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「わたし」の生と、「わたしたち」の戦争:『女の子たち風船爆弾をつくる』著者・小林エリカに訊く

「わたしがつくった風船が膨らんでゆく。徐々に大きく丸くなってゆく。/わたしは両手を合わせる。/わたしは、決して無力なんかではないのだと、信じたかった。この存在は、無意味なんかではないと、思いたかった。あるいは、わたしは、それを見ていない」。太平洋戦争末期、東京宝塚劇場に設けられた製造工場で、「風船爆弾」という兵器をつくっていた女学生たち。太平洋を横断し、ときに人の命を奪ったその兵器の詳細について、当時彼女たちが知らされることはなかった。

そうした無数の「わたし」が語り手となり、昭和10(1935)年から終戦へ、そしてその後の現在までの日々が綴られていく──。ノンフィクションとフィクションのあわいで小林エリカが紡いだ丹念な「物語」である『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋)が、2024年5月に刊行された。四散しかかっていた“戦争の記憶”の断片を、そして何気ない日常と戦争が連なる手触りを、その捉え難さや散らばりのままに束ねあげた労作について、インタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」第17回で訊ねた。

TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Kaori Nishida

──『女の子たち風船爆弾をつくる』では、太平洋戦争末期に風船爆弾を──陸軍登戸研究所の極秘の「ふ」号作戦として、当時は兵器だと知らされずに──つくっていた女学生たちを中心に、その製造工場となった東京宝塚劇場の少女たちも含めた無数の「わたし」が、語り手となって登場します。たとえば風船爆弾をつくる過程が、「わたしは、指でコンニャク糊を掬い、和紙たちの上に這わせ続ける」というように、ですね。そして彼女たち、その周囲の日本社会の人々、さらには後世を生きる我々も大きく含めた「わたしたち」という言葉も、「わたし」の周囲に幾度となく書かれます。

小林 実際に生きた一人ひとりの方がいらっしゃるなかで、「わたし」や「わたしたち」という主語を使うことには、怖さも強く感じました。ただ、小林エリカというこの「わたし」もまた日本で生まれた以上、紡がれてきた歴史にかんして責任がある「わたしたち」のひとりなんだ、と思って今回は書いていきました。

主語と意図、ということも気にかけていました。日本語だと、「誰が、何を、どうした」といったときの、「だれが」という主語なしに、色々なことを語ることができてしまいますよね。「空襲があった」、「敗戦を迎えた」というように。けれど、たとえば空襲であれば、津波や地震といった自然災害とは異なって、誰かが明確な意図のもとにおこなっているわけです。ですから『女の子たち風船爆弾をつくる』では、「わたしは、わたしたちの兵隊の快進撃を、劇場のニュース映画で見る。/わたしたちの飛行機が、上海の街の上を飛んでいた」というように、誰がどういう意図をもって何をしたかということを、明確に書きたいと思いました。

──膨大な証言や資料に基づいて、無数の「わたし」の行動や体験を描く一文一文が書かれています。実際にあったこと/おそらくあったと思しきこと/ありえたかもしれないと想像できること、といったさまざまなレイヤーを注意深く描き分け、行き来するという途方もない作業の集積が、『女の子たち風船爆弾をつくる』という「物語」になっていますね。

小林エリカ|Erika Kobayashi 1978年、東京都生まれ。作家、マンガ家、アーティスト。目に見えないもの、時間や歴史、家族や記憶、場所の痕跡から着想を得た作品を手がける。『トリニティ、トリニティ、トリニティ』、『マダム・キュリーと朝食を』、『光の子ども』など著書多数。展覧会への参加、ミュージシャンとのプロジェクトをはじめ、幅広く活動する。

小林 たとえば少女たちが体験したはずの史実としては確認できるけれども、少女たちの証言としてそれが残されていないという場合は、「かもしれない」という記述をときに織り交ぜる、などといった書き方をしています。そもそも、学校のクラスひとつ考えてみても、心の動きは一人ひとり異なる。ある感情を抱いた子も、抱かなかった子も、そのどちらともいえない子もいるかもしれない、というところまで、あくまで史実に基づきながら丁寧に想像したかったんですね。

