What is Editing?

手を動かした先にあるものへの誘惑──『自炊者になるための26週』著者・三浦哲哉に訊く

世界を丸ごと、口にほおばることはできない。私たちはいつだって世界の断片しか口にすることはできないし、逆にいえば毎日食しているその断片は、自分を取り巻くものへのつながりを紡ぎ直す、豊かな手がかりになりうる。だから自ら料理して食べるということ=「自炊」は、ひとつの編集行為でもある。たしかに手間ではあるのだけれど、腹を満たすという以上の意味をもつような、世界とすこしずつ交歓する技術なのだ。

インタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」第12回は、『自炊者になるための26週』(朝日出版社)を上梓した三浦哲哉に話を聞いた。映画研究者として活躍する一方で、『食べたくなる本』(みすず書房)や『LAフード・ダイアリー』(講談社)など、食をめぐる執筆活動でも話題を呼んできた筆者だ。面倒を超える、「風味」の感動こそが自炊の肝だ──そのように読者を誘惑する本書から、どんな風景が見えるだろうか。2024年2月、関東に降った雪が残るなか、三浦の自宅を訪ねた。

TEXT BY FUMIHISA MIYATA
PHOTO BY KAORI NISHIDA

──海が近いこのご自宅は、地魚を日常的に食べたいということで引っ越してこられたのですよね。

三浦 そうですね、2017年からこちらに住んでいます。引っ越しを決める前に方々の物件を探したのですが、ここは歩いてすぐの場所に、朝どれの地魚を売っている魚屋さんがありました。初めて店を訪れたときは冬でしたが、旬のカワハギが水槽で泳いでいて、一匹300円ぐらいとお値打ちで。「これは素晴らしい環境だ」と直感したんです。

──信頼できて判断を任せられる店と出会い、買い物をしようというのは、『自炊者になるための26週』にも書かれていることですね。そもそも本書をご執筆されるには、どんな経緯があったのでしょうか。

三浦 2019年に、料理本や料理エッセイを批評的に読む『食べたくなる本』という本を出した後、雑誌でインタビューしていただく機会があり、いつか自分でも料理本を書いてみたいと話したんですね。その際には『味覚のアンラーニング』という適当な仮タイトルをつけていたのですが、『食べたくなる本』の文章を連載時から読んでいただいており、インタビュー記事もご覧くださった朝日出版社の編集者・大槻美和さんからお手紙を頂戴し、『自炊者になるための26週』という本の企画が立ち上がっていきました。タイトルこそ変わりましたが、味覚をアンラーニングする(学び直す)というコンセプトは、『自炊者になるための26週』に活きていると思います。

──さまざまな料理研究家の本に感化されながら、いろんなベクトルの美味しさと出会ってきた三浦さんならではの一冊ですが、なぜ自ら料理書を書きたいと思われたのでしょうか。

三浦哲哉|Tetsuya Miura 1976年、福島県生まれ。青山学院大学文学部比較芸術学科教授。専門は映画批評・研究、表象文化論。食についての執筆もおこない、2023年12月に『自炊者になるための26週』を上梓。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程修了。他の著書に『サスペンス映画史』『映画とは何か フランス映画思想史』『『ハッピーアワー』論』『食べたくなる本』『LAフード・ダイアリー』など。

三浦 振り返ってみれば、小さい頃から1980年代以降のグルメブームが直撃した世代でもあって、『美味しんぼ』や『料理の鉄人』など、食や料理にかんする情報は浴びるように摂取してきたという気がします。決定的に料理本にハマるのは二十代前半のことで、十カ月間のフランス滞在から帰国したときに、これまで当然すぎて意識しなかった日本の食がとても新鮮に感じられました。そして、自炊のやり方も一から組み立て直してみたい、という欲望に駆られたんですね。特に大きかったのが、料理研究家・丸元淑生の存在でした。彼はかつお節を削れというのみならず、「かつお節削り器を削れ」、つまり削り器の刃を自分で研げというくらい(笑)、ストイックな料理のシステムを構築する人。そうした態度が面白いなと思い、映画の研究と並行しながら、のめり込んでいきました。私自身、もともと没頭しやすいというか、感情移入しやすいたちなんでしょう。まるで丸元信者とでもいえるほどに、すべてを一から見直すというのが、面白くてしょうがなかったですね。

