WORDS TO WEAR

明るかった深夜——連載|鈴木涼美「今日はこの言葉を纏う」06

この世はどでかい玉ねぎだ
幾重にも建前(ウソ)が重なって丸くなっている
——『SPY×FAMILY』10巻より

TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki

何かあるとすぐ引っ越していた移動好きの私が全く同じマンションに出戻ったのは人生で一度だけで、前に住んだ四階の部屋は埋まってしまっていたから六階の同じ間取りの部屋を選んだ。建物がものすごく気に入っていたというわけではないけれど、マンションを右に出て坂を上れば六本木の駅があって霞ケ関にも新宿にも