描く時期にかんしても、もちろん風船爆弾製造に実際に携わっていた期間は重要なのですが、それだけではなく、昭和十年から戦後まで女の子たち一人ひとりが実際に、どのように生きていたかということをきちんと書き留めたいと思ったんです。

──女の子一人ひとり、ですか。

小林 風船爆弾を製造していた主要な拠点のひとつが、有楽町の東京宝塚劇場です。そして風船爆弾工場となった劇場で製造に動員されていたのが、雙葉高等女学校、跡見高等女学校、麹町高等女学校の女学生たちでした。彼女たちは受験に合格して入学するのだけれど、皆が国民服を着なければならなくなって、憧れの制服も着られない。そのなかで、「わたしは、ヘチマ襟の国民服の胸元に、雙葉の錨のマークを刺繍する」と書いたような子も出てくるわけですね。灯火管制で手元がくらいなか、ひと針ずつ縫っていった。そのようなディティールは、これまで軽んじられていたのか、あまり書き留められてこなかったことですが、わたしはそんな些細ともいえることや思いこそが大事だと感じますし、書きたかったんです。

──なるほど。そもそも今作は、どのような経緯のもとつくられていったのでしょうか。

小林 東京宝塚劇場という場所で風船爆弾をつくっていた女の子たちのことを書きたい、というのが今作の趣旨なのですが、いくつかのきっかけが重なって、執筆へとつながっていった物語なんです。私はこれまで作品制作を通じて核や戦争の歴史をリサーチし続けてきているのですが、そのなかで、日本から飛んでいった風船爆弾が、1945(昭和20)年3月10日にアメリカのワシントン州ハンフォード・サイトの近くで送電線にぶつかり、停電を引き起こしたという事件があることを知りました。ハンフォード・サイトでは、当時進められていたマンハッタン計画により、プルトニウムを精製していました。これは後に長崎に落とされることになる原子爆弾のコアに使われるものなのですが、風船爆弾が与えた影響で原子炉が緊急停止したという出来事があったんですね。

──小林さんはこれまで、放射能をめぐる歴史を材にとった小説『マダム・キュリーと朝食を』、マンガ『光の子ども』シリーズをはじめ、ミュージシャン・PhewさんとのユニットprojectUNDARKでは、第一次世界大戦中に有毒な夜光塗料を時計盤に塗る作業に従事していた女性たちをテーマにした音楽アルバム『Radium Girls 2011』(伝説的ロックバンド・クラスターのメンバーであるディーター・メビウスが楽曲提供)などを制作されてきました。そうしたリサーチのなかで、風船爆弾という存在と出会った、と。

小林 これは本当に偶然なのですが、風船爆弾をつくっていた方のひとりが後にキリスト教カトリックのシスターになり、三十年以上前、東京で育った私がかつて通っていた女学校の保護者会で聖書について語ったんです。

──小説内で数多く登場する、風船爆弾をつくっていた「わたし」のひとりですね。

小林 はい。その方は保護者会で、かつてご自身が雙葉高等女学校の女学生として東京宝塚劇場でつくった風船爆弾のことについてもお話しくださったそうです。普段は、そんな話はなさらなかったそうですが、たまたまその日は、戦争中に亡くなったお友だちの命日だったか何かの記念日だったとか。保護者のうちのひとりとしてそれを耳にしていたのが、私の母親でした。娘である私は、いわばまた聞きとして風船爆弾について知ったわけなのですが、やがて記憶の底にしまい込まれていきました。そんななか、戦争や核の歴史をいろいろと知っていくうちに、先ほど述べたように風船爆弾の存在に行き当たり、そういえば以前に聞いたことがある、と思い出したのですね。

私は東京で育った人間なんですが、中高生の頃のクラスメイトに、宝塚歌劇のファンで東京宝塚劇場にも足繁く通っていた友だちも多くいました。そんな自分にとっても身近な場所で、風船爆弾はつくられていた。そして動員されていたのは、これまた街や電車の中ですれ違うような、雙葉、跡見、麹町といった各学校の先輩たちだった──。あまりにも自分の近くで起こっていた物事の大きさに衝撃を受け、これを本に書いてみたい、と思うようになりました。

