「まだ生きているひとには声があります。」 ——「いま、日本でパレスチナのために出来ること」(D2021×CLPによる配信)でのパレスチナ人で建築工学研究者のヌマンさんの発言(永井玲衣氏Instagramより)
TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki
なんとなく素っ気ない駅だなと思ったことは覚えているけれど、電車を降りて携帯電話に表示した地図を確認し、東口の目の前の交差点を渡っても、私の目は色を捉えることなく、三月になったばかりのまだ寒い空気の中で灰色のアスファルトばかり見ていた。葬儀場は駅から歩いてすぐで、ガラスの自動扉を入ると、あまり人気のない周囲のどこから湧いて出たのだろうと不思議に思えるほど人が溢れていた。記帳の列の末尾に並んだときも、その後所在なく階段のある奥の方に立って何かを待っていたときも、私の視線は宙を泳ぎ、喪に服す色の布から布に移り飛んでいくだけで、人の風貌や顔色が目に入った記憶がない。
その人と初めて会った日、私はまだ自分の形も把握できていないようなどこにでもいる若い女で、その場では有名な劇作家や哲学者や小説家が何か高尚な話をしていて、場違いであることを悟られないようにこなれたことを言おうとする自分がまた間違いなく若く滑稽に思えて、いたたまれない気分で徐々に端の方へ身体を寄せていた。中目黒だったか恵比寿だったか、中華屋の中は狭く、一番の脇役である私と主役である彼女との距離も、必然的にそれほど遠くない範囲でゆらゆらしている。ふと少し周囲の人が静かになった瞬間、その人は私に向かって小股の速足で近づいてきて、二言三言話しかけてくれた。何かものを書いているなら今度ぜひ読むと言ってくれた彼女の和服は白檀のような清潔な匂いがしたのを覚えている。三味線を弾く自分のことを芸人と呼んでいたのが印象的だった。
あれから何冊か本を出し、特に何かを成し遂げてはいないけれども、どこにいても自分のいるべき場所じゃないような気分はだいぶ気にならなくなった頃、久しぶりにその人に会った。人の集まる場所で、会えることはわかっていたので一番新しい自分の本を持っていったら、すでに買って読み終わったと言っていた。彼女は私の本をすべて読んでくれていた。綺麗で上品で顔の広いその人が、汚くて下品な場所の話ばかり書いている私なんかに興味を持ってくれる理由はよくわからなかったが、私が一度、自分が幼い頃の母との思い出話を書いた時に、長いメールをくれたことがあった。私が母と愛し合いながら理解し合えなかったように、彼女も娘との距離をはかりかねていたのかもしれない。今度また詳しく聞いてねという文末が、その人から届いた最後の文字になってしまった。
葬儀場の大きさに比べて明らかに多い参列者が徐々に会場内に案内され、私もその列の後ろの方で焼香の順番を待った。黒い布ばかりの列に対して、会場前方は少しだけ明るく、色彩があるように見える。別に照明も仏具も平均的なものなのに、不思議だった。焼香の列はそのまま、故人の眠る棺の方へ繋がり、私は気づけば黒い手袋をとって、素手でその人に手向ける花を受け取っていた。色が白く、良い匂いがして、いつも背筋を伸ばしていたその人はその人のまま、でも目を瞑って、声を失ってそこにいた。死にゆく母と娘を描いた私の小説を、彼女はすでに読んでくれているはずだった。彼女の求めていた娘との難題を解くような答えはそこに書いていなかったかもしれないけど、でも今度詳しくと言っていた彼女の話と本の感想を聞きたかった。
「いま、パレスチナのために出来ること」は昨年末にChoose Life ProjectがD2021と合同で緊急配信した番組で、私は永井玲衣さんがインスタグラムで個別の参加者の言葉を紹介しているのを見て知った。中でもガザでの抗議活動とその抗議者たちへの銃撃について語ったヌマンさんの言葉は長く心に棘のように刺さっていた。「抗議とは異議を声に出して申し立てるという、声を使った表現」でありながら、そのことによって殺された彼らの無念についてヌマンさんは「死んで何がつらいかというと、自分の声を失くしてしまうということ」だと思いを馳せる。
永井さんとは一度対談のお仕事でご一緒し、様々な場所で哲学対話を続ける彼女の言葉に引き込まれた。そして彼女が文字にして伝えてくれたヌマンさんの言葉は、暴力によって殺され、声を奪われた者たちについての言葉でありながら、私には死んでしまうということが、その人の声が聞きたい人にとっても言葉を奪われる経験なのだと感じられた。もちろん、銃撃によって無慈悲に奪われた命と、病を経て亡くなった人との間には様々な事情の差があるのだけれど、私は言葉を反芻しながら、三味線を弾き、本を読み、言葉を伝えていた彼女のことを思い出していた。生きている人は「声を失くしてしまった人に、声を貸してあげるということができる」とヌマンさんは話している。私はガザで銃撃に倒れた人が今後あげたかもしれない声も、彼女が今後紡いだはずの言葉も、想像することしかできないけれど、せめて言葉を、声を、惜しむことをせずにいようと思った。まだ生きている、声のある、一介の物書きとしてそう思う。
鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)、『浮き身』(新潮社)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に小説『トラディション』(講談社)。
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