コドモ理解の本質は、コドモとは他者だということ。どうこっちがあがいても、他者は他者として、そこに存在しているのだということ。コドモは親を無条件に慕い、寄りかかってくるものだということ。それを、受け止めてやらなくちゃいかんということ。 ——伊藤比呂美『良いおっぱい 悪いおっぱい』より(中公文庫版)
TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki
出産後の一か月検診を間近に控えた平日の午後、友人が切腹最中を持って遊びに来てくれた。私が帝王切開で赤ちゃんを産んだことと、彼女が数年前に自分の両親に「今年中に結婚しないのであれば一緒に切腹するわよ」と脅されたことにちなんだ冗談なのだけど、どっしりした餡子があふれ出たその最中は、自分の身体からまろび出た、とてつもなく大きな存在に腰が引けて、時に押しつぶされそうになっている今の自分の様子そのものである気がしてなんだか妙に愛おしかった。
思い返すと随分前のような気がしてしまうが、ひと月とちょっと前の帝王切開それ自体は私の場合は何のストレスでもなかった。長くいきんで何かしらのトラブルがあって緊急帝王切開に切り替わるというような場合は気持ちの焦りや不安も大きそうだけれど、頑固な逆子が何をしても直らず、予定帝王切開となったこちらとしては、お産の日取りも大体の時間もはっきりわかっていて、手術室に入ってものの二十分くらいで産声を聞くことのできるこの出産方法は、かなり最適に近いという気すらした。麻酔が切れれば当然切った傷はそこそこ痛いのだけれど、タイのパタヤでお酒が抜けないまま入れた無駄に大きな太腿のタトゥーの方が痛かったように思う。
だから赤坂にある病院の、値段が高いだけあってやたらと格調高い感じがする個室の、数センチしか開かない大きな窓からは、向かいにある建物のコンクリートの壁しか見えなかったのだけど、気分が晴れないというようなことはあまりなかった。乃木神社にほど近いそのあたりは、二十代の時に二回ほど住んだエリアに近く、そういえばこの病院の道をまっすぐ歩くと、悪友と一緒に変な男にお会計をおしつけてタダ飯ばかり食べていたラーメン屋があるよな、なんて呑気に回想していた。奮発して広い部屋にしたおかげで、ベッドに連結する、いかにも病院という感じのテーブルではない、ちゃんとしたダイニングセットがあったので、人が面会に来ず、赤ちゃんを病院に預かってもらえる夜間は、ずっと持ち込んだパソコンで仕事をしていた。考えてみれば、自分の体内で完結していた妊娠という事態から解放されたハイテンションで、何を生み出してしまったかという問題から目を背けていたのかもしれない。病院での私は機嫌がよかった。乃木神社付近に住んだ二十代のどの時よりも安定した精神でのんびりしていた。
腹を切ったと言っても、ものの一週間で病院からは追い出される。そのまま最近はやりの産後ケア施設に入ることも考えたが、目当ての施設に電話をかけたら二週間後まで予約でいっぱいだった。仕方がないから帰った渋谷区の自宅で、私は初めて自分がしでかしてしまったことの、その取り返しのつかなさに圧迫され出した。自分の皮膚の内側にあったものと分離されることの心もとなさと、他者ではあるもののなかなかただの他者と思えないその存在とのおかしな距離は、人間関係についてねちっこく考えてきた自分の職業が一気に無意味なものに思えるほどプレッシャーの強いものだった。ましてその存在は、自分の小さな爪で自分の目元の薄い皮膚を傷つけ、頭をぐらんぐらん揺らし、げっぷ一つ一人でできないほど、生き方の下手な生き物なのだ。この生き物が自分のことを大切にする方法を獲得してくれるまで、こちらの努力でなんとか生き延びさせることは、実に途方もないことに思えた。
妊娠中、好き勝手生きてきた自分にはいわゆる「幸福」と聞いて単純に連想されるようなものを紡ぐ権利がないのではないかという予感が、血液検査や妊婦検診への恐怖と不安になって、立派な赤ちゃんが無事に生まれてくるなんて、そんな都合の良いことは私の人生には起こるはずがない、とおかしな不安に気を取られていた。でも実際に無事に赤ちゃんが生まれてみればその不安はただの被害妄想でしかなかったように思える。目の前にふりかかってくる、かつて私の体内にいた存在との困難な時間は、別に「幸福」から連想されるような穏やかなものではなかった。だから逆に、好き勝手生きてきて、自分の人生に不具合がないわけがない、と変な被害妄想とともに生きている私でも、この荒々しい時間ならば臆することなく、変な罪悪感もなく、手に取って向き合える、という気持ちにもなっている。
伊藤比呂美さんのエッセイや詩集とは、実は文字が読めるようになる前に出会った。私の母が、幼い私を抱えて小難しい本からしばらく離れていた時期に、すがるように伊藤比呂美本を読み漁っていたのだ。「胎児はじつはウンコである」と言い放ったこの名エッセイを、三十年以上ぶりに読み返してみると、幸福な育児を見せつけてくるような育児雑誌や、オーガニックで手作りで母乳な育児を推奨する指南書に全く救われない私が、時折すがりたくなるような一文といくつも出会えた。引いた一文は、刊行されて二十五年後に中公文庫として復刻した際、著者が改めて書き足した箇所にあった。
鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)『浮き身』(新潮社)『トラディション』(講談社)、「源氏物語」を題材とした書簡形式の小説『YUKARI』(徳間書店)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に、『不倫論: この生きづらい世界で愛について考えるために』(平凡社)。
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