──いくつもの出会いによって『女の子たち風船爆弾をつくる』は、かたちをとりはじめたのですね。

小林 すこしずつ調べを進めていくなかで、2018年、そのシスターの方にお話をうかがってみたいと、メールを差し上げました。かつて語っていらした風船爆弾のことについて、ぜひ直接うかがえれば、と……。ただそのときには同じ修道院のシスターの方から、ご本人は既にご高齢で入院されておりお話しできる状況にないと、お返事をいただいたんです。

──小林さんのお母さまが風船爆弾のエピソードを耳にしてからも、既に30年あまりの時が経っていたと、『女の子たち風船爆弾をつくる』にも書かれていますね。

小林 残念ながら、既にお話をうかがえる状況ではなくなってしまっていました。何より東京宝塚劇場で風船爆弾を製造していた少女たちについては、本当に手がかりが少なかったんです。風船爆弾自体は当時の日本全国、あるいは旧満州も含めて製造されたものですので、さまざまに書かれてきているのですが、東京宝塚劇場でつくっていた少女たちに特化したものとなるとほとんど資料が見当たらないということを、痛感していくことになりました。おひとり、雙葉高等女学校の女学生として風船爆弾をつくっていた南村玲衣さんという方が『風船爆弾:青春のひとこま:女子動員学徒が記録』という私家版の御本を書かれていらした以外は、まとまったものが本当になかったんです。

──いきなり障壁にぶつかった、と。

小林 当初は、風船爆弾をモチーフにしたフィクションとして自由に書くことも考えていたのですが、これほどまでに情報がないとすれば、自分が取り組むことが今後このことに興味をもった人がさらに深めていくことができる礎にならなければいけない、と思うようになっていきました。きちんと資料も整理して提示するべきだし、多くの記述は史実をきちんと踏まえるべきだ、と。

──なるほど。独特の「物語」の形式をとる今作のスタイルは、どのように構築したのですか。

小林 これまで核や戦争のリサーチをベースにものを書いてきた、ということは先ほどお伝えしたのですが、実際にあった現実や、そこで生きていた人たちを、どういうかたちで書くことができるのだろうということは、ずっと考え続けてきましたし、多くの書き手からの影響も受けてきました。

──どんな書き手や作品に刺激を受けてきたのでしょうか。

小林 たとえば、『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳、岩波現代文庫)で知られる、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチですね。彼女の場合は、第二次世界大戦の従軍女性たちへの“聞き書き”を、その方法としています。ジュリー・オオツカが、20世紀初頭に「写真花嫁」として渡米した日系人女性たちをテーマにした『屋根裏の仏さま』(岩本正恵・小竹由美子訳、新潮クレスト・ブックス)や、第二次大戦中に強制退去によって追われる日系人一家を描く『あのころ、天皇は神だった』(小竹由美子訳、フィルムアート社)であれば、そうした人々の総体を“主語”にすることで、作品が支えられていると感じます。キム・スムの『ひとり』(岡裕美訳、三一書房)は、旧日本軍慰安婦の女性たちの“証言”を小説に織り込んでいくスタイルでした。

──三者三様であり、共通項もまたありますね。

小林 「こんなかたちで現実を記して、物語にできるんだ」と、すごく大きな影響を受けました。そのうえで、私がいまいる日本という場所の歴史を踏まえて、そこで生きてきた女の子たちを書くときに、どういう書き方が可能なのか悩みました。「わたし」/「わたしたち」という主語は、その模索のなかから生まれていったものでもあります。

記録の少なさという問題にかんしても、実際に風船爆弾をつくっていた方々にお会いできないか、各学校に問い合わせをして探していきました。多くの方が亡くなられてしまっていたり、ご高齢で話せる状態になかったりして、実際にお話しできたのは、南村さんの他、同級生のご友人が風船爆弾をつくっていらしたという方おひとりでした。

──そうだったのですね……

小林 一方で驚いたこともありました。各学校の方々が、卒業生が集った場でおこなった聞き取りのメモなどを見せてくださったんです。それを目の当たりにしたときは、本当に感動しました。誰かがそのときに大切だと思って書き留めたものを、また別の誰かがそれを大切だと感じて保管していて、私の手に渡してくださったということは、奇跡のような、とても尊いことだと感じました。