──自分をめぐるシステムをつくり変えていく面白さ、ということでしょうか。

三浦 そうなんです。台所の生活というのは、自らが生まれ育った環境というものがデフォルトになりやすいですし、それを持続させていくことの良さもまたありますが、私の場合はそれを改造できるのだ、という考え自体に夢中になったのだと思います。ただし丸元にかんしていえば、小説家でもあった彼の文章はとても魅惑的な、読ませる文章である一方で、現代社会の食をめぐる環境を嘆き、説教し、ほとんどもう陰謀論といえるレベルで読者を脅し、矯正していくようなところがあったのも事実です。

──極端であるがゆえの魅力と問題があった、と。

三浦 そうした丸元にかつて感化された身であるからこそ、私が料理書を書くならば自分なりに距離を取ろうと思いました。脅すのではなく、できるかぎり、読者を自炊へと“誘惑”していくように書けないかな、と。他にも、有元葉子さんや高山なおみさんといった名だたる料理研究家の方々の本や、海外の郷土料理の本などに魅かれ、集めて読んでは影響されてきました。「やっぱりジャンクフードっていいよね」と、針が真逆に振れたこともあります。私は、そうした揺らぎは、いいものだと感じているんですよね。

──揺らぎのよさ、ですか。

三浦 映画の研究をしていると当然、古い作品を見ることがあります。それをいまの自分が面白がれないからという理由で排除することはできません。自分はまだ楽しみ方を知っていないけれども、かつて歴史上のある時点、ある地域で生き生きと楽しまれた何かである、と信じて見るわけですよね。欧米のサイレント映画でも香港のカンフー映画でも、自分がいま持っていない習慣や感覚のようなものをかつての観客たちはもっていたという前提で、そこににじり寄ったり、ダイブしたりしてみる。自分のものの見方や感じ方をいったんペンディングするといいますか、解除してみて、何かを浴びるように体に入れる。それはとてもスリリングな経験です。

──その揺らぎに導かれるような、料理(本)をめぐるご自身の変遷のなかから、『自炊者になるための26週』の重要なコンセプトである「風味」というアイデアも生まれてきたのだと想像します。人間の味覚には、においが強く影響しているからこそ、風味を最大限に楽しめる料理をつくってみよう、という本ですよね。

三浦 においや風味を中心に食を考えるということは、もちろん私のオリジナルではなく先人たちが紡いできた歴史があり、近年でも先端的な研究が進んでいる分野です。そのうえで今回改めて、食や料理の外で考えられてきたこと、映画などを含めた他分野の知見をつなぎあわせて考えられるのだと実感しました。本書のなかで、「食べ物の風味は、遠くの何か、いまここには存在しない何かを映す、映像である」と書いています。スペイン映画を見るときは、スペインの光景が、スクリーンを介して私たちに届くわけです。特にフィルムの時代はダイレクトでした。カメラのレンズに収めた光がセルロイドのフィルムに感光され、編集・複製を経て各地の映画館にやってきて、スペインの光と影がスクリーンに投影される。料理の快楽も、こうした映画の魅力とかなりの程度、パラレルなものだと感じます。いま、ここにはない、外の様々な世界の断片を楽しむあり方が料理であり、自炊である、ということを書いてみたかったんです。

──そうした風味の感動こそが、自炊の面倒さを超える──そんな料理をつくってみようという本ですね。自炊の初歩的料理として紹介されている、こんぶとかつお節で出汁をとった「青菜のおひたし」を自作してみましたが、近所の畑で売っていた青菜の風味が薄味のつゆのなかで生き生きと感じられ、とても美味しかったです。同時に興味深いのは、極力手間を減らそうとする近年話題の料理本・料理語りに半ば逆行しているということです。

三浦 そうなんですよね。もちろん私自身、現代という時代を見事に映した時短料理の本はとても面白く読んでいますし、著者の方々をリスペクトしています。ある料理研究家の方は、かつてはだしをとって料理をつくっていたけれど、家族の誰も美味しいといってくれなかったとおっしゃっています。うま味調味料などを使った、いわば風味の揺らぎという違和感がない、バランスのとれた料理をつくったら、みんなが美味しいといってくれた。それが大きな経験で、だからこそ自分は、画一的な美味しさこそを追求するんだ、と。

