あたらしい季節に浮き足立つ人はみんな桜が好き。 ——大田ステファニー歓人『みどりいせき』より
TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki
新横浜というのはそんなに面白い街ではなくて、新幹線を使う人も横浜アリーナでコンサートか何かを見に来た人も、できれば横浜駅にその機能があって欲しいなと思うような場所で、強いて言えばラーメン博物館があるけれど、それだって別に中に入って食べるのはラーメン一杯なのだから、普通に美味しいラーメン屋が数軒あれば事足りるような気がしないでもない。駅前の造りも特徴的ではないし、ビルは新しく歩道橋のかかる道路なんかもどこか侘しく機能的すぎて、特に昼間は愛し方の分からない光景が広がる。夜にはそれなりの歓楽街に灯りがともるのだけど、それもキャバクラがせいぜい十数軒、ホストクラブが数軒、アフターバーが数軒、とたかが知れていて、あとは小さな飲み屋が並ぶくらいでわざわざ出かけるような感じでもない。
そんなところでしばらく働こうと思ったのは、一つにはもともと同じ飲み屋に勤めていた娘が系列の新横浜店に移って売り上げを伸ばしていたから、もう一つにはそこそこ信用していたスカウトマンが、新横浜は出張で来る一見さんが多いから適当に時給で働きたい時には営業が楽だと力説していたからだ。しばらく大学に戻ったりポルノ業界の面接回りが忙しかったりしてすっかり水商売へのやる気が減速し、もうほとんど良い客も持っていなかった私には魅力的に思えた。横浜西口や関内の店では、毎日レギュラーで出勤できない場合にはすぐに指名替えされたりダブル指名にされたりするので、意に反して出勤日数を増やしてしまう。
スカウトマンの勧めもあって私は元いた店の系列ではなく、最も目立つ位置にある飲み屋ビルの最上階、フロアが広く看板が大きい店を選んだ。新幹線駅のあと腐れのない一見客を期待するには良い箱だと思ったからだった。結局その店の居心地がよく、都内に越すまでの残り一年近く、思っていたよりも長く頻繁に通うことになる。居心地がよいというのは要するに、自分と似たような熱量の、つまりあまりここでのし上がろうとか、嫌われてもいいからお金を稼ごうとか思っていない、ゆるゆると楽して働く女が多かったというだけで、別にオープンで風通しの良い社風とかそんなものがあったわけではないけれど、若く、毎日小さな承認とそこそこの日払いだけを求めて歓楽街に来る私には十分だった。
副店長は横浜ではそこそこ大きかった暴走族の出身だというのが信じがたいほど見た目も性格も大人しく、不動のナンバーワンだったユリさんと付き合っているという噂だった。一度私が鍛高譚とテキーラの飲みすぎで店の奥で潰れて、朝まで動けなかった時、最後までなぜか残ってくれたのがその二人だったのであながちただの噂と言うわけではないのかもしれなかった。売り上げは私と似たようなものだがその明るい性格から女番長という感じだったイズミちゃんは入店してすぐに仕事後のカラオケに誘ってくれた。キャバ嬢たちの多くが車で通勤するような時代で、家の遠いイズミちゃんは営業中に飲みすぎるとアフターに行かずに女の子同士でカラオケやご飯に行って酔いを醒ますのだと言っていた。
ぎすぎすした雰囲気が極めて希薄な、女の子同士が仲良しの店だった。眼鏡のちょっと太った店長は嫌われていたけど、接客はうまい男で、なんだかんだ客が機嫌を損ねると普段は嫌いな店長に頼る女の子も多かった。一人だけ、長く勤めているのにあまり誰とも喋らないヒカルちゃんという子がいて、顔はとても綺麗なのだけど少し怖そうに見えるのか、あまりお客もつかず、待機の席で携帯電話や自分のネイルを見ていることが多く、私はなんとなく人付き合いが嫌いな子なのかなと思っていた。いつも大きなショールを肩からかけていて、それは右の肩と二の腕にド派手に桜の刺青が入っているからなのだけど、そんな事情もあってちょっと異様な雰囲気を醸し出していた。
一度、店がはねた後に皆で時間を潰してお昼前に花見をしようなんて、誰が言い出しっぺなのかよくわからない店の企画が立ち上がり、結局参加者は出勤していた女の子の四分の一にも満たない八人くらいと店長たちだけだったのだけど、珍しくヒカルちゃんが残っていたことがあった。つまらない新横浜には桜が綺麗な公園があって、しかし朝寝坊なキャバ嬢たちはせいぜい同伴の途中で夜桜を横目で見るくらいしかしていなかった。
店が終わった後はそれぞれVIPルームのカラオケを勝手に使ったり、客席で寝たり、短いアフターに行ったりして時間を潰していたのだけど、最初の内はやはりヒカルちゃんが誰かと喋ることはなく、いつも座っている待機席のソファでうとうとしていた。だからVIPのカラオケにいたイズミちゃんが「ヒカルも歌おうよー」とトイレに行くついでに誘ったとき、周囲も誘った本人も、承諾されるなんて思っていなかったはずだ。
VIPにいた数人に混ざってからのヒカルちゃんはよく笑い、そのまま午前中に公園に移動してみんなで飲んでいた時も普通によく喋っていた。車通勤のヒカルちゃんはそういうことが多いのか、その日も家からドレスで来たようで、みんな私服のなかひとり肩を出したドレスを着て明らかに寒そうなのに、営業時間以外はショールから解放されるのが嬉しいのか、肩の桜吹雪を丸出しにして、最終的には踊っていた。花見のあと、前にいた川崎の店では女の子たちの関係が嫌な感じで、自分は新横浜の今のお店の雰囲気の方が好きだと言っていた。私も、つまらない街だけど新横浜が好きになっている気がした。それからは私もイズミちゃんも、ヒカルちゃんと営業中にも営業後にもよくしゃべるようになった。
すばる文学賞を受賞した『みどりいせき』は不思議なリズムとやけにスケールの大きな比喩や描写に誘われて、いつしかわかったようなわからないような青春の仲間たちの輪の中に入っている感覚になる、不思議な小説だった。冒頭、桜が散ると皆悲しむから、「だから環境にやさしくない人類への復讐として、遠い地球の裏側にあるキャベツ畑のモンシロ蝶は憎しみを込めて羽ばたき、気流を立ち上げると、その因果は海を越えながら威力を増してって、気象を操りながら校舎裏のソメイヨシノをハゲさし、路肩が汚れる」という一文に痺れて、ああでも桜ってほんとすぐ散っちゃうよな、と、数少ない桜の記憶を手繰り寄せた。
鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)、『浮き身』(新潮社)、『トラディション』(講談社)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に、「源氏物語」を題材とした書簡形式の小説『YUKARI』(徳間書店)。
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