それは、政治家だとか、軍人だとか、いわゆる大文字の「歴史」に書かれてきたような偉人ではない、一人ひとりの少女たちの記録なのです。たとえば太平洋戦争の歴史について書かれるときは、男性の名前ばかりが並ぶことが多い。私自身も今回の作品を書いていて、あたりまえのように男性ばかりが登場しつづけてハッとすることがありました。女の子たちの名前がいかに書かれてこなかったか……。そのなかでも、風船爆弾をつくった女学生たちのことを誰かが大切に思い、書き記して、後世に託してきた。その思いとプロセスをきちんと記したいと思い、『女の子たち風船爆弾をつくる』ではたくさんの注釈をつけました。この本は私自身が書いたというよりも、少女たちの声、その声を聞いて書き留めてくださった方たちの思いでできているんです。

──2024年のもう一冊の新刊『彼女たちの戦争 嵐の中のささやきよ!』(筑摩書房)は、そうしたジェンダー面での不遇のなかで生きてきた女性たちの列伝になっており、「ラジウム・ガールズ」も「風船爆弾をつくった少女たち」も登場します。

小林 思い出すのは、先ほど触れた南村さんにお目にかかったときのことです。風船爆弾をつくった日から長い時間が──結婚して子育てをして、という日々が過ぎていったある日、彼女は街の書店のショウウィンドウに、かつて自分がつくったのと同じ風船の写真を見かけたそうです。そこで初めて南村さんは、自分がつくっていたものが風船爆弾とよばれる兵器だったのだと知った。その衝撃は想像するにあまりあるわけですけれど、南村さんは子どもを背負って防衛省に足を運び、自分たちがしたことは何だったのか調べ上げて私家版としてまとめ、かつてのご友人などに配ったということなんですね。

どうしてそこまでなさったのかと訊ねると、「知らされなかったことへの抵抗です」とおっしゃいました。その言葉の重さは私自身もずっと考え続けていますし、聞いてしまったからには、私もきちんと書かなければならないと感じます。

──『女の子たち風船爆弾をつくる』では、元から不均衡な社会のなか、銃後の位置で社会に貢献しようとする少女たちが、結果として戦争に加担してしまう様子も描かれますね。

小林 弱い立場に追いやられれば追いやられるほど、より強い立場の存在に加担しなければならない、自発的に頑張ることで自分たちの価値を理解してもらえないと生きていくことができない……そうした切羽詰まった状況があることに、書き進めてゆくなかで、はじめて気がつきました。にもかかわらず、たとえ戦場で死んでも男性兵士のように英霊として祀られることもなく、名が刻まれることもない存在だった。だからこそ『女の子たち風船爆弾をつくる』では、私がわかる限りの女の子たちの名前を刻むことにしました。南村さんのおっしゃっていらした「抵抗」という言葉を重く受け止めながら、これからも書いていきたいと思っています。

──小林さんはキャリアの初期に、アフガン空爆があった日には他人の家に泊まるという取り組みを記録した『空爆の日に会いましょう』というご著作があるように、戦争というテーマに一貫して取り組んでいますね。アンネ・フランクの日記と、戦中・戦後のお父さまの日記を重ねて読んでいく『親愛なるキティーたちへ』というエッセイもあり、個人の断片的な記録という観点も特徴的です。

小林 子どもの頃は、戦争は「昔のこと」、白黒映画の中のことだと思っていました。でも、湾岸戦争のニュースを見て、「いまおきていること」だと知って驚いたんです。いまここに生きているわたしと地続きの戦争をどうして止められないのだろうという疑問には、ずっと答えがないのですが……。私がなぜ、いま、ここに生きていて、一方では、なぜ、戦争で死ななければいけない人がいるのか。私は半径1メートルのことをはじまりに、それを深く掘りつづけていて、そうするうちに、どうしても戦争のことにぶちあたってしまう。

──少女たちや女性たちの記録にもこだわっています。

小林 子どもの頃に読んだ、『アンネの日記』の影響も大きかったのだと思います。そしてそれは、今現在の、パレスチナに生きる少女たちにもつながっています。少女や女性たちの記録になぜこだわるのかと聞かれれば、私自身がかつては少女だったし、女性だから、という答えになるかもしれません。私が女だからこそ、他の女の人はどうしているのかな、自分の先輩たちはどうしてきたのだろう、という関心がある。

