「しょせん人間がおかす程度の悪などが、ジョウドに行くさまたげになることはないのだ。」 ——髙橋源一郎「一億三千万人のための『歎異抄』」より
TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki
水仙の季節には観光客で賑わう瑞泉寺は坂の上にあって、その坂の方から歩いてくる友人を角のところで待つのが日課だった。それから私たちは森永親王が長く幽閉されていた土牢のある大塔宮の境内を通り、受験生が祈願にやってくる絵柄天神の鳥居の前を横切って、白いマリア像のある小学校の正門にたどり着く。朝礼で歌うのは聖歌で、悪さをするとキリストの絵の前で謝りなさいと言われる学校だったが、洗礼を受けている生徒はせいぜいクラスに一人で、同じクラスの親友に至っては偉いお坊さんの孫だった。そのお寺の部屋を借りてクリスマスパーティーをしたこともある。
宗教も祈りも身近にあったが、結構色々な神様が都合よく現れては都合よく身を潜めるので、何かを信仰しているという意識はあまり持ったことがなかった。というか皆かなりいい加減で、学校で習った「天にまします」のお祈りを祖母の家の仏壇に向かって唱える私に「なんかちょっと違うかも」と言った母も、バルセロナの大聖堂で一礼二拍手していた。ロンドンの小学校では昼食の前に全員で手を合わせて感謝の言葉を言わされたのだが、「make us truly thankful」という箇所が、私には「ベイカー・ストリート、サンクフル」という風にしか聞こえなくて、二年のあいだ特に疑問に思わずベイカー・ストリートに感謝していた。日本に帰ってきてから、本来のフレーズを知った。
それでも、葬式や法事で意味するところがよくわからないなりに見様見真似でお焼香の手順を覚え、数珠を握ってお経を聞くことで、バタバタと忙しい日常の中にきちんと悲しむ時間ができるとか、何の宗教の神に祈っているのかわからないままに病気の家族を思いながら千羽鶴を手折ることで、無力でありながらその人のことを想っていることを伝えるとか、大人になるにつれて自分なりの祈りの意味を少しずつ掴むこともあった。特定の神を信じるというよりも、祈る行為自体を時々必要とすると言った方がしっくりくる。
昨年末に訪れた対馬は約710平方キロメートルというけして広大ではない島の中に約200の神社がある神様だらけの島だった。パワースポットについてエッセイを書くという割と気楽な旅だったのだが、機内からリアス海岸と溺れ谷地形の入り江を見下ろした時にはすでに、古くから信仰が盛んな理由がなんとなくわかる気がした。陸地の九割が山地、それも青々とした緑は少なく岩のような険しい土地で、農耕地はほとんどないため、航海術が発展して多くの大陸文化を日本列島に伝えたというのも納得がいく。住吉神社、多久頭魂神社、胡禄神社、和多都美神社と順にまわると、かつて多くの人が何を祈り、何を恐れていたかがよくわかる。神社の多くは険しい山の頂や、海の迫る海岸線にあった。参道を歩き、鳥居の真下に立つだけで、制御不可能な自然の驚異や家族が乗り出していった広い海の物語が浮かぶ。自分の無力を自覚するような大きな力を見つけたときに初めて神を必要とする。自分にはどうしようもないながらも不運を恐れ、愛する人の幸福や健康を祈る。
髙橋源一郎が親鸞の言葉を伝える歎異抄をわかりやすい日本語で現代に蘇らせた「一億三千万人のための『歎異抄』」は、前文に「他人によって理解されるとは、極端な言い方をするなら、それは「誤解」されるということだと思う」とある通り、これまでも多くの人の手で翻訳や研究がなされてきた歎異抄に氏なりに向き合い、解釈した軌跡を記す書でもある。歎異抄も親鸞も浄土真宗も、ほとんど名前しかしらなかったが、この本を読むと宗教弾圧によって一度は僧侶の身分を奪われた親鸞だからこそ唱えられた、生きることに精一杯で崇高な思想や宗教観など持てないような庶民のための教えなのだとよくわかった。最初の内はひたすら念仏をとなえろ、念仏をとなえるだけでいい、という主張に、そうかなぁとひっかかるのだが、その分、善行を積めとか戒律を守れという文言はなく、念仏の内容が理解できず阿弥陀や浄土を具体的にイメージできないような者にも開かれている。対馬の神社に手を合わせた多くの人たちも、きっと生きることに忙しく、小難しい念仏の意味を深く考える暇はなかったはずで、それは現代を生きる私たちについても似たようなことが言える。「ぼくたちは無力だ。無力だからこそ、アミダはその大きな力によって守ってくださるのだ」という言葉に、人生において人の意思でどうにかなることなんて本当に限られていて、その外側に広がる自分ではどうしようもない領域のために神様は立ち現れてくれるのかもしれないと思った。
鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)、『浮き身』(新潮社)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に小説『トラディション』(講談社/12月8日刊行予定)。
SHARE