──それもまたたしかに、現代的な味のひとつではあるわけですよね。三浦さんもまた、ファミレスやコンビニを含めた画一的な美味しさがあるからこそ、自炊では素材の風味を活かしてみては、という書き方をされています。ロサンゼルス滞在時の食生活を綴った『LAフード・ダイアリー』も、一見画一的に思えた食文化の多様性に気づいていくご著作でした。

三浦 風味を重視する感覚も、画一的な味を愛する感覚も、ひとりの人間のなかに同居しています。そして、外からやってくるにおいの感動、風味の揺らぎというものは、たしかに一瞬ギョッとするものでもあるんです。時短の料理や画一的な味つけは、“他なるにおい”を少なくしていくことによって、みんなが美味しいと感じるようにしていきます。そうした画一的な味つけのほうに寄っていく時世があって、いまは自炊経験が少ない人もまた、オムライスならオムライスとしての完成形が既に存在していて、そのかたちに近づけるのが美味しい料理をつくることだと思いがちだという気がします。

──完成された、揺らぎのない料理を目指しがちだ、と。

三浦 それに対して私は、素材が一皿の料理に変わっていくさまを観察し、味わうことが、完成品をつくって食べる以上に興味深いことなのではないか、といいたいんです。風味の魅力について、説得をするのではなくて、筋のとおった誘惑をしてみたい……『自炊者になるための26週』は、そんな本なんです。ひたすら誘惑をする、という(笑)

──さまざまな風味のほうへ、誘うわけですね。

三浦 もちろん、誘惑をされたくない人に無理をさせたいわけではないんです。「恋をしたほうが楽しい」などということばが当てはまるかどうかはケースバイケースであるように、誘惑に応じてハイパーアクティブになったところで人生が幸せかどうかは、本当に人によります。ただ私の場合は、においの誘惑にのっていくことで、たしかに暮らしが変わっていった。その楽しさを書いたということでもあるのです。

──編集の観点でいえば、ミュージシャン・近田春夫さんの「プロセスと結果の関係は、作り手と食べる人が同一で初めて知ることが出来る秘密」という自炊をめぐることばや、社会学者・真木悠介による、他者の魅惑的なにおいによる自己の変容という議論が引用されていることが印象的です。現代における編集とは、まさに「変容」の「プロセスと結果」をシェアすることではないか……そんなことも考えさせられます。

三浦 近田さんは、自作自食する料理は失敗のない世界だ、ということもおっしゃっていますよね。今回においにかんするテクストを引用した精神科医・中井久夫にかんしても、別のところで読んで印象的だったエピソードがあります。中井は患者に対して、実験に失敗はない、と語りかけていたそうなんですね。状況を変えようとして、それがもしうまくいかなかったとしても、実験、つまりは試みだと考えよう、と。そうすれば失敗しても、データやサンプルが得られるわけです。自炊にかんして私が提案しているのも、実験としてやってみよう、ということです。

──実験としての自炊をつづけてみよう、と。

三浦 たとえば大根を八百屋さんで買ってきて、料理してみたら、ちょっと甘みが足りなかったとします。でも、それはそれで「今日の大根だ」と受け入れればいい。料理屋さんだったり、客人に出したりするのでしたら文句をいわれるかもしれませんが、自分で食べるのだったら問題ありません。可能ならば、すこし出汁を強めにしたりお肉を入れたりして、うまみを足せばいい。寒さが増す季節になっていくならば、だんだんと甘みが強い大根が店に並ぶようになりますから、今度はその違いが味わえますよね。すべてがプロセスになる。甘みの少ない大根が食卓に乗ったということを、決して失敗とはとらえないということです。

──都度、大根をめぐるアンラーニングがおこなわれるわけですね。今回のご著作はノウハウをシェアしながらも、万能な方法に染めあげようというのではなく、学んだあとは各自が素材と出会っていく、そんなバラバラなあり方へ開かれている気がします。

三浦 大根ひとつとっても、それぞれの、もともとの文脈というものを背負っています。今回お声がけいただいた「編集できない世界」というテーマに引きつけてみれば、大根はおいそれと編集できない。農家さんがこんなふうにつくったこの季節のこの大根、という文脈の総体を尊重するのであれば、過剰な味つけはなかなかできません。個性がなくなり、文脈が消えてしまうからです。思い出すのは、映画批評家アンドレ・バザンの「禁じられたモンタージュ」という議論ですね。