いまでこそ数は増えましたが、男性の有名人の伝記に比べて、女性の伝記は本当に数が少なかった。他の女の子たちがどうやって生きてきたのか、ロールモデルが本当に少なくて、ずっと知りたいと思ってきたんです。

──インタビュアーは男性ですが、たしかに伝記を読むのに困った記憶はないですね……

小林 トマス・エジソンから福沢諭吉にいたるまで、たくさんありますよね(笑)。『女の子たち風船爆弾をつくる』にかんしてはロールモデルというわけではないかもしれないですが。私は、既存の評価軸で評価される女性だけでなく、一人ひとりの生がもっと大切に、尊いものとして描かれていいと感じています。

戦争中といえば、防空頭巾をかぶって芋を食べ、焼夷弾から逃げ惑うという、今を生きる自分の生活とはかけ離れたイメージが、私の中にはありました。たしかに本土の空襲が激しくなればそうした日々が訪れます。けれど、戦争というのは、それだけが全てではない。『女の子たち風船爆弾をつくる』でも描いているのですが、外地で自分たちの兵隊が何をしていても「この街は、きのうと少しも変わらない」と書いたような日々もあったのです。今回「わたし」として登場した女学生たちは裕福な家の子たちが多く、「バターがとろけるパンケーキ」を食べていた女の子もいる。受験もあったし、勉強に励まなきゃ、お琴やお花のお稽古に取り組まなきゃ、といった日常が、戦争の最中でも同時に続く。そうした女の子一人ひとりの生活を、書きたいと思いました。

──変わらない、それでいて決定的な変化は刻一刻と訪れている日常こそが長かったのだ、と。

小林 そうした日常が敗戦の前にあったことも見えづらく、また戦前と戦後がこんなにも地続きなのだということも、私は知りませんでした。敗戦によって、戦前や戦中とは全く違う民主的な日本社会になった、と私も学んできましたが、調べれば調べるほど、全然そんなことはない。女の子たちの人生はずっと続いていて、戦争協力者の男性たちが手のひらを返したようにアメリカにすり寄っていく様子も、逆コースのなかで戦犯だったはずの男性たちが体制に戻っていく様子も、すべて彼女たちは目の当たりにしていたはずです。そして風船爆弾をめぐる事実は長らく知らされず、仮にかつての友人に話そうにも、妻として夫の家に嫁いでいるなか、おいそれと同窓会にもいけないような状況さえあったでしょう。私自身、今回の作品を書いていくなかで、はじめて知ったことでした。

──『女の子たち風船爆弾をつくる』をつくりはじめるにあたって、手がかりが少なかったという所以も、ようやく体感的に理解できてきました。

小林 でも、この作品を発表してゆくなかで、いろんな人たちから声もかけてもらえたんです。たとえばミュージシャンの寺尾紗穂さんたちと2023年に音楽朗読劇「女の子たち 風船爆弾をつくる Girls, Making Paper Balloon Bombs」をつくったときには、友人の編集者さんも見に来てくださったんですが、見ている途中で「……これ、ひょっとして大ママ(お祖母さま)のことかも」と気づいた、と。公演が終わって母親に連絡したら、やはりお祖母さまは、東京宝塚劇場で風船爆弾をつくっていた、とわかったそうなんですね。

──そんな出会いがあったのですね。


上:音楽朗読劇「女の子たち 風船爆弾をつくる」のトレイラー。公演映像はvimeoで購入・鑑賞できる 下:友人の祖母であり、跡見高等女学校の女学生として風船爆弾をつくっていた女性が戦後に手がけたコサージュ

小林 明治大学平和教育登戸研究所資料館のイベントに登壇してお話したときにも、風船爆弾をつくっていた方のご家族が来てくださるなど、この本にかんするトークをする場に、ご自身が伝えられてきた記憶や記録をもってきてくださる方々がきてくださるし、私の聞き取りも、本を書き終えてもずっと続いています。

歴史とは、本当に私たち一人ひとりがつくっていくものなんだということを、改めて実感し続けているところです。これまでに集めた証言や資料も、明治大学平和教育登戸研究所資料館にお預かりいただけないかと、ご相談しているところです。私が手にしたものを、これから先にもさらに、きちんと手渡していけるような環境をつくりたいと思っています。


profile

宮田文久|Fumihisa Miyata

1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。