私はお腹の子を大きくするための装置でしかなかったのだ。——藤野可織「「妊娠」と過ごしてきた」(『私の身体を生きる』収録)より
TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki
初めて見る風景は初めての心の動きを誘発する。私は最近、歩きなれた明治通りや表参道で、六本木の方へ向かう外苑西通りや東通りで、或いは渋谷や新宿の駅前で、何度も何度も通った場所の初めて見る風景を見ている。
最初に目につくようになったのは「おなかに赤ちゃんがいます」のマークだった。区役所に母子手帳を貰いに行ったとき、自分の手元にも舞い込んできたそのマークは、もちろん優先席の表示や駅の注意喚起などで見たことのあるものだったけれど、同じ電車内にこんなにたくさんそのマークをつけた妊婦と思わしき人がいるとは思わなかった。座ってスマホ画面に夢中になっている学生の前に妊婦さんが立っているのがどうしても気になるようになった。
病院でもらったベビーグッズのレンタルや通販の案内冊子を読み込んでからはベビーカーにばかり目がいくようになった。同じ混雑でも、表参道や神宮前の交差点にはベビーカーが多く、渋谷駅前には少ない。新宿駅の地下には意外にも結構いる。サイベックスというメーカーが異様に多いのはこの辺りの土地柄というか、港区や渋谷区に住むような人の好みに合うのだろうと思っていたが、実家のある鎌倉駅付近でも数台見た。ベビーカーを目で追っていると、渋谷や青山の坂の勾配が気になってくる。いつも歩く道が意外と急勾配であることに気づいた。
その駅が最寄り駅だったことは人生で三回もあるのに、産科の有名な病院がその近くにあるのをすっかり見過ごしていた。タクシーで何度も通ったことのある道で、一度も見上げたことのなかった高層の病院の中を、今は目指して毎月通っている。待合のあるフロアにはどこからこんなに集めたのだろうと思うほど、「おなかに赤ちゃんがいます」マークをつけてお腹を膨らませた女性とその横に寄り添う若干所在ない顔をした男性ばかりいる。毎回ものすごい量の人と居合わせるのに、今のところ同じ顔を二回見たことがない。それくらいたくさんの人が通っているらしい。
まさか自分が通うなんて考えたことはないし、別に行きたいと思ったこともなかったそんな場所で、今までの人生で意識して見た妊婦の総量を超える数の妊婦をたった数分で目の当たりにしながら、最初に感じたのは劣等感だった。都心の綺麗な産科で、診察の順番を待つ人はどの人も妊娠するべくしてした人のように思えた。ただでさえ事故のように妊娠した私は、この中で最も身体を粗末にして生きてきたに違いない。
劣等感を抱きながらなぜか過去のあらゆることが罪悪感とともに思い出された。十代から一度も禁煙したことがなかった。美味しく正しいお酒の飲み方も知らなかった。愛しているひととのセックスを覚えるよりずっと前から知らない男たちとのお粗末なセックスを覚えた。大して知らない男と避妊もせずに寝た。合法か違法かよくわからないものを何度も口や鼻にいれたことがあるし、美容やダイエットにいいというものは調べもせずにこっそり輸入して平気で服用した。妊活中の人が絶対避けた方いいと書かれている注射を年末に打ったばかりだった。悪いことばかりしてきた。少なくとも将来子どもを産むかもしれない女の身体としては悪いとされることばかりして、大した罰も受けずにうまいこと生きてきてしまった。
だから何かの検査をするたびに、きっとその結果で私の妊娠生活は終わるとほとんど確信に近い恐怖を感じて診察室に入った。私の妊娠が順調であるはずがない。人生そんなに甘くはないし、きっと最も幸福度の高い瞬間に今までの人生のツケが襲ってくるのだろうと思っていた。待合室にいる他の全ての人たちが清潔で健全に見えて、自分だけが汚物のように思えた。十代の私にとって半ば誉のようだったその感覚は今では申し訳なさと怖さしか運んでこなくなっていた。特に検査に問題がないと言われる度に、もう一回詳しく調べた方がいいんじゃないですか、と医師に直談判したい気分だった。私は事故のように舞い込んだ妊娠を思いの外喜んでいて、想像していなかったその気持ちにとても臆病であった。自分にこういう形の幸福を紡ぐ資格があるとどうしても思えず、毎回待合室で絶望に備えて固まっていた。
私の恐怖をよそに私の身体はいくつかの検査を潜り抜け、今のところ特に何か不具合を宣告されることなくまた次回の検診の予約日を待つ日々を送っている。私は職業柄今までもよく自分の若い頃を思い出し、今生き延びていることを幸運でしかないと感じてきたが、妊娠に関して、またその際の検査をいくつか問題なく通過したことに関して、幸運などという言葉ではどうにも整理しきれず腑に落ちないままだった。身体を大切にする、ということと全く逆のことばかりしてきたことを思うと、身体を大切に節制してきた人にとっては私が健康であったり自分が生き延びることができたりした以上の幸福を描くのは不公平に思えるのではないかとすら思った。次第にそうやって不安でいることに疲れ、私よりずっと幸福になるに値する夫や、運が良ければ出会えるお腹の子の幸福のために、私の身体は使われるべきなのだと思うようになった。それは私にとって随分と気が休まる思考となりつつある。
「私はお腹の子に殺されると思った」というほど壮絶なつわりの経験が綴られた藤野可織のエッセイ「「妊娠」と過ごしてきた」のなかで、病院で点滴をされながら、その点滴が私を楽にするためのものではなく「お腹の子どもを生かすため」になされるのだと理解する場面がある。妊娠と無縁だった三十代女の私はそれを、結構怖い気づきのように読んだ。私にとって好き放題穢してきた自分の身体は私だけのものでなければいけなくて、そうする権利があるのも不都合を被るのも自分だけであるという状態が心地よかった。はたして妊娠してから読み直すその一節は、私の心を恐怖と不安、そして何より罪の意識から解放する救いになった。私の身体が装置であるなら、それは私の夫やお腹の子が存分に使用できたらいい。いくら私が罰せられるべき対象であったとしても、私の夫や子はそうではないのだから、そのために丈夫な装置が残してあったのであれば、劣等感しかないような過去を経て私の身体が無事であることも少しは腑に落ちる気がするのだ。
鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)、『浮き身』(新潮社)、『トラディション』(講談社)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に、「源氏物語」を題材とした書簡形式の小説『YUKARI』(徳間書店)。
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