──さまざまなカットをつなげて編集するのが、映画における「モンタージュ」ですね。

三浦 バザンの「禁じられたモンタージュ」は、ワンショットのなかで同時に起こっている出来事を不用意に切り分けてしまったときに、現実性が失われてしまう、という話です。『自炊者になるための26週』では、同じく20世紀フランス映画の世界から、映画作家ロベール・ブレッソンの「何も変えてはならない、すべてを変えるために。」ということばを引きました。ブレッソンにならえば、素材そのものを好き勝手にいじったり加工したりしないほうがいい。個性を保ち、画一化してしまわない。そうして初めてポジティブな意味で「モンタージュ」をすることができるようになる。個性が保たれているということは、素材のなかに多種多様な要素がふつふつと潜在しているということです。すると、編集の仕方によって、秘められていた要素の何かがぐっと前面にせり出てきたりします。もともと在ったけれども隠れている何かを表に現すことこそが「編集」の意義であるとブレッソンは言います。大根に話を戻すと、まず大事なのは、個性を消してしまわないことです。漂白するほど下茹でする、と昔の料理書では教えられたりしますが、そういうことはしない。強すぎるうまみ調味料の味わいで塗りつぶしたりしない。そうすれば、大根が大根のままで「変化」する余地が残るということです。オリーブオイルを足すのか、醤油を足すのか、それによって素材の表情はガラリと変わる。その変化を、実験として楽しめばいいじゃないか。私はそんな姿勢で料理のことを考えています。

──毎度の大根からのフィードバックによって、料理する自分も変わっていくのでしょうね。

三浦 そうですね。たとえばおでんにしても、マテリアルから観察していくようになりますから、その構成要素のイメージがより細かく分解・把握されていくことになります。大根だけでなく、他の具材も含めたいろいろなものをまとめていく、その編集の仕方も変わっていくことでしょう。

──映画も自炊も、手を加えることでむしろ生々しい世界の断片やリアリティと触れ合う、そんな術として通じ合っている気がします。とはいえ、本書には相当な食へのこだわりも書き込まれていますよね。そうしたこだわりをもち、かつ共に生活をおくる人が横にいる場合、図らずも負荷をかけているということはありませんか。料理に限らず、共同の生活者がいる聞き手も、日々を反省しながらうかがうところなのですが……。

三浦 おっしゃる通りで、それは鋭いご指摘だと思います……。こだわりというのは当然よい面だけではなく、わるい面もある。私としては、料理をめぐるあらゆる流儀やスタイルをフラットに考えたいという理想を抱いているのですが、どうしても今回の本では一貫性をもたせようとストイックな書きぶりになるところもあったんです。結果として、実のところ、この本を読んだ直後、妻はとても不機嫌になりました(笑)

──可能な範囲で、お聞かせ願えますか。

三浦 妻も料理をするのですが、やり方には私と微妙に違うところも当然ある。本のなかでは、私のやり方ばかりが正しいものとされているわけです。たとえば本書では、揚げ物をした油を捨てる場合、凝固剤で固めて剥がした後にいきなり「鍋に残っている油の固まりをスポンジで洗わないこと」、「凝固した脂がスポンジにこびりついてしまいます」と書いている。それは妻がやっていることでして……まあ、よく考えればどっちでもいい些細なことなんですが、妻から見れば、まるで反面教師として本に書かれてしまっているわけです。他には、妻の好きな我が家の定番料理がいろいろと入っていないことにも首をかしげていて。ふつうの餃子とかですね。自分の本の中の自炊スタイルを一貫させようとしすぎて、そこに容れられるものの範囲が狭まってしまった。本書でお勧めしている自然派ワインにしても、それこそ実験として、かなり攻めている作り手のものを買って試す日々をつづけたものですから、途中で妻はうんざりして「毎日毎日、自然派ワインか!」と怒ったことがあります(笑)。私も「たまには普通のワインも買ってくるね」と反省しました。

