです。

——これも横から拝見していて、「デザインの世界の“歴史化”のされにくさ」のような感覚もうっすら抱いていたのですが、まさに相次ぐデザイン領域の拡張のなかで、新たな専門性において大変お忙しいことなども関係しているのかもと、このインタビューを通じて感じています。

石井 まさに、デザインの拡がりゆえに多くの人が目を向けることが難しかった、デザインの全貌を見つめようと試みたところに、『デザインにできないこと』という書籍の価値を自分は感じました。しかも単にデザインを切り捨てるのではなく、ポジティブな面に注目が集まったからこその幻滅に注目し、その影を描き出してくれている。そのことによって、私たち読者はデザインと改めて向き合いやすくなるはずなんです。そうしたきっかけと言いますか、これからのデザインを考える叩き台になってくれるという意味で、大事な機会を与えてくれる書籍だと思います。

個人的には、そうしてデザインの全体像を振り返る議論の核に、グラフィックデザインを据えてくれたことも、とても嬉しく感じました。グラフィックデザインは、デザイン全体のなかでも古い歴史をもち、他の分野よりも社会全体に浸透していて、だからこそ「技術的・文化的・方法論的な民主化の影響をより受けている」とあるように、そしてその記述に自分自身が勇気づけられたことで自覚したように、場合によっては新たなデザイン領域に対して肩身が狭い思いを抱いたり、分断を感じたりしている人がいるかもしれないと思います。そうしたなかで、グラフィックデザインを「最も広範な秩序」と見なしてデザイン全体をなんとか語ってみようとしてくれたことは、これから私たちがデザインを捉え直したり、能動的に再構築したりするうえで、大きな手がかりを与えてくれたように感じているんです。

——なるほど。それにしても大学を卒業して約20年、石井さんに編集のお仕事を続けさせる、デザインという営みの魅力は、一体どこにあるのでしょうか。

石井 これが恐ろしいことに、「何でもデザインだと言えるから」なんですよ……(笑)

——そうなんですね(笑)

石井 物事に白黒をつけたいわけじゃなく、矛盾をはらんでいるものが好きなんですよね……。自分自身も塵のように、ふわふわと浮遊していると、いろんなデザインらしきものが視界に現れてくる。漂う先に、見えなかった塵に光が当たるように、新しいデザイン領域が見えてくるわけなんです。そうしてデザインにかんして「こんな考え方もある、あんな考え方もある」と示すなかで、『デザインにできないこと』のような本も提示したい。ポジションを与えるのではなく、いつだって別の捉え方、別の学び方、別の選択肢があるよ、というようなバランス感覚で、本をつくっているんですね。だから、書籍編集は飽きないんですよ! 編集者、増えないかなあ。誰でもできる仕事なのに……。

——誰でもできる仕事、ですか?

石井 そうですよ、何か明確なものが見えていなくても、ふわーっと漂っていたら、謎の宇宙を秘めもった著者の方々と出会うわけですから。あらためて出版社の刊行物のラインナップは、確固たるキュレーションの結果ではなく、そうした偶然の出会いや各編集者の気づきの積み重ねだと感じます。あとは企画書づくりからメールの返信、いろいろな交渉や予算のやりくりといった、こう言ってよければ雑務の塊のような日々。雑務を厭わないのであれば、編集は本当にいろんな人ができる仕事だと思いますし、そうしたなかで誰かの謎めいた宇宙を一冊の本に捕まえられるのは、本当に面白いことなんです。


profile

宮田文久|Fumihisa Miyata

1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。