「現実をばかにしないで」 ——映画『熱のあとに』より
TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki
JRの駅を降りて複雑に交差する道を渡り、そのままアニメの専門学校などを横目に坂をまっすぐ降りて目印となる商店が左に見えたところで右へ曲がり、小さな小道を行き止まりまで進んでいくと古い洋館の入り口があった。白い外壁に嘘みたいな蔦が絡まるその装いはレストランかアトリエか、あるいは古くからこの都心部に住む老婦人の住まいか、いかにもそんな感じで、通りがかる人は誰もそこがストリッパーやポルノ女優の溜まりだとは気づかなかったろうと思う。通りがかるとは言っても、行き止まりにある家だから滅多なことではその小さな門の前を他人が通ることはなかったのだけど。
鉄製の、背の低い門の取っ手をかしゃんと回して中に入ると短いアプローチのあとに建物の玄関があり、洋風の両開きの扉の右側だけが開く仕様になっていた。オートロックなんてないので、鍵がかかっているときはインターホンを押して、中にいる誰かにわざわざ下に降りて開けてもらわなくてはならない。慌てて降りてくる足音が、薄いベージュの絨毯の階段で滑って酷い音を立てながら転倒するのを何回も聞いたことがあった。
扉を開けるとそこは何でもないただの日当たりの悪い玄関で、広めの土間の横には十五組くらい同じスリッパが入っている棚があるだけ、あとは薄いベージュの広い階段が、ぐるっと二階に続いているのが見えるだけで、特に特徴のあるものはほかになかった。足を滑らせないように階段を上り、ようやく二階の廊下が見えてくるとそこはすでに裸の女たちの世界で、洋館によく似合う木製の棚にはVシネのDVDやヌード写真集、イベントのチラシなどが並べられていて、その上の壁に掲げられた大きな鏡に映るのも、紛れもなくそういう場所に属する女たち、それから少数の、彼女たちの面倒を見る男や女たちだけなのであった。
二階には大きく分けて三つの部屋があり、一部屋は事務所の運営スタッフが使用し、大きなリビングは面接や食事、女たちの溜まり場として使われ、もう一つのだだっ広い部屋は時に宣材写真の撮影やメイクに、また夜にはホテル代わりに女たちが泊まる部屋として使用されていた。二十歳になったばかりの頃、私はまだ横浜の部屋を借りていて、だから土日にポルノ撮影の予定がある週は、前日の金曜からその洋館に泊まり込んで早朝の集合に備えるのが常だった。初めて訪れた時には鬱蒼とした雰囲気の建物に若干気圧されたものだが、宣材写真の撮影や面接前の準備などで立ち寄り、何度か泊まり込みに来てみると、日当たりが悪くてちょっとかび臭いそこはすっかり居心地がよくなり、同じく泊まり込んでいる地方在住の女優仲間がいれば、深夜にコンビニまでお菓子と缶酎ハイを買いに走り、翌日の撮影がきつくなるのを承知で遅くまでおしゃべりしていた。浅はかな若い私は実家や大学よりも、その古びた洋館が自分の本来の居場所であるような気にもなった。
ただそれも一度、普段は地方巡業に行っていることの多い劇場の踊り子さんたちがまとめて数人、一気に泊まりに来ていた夜までのことだった。金曜の夜に私が到着すると、広いリビングは彼女たちの面倒を見る女性マネージャーを含めて宴が開かれていた。私はそのマネージャーと、ビデオの仕事と劇場の仕事を両方掛け持ちでやっている一人の女の子だけは顔見知りであったから、なんとなく端っこに座って参加したのだが、前に事務所の社長が、「劇場の女の子たちは君とは人種が違う」なんて意地悪を言っていたせいもあって、なんとなく居心地が悪い思いをした。
彼女たちは何日も一緒に地方公演をしたり、それを何年も続けたりしているものだからすっかり仲が良く、また振付や曲選びも自分らでするせいか、台本通りににっこり微笑むだけの私と違ってもっとまじめに仕事に取り組んでいるような気がした。一人は眼鏡をかけていてウエストがものすごく細く、一人はヤンキーみたいな明るい茶髪だったが小さな男の子の母親で、一人は舌足らずな喋り方だが事務所の最も古株の一人だった。他にも何人もいた彼女たちは、大抵前払いでお金をもらっていて、一年のスケジュールは公演を中心に埋まっているプロだった。その夜から私の中で洋館は彼女たちの本当の居場所となり、やむを得ず泊まることがあっても、居心地がいいとか自分の本来の居場所だとかいう風には感じられなくなった。彼女たちは全く自然にその場所を受け入れていて、どこかで「ここ以外にも生きる場所がある」と常に思っているような半端者の私は彼女たちのような崇高さを持たなかった。
そういえばうちの母が若い頃に所属していた劇団で、何度か主演の座を射止めたのにもかかわらず、いつしか自分がそこでは頂点にはいけないと悟ったときのエピソードは不思議なものだった。母が唯一勝てないと思っていた女優は大学を休学中の母とは対照的に、とんでもない田舎から十五歳で出てきた根性のある娘で、とある食事会で、自分の出自の貧しさと小学校のときの成績が平均より随分低かったのを話題にしていたらしかった。それは何気ない自虐交じりの話で、別にだから女優を目指したという文脈ではなかったのだけど、母はその話しぶりに、振り切れた覚悟のようなものを感じてしまって、それ以来彼女に対するコンプレックスがどうしてもぬぐえなかったと話していた。「私にとって観念的だったその場所は彼女にとってはものすごく真剣な現実で、私は絶対にその場所で彼女を凌ぐ才能はなかった」と。
映画『熱のあとに』は数年前に起きた歌舞伎町のホスト刺傷事件を一つのモチーフとして、人を刺すほどの情熱の「その後」の人生の可能性を描いた作品だった。主人公は「幸福は現実だけど本当じゃない」と、真実の愛、本当の愛の持つ熱量をあきらめきれないのに対し、もう一人登場する女性は現実を重視する。真実と現実のどちらが重要かなんて私にはわからないけれど、少なくとも文字を書くような仕事をしているとつい観念的なことに気を取られてしまうのは事実で、そんなことでは圧倒的な現実を生きる女たちを前に、全く無力かもしれないと時折思う。
鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)、『浮き身』(新潮社)、『トラディション』(講談社)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に、『源氏物語』を題材とした書簡形式の小説『YUKARI』(徳間書店)。
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