──なるほど……。

三浦 一方で本書の冒頭では、風味を堪能する第一歩として、トーストのおいしい焼き方を示しています。「いいにおいのする熱々の湯気を、パンに充満させること」が重要で、つまりは食べる直前に焼く必要があります。ただ、朝の忙しい時間帯は、とりあえずトーストを焼き始めた後、コーヒーを淹れたり、テーブルセッティングをしたりしている間にいつのまにか10分ぐらい経って、トーストが冷めてしまうことはあるわけです。妻がトースト当番のときも往々にしてそうなります。そういうときの私は「ああ、湯気が! 湯気が……!」という心境になってしまう(笑)。ただ、ケンカにならないよう、それは口に出さず、なるべくおおらかでいようと思っているのですけれど、今回この本を書いている最中は、理想のやり方への「こだわり」が勝ってしまい、文章にもそれが表れてしまったのだと思います。とても反省しています。書籍の終盤では「家事分担」について書いてもいますが、簡単に正解を示すことなどできない、難しい問題だと改めて思いました。家事をやらないことだけでなく、やりすぎることもトラブルのもとです。たえず配慮し合いながら、終わらない調整をつづけてゆくほかありません。本を書いた後だからこそ、一層切実に気づいたことです。

──今回の書籍もまた、変容のプロセスの途中にあるものなのですね。『食べたくなる本』では、さまざまな料理研究家と家族の関係が記述されていましたが、食をめぐる問題は、やはりさまざまな方向において社会性を帯びますね。

三浦 その通りです。風味、とくににおいの嗜好は、かならず社会的なテーマとつながります。ある風味を好む人と、好まない人がいる。ある場所ではいいにおいとして愛好されている料理も、ちがう場所では単に「くさい」と思われるだけかもしれない。ところがその「くさい」においこそが、ある社会集団にとっては自分たちの誇りやアイデンティティを託すもの、たとえば「ソウル・フード」だったりもします。世界にある多種多様な風味を、未知のものも含めて知りたいと願い、自炊生活に取り込んでいきたいと思う人と、あまりそうは思わず、既知の風味に囲まれていれば幸せという人もいます。当然ながら個人差があり、互いに尊重する必要があります。『自炊者になるための26週』は多様な風味を取り入れることの楽しさにフォーカスする本でしたから、あえて主題として論じることはできませんでしたが、もちろん、においにはネガティブな側面もありますし、くささというものは基本的にプライベートにかかわるものでもあり、拒絶につながる部分もある。

──においというのは、真木が語るようにユートピア的に存在同士をつなぎあわせていく側面と、他方で人々を分断してしまうような側面をあわせもつわけですね。風味を自炊の核に置いたからこそ、普遍的な問いも見えてきます。

三浦 『自炊者になるための26週』は、そうした関係性を調整する技法として書いたつもりではあります。嫌いなにおいは拒絶する、という態度だけでは他人と暮らしていくことはできません。私自身の問題は何でも性急に取り込もうとしすぎることだということが反省点として浮かび上がったりもしましたが、とはいえ、適度な関係性を見出すための前提としても、未知の風味をリスペクトしつつ知ろうとし、その誘惑を拒まず、変化を恐れない姿勢が大事だという根本の主張が揺らいでいるわけではありません。どんな風味を心地よいと思うのかという習慣自体もある程度は変えていくことができるし、具体的にどうすれば変化を呼び込むことができるか、というのがこの本の中心的なテーマですし、やりすぎなければ有用だと考えます。

──何気ない一食一食の積み重ねが、つくりあげていくものがありますね。

三浦 毎日の食事をどうするかということは、家族関係にとっても大事ですし、家の外の共同体のありかたを考えるうえでも大事です。本書では、なるべく近所に、頼れる八百屋や魚屋を見つけて食材を買うことをおすすめしています。顔の見える関係、風味がつなぐ関係において、自分の地域の畑がどうなっているのか、漁場がどうなっているかがイメージできるようになるからです。そこまでつながると、シンプルな魚料理であれ、野菜料理であれ、本当においしく感じられますし、これは人間の幸福度に直結する問題だという気がしてなりません。ただ、魚屋や八百屋を探せと言われても、すでになくなっていて見つからないということはあるかもしれません。でも簡単に諦めず、長い目で、それこそ「26年」ぐらいのタイムスパンで、変化の機会を捉えてほしいと思っています。そのことが、どんな共同体や社会に暮らしたいのかを考えることにつながります。そうした働きかけを最初から諦めるのはもったいないと思っているからこそ、自炊へと皆さんを誘惑しているのかもしれません。

 

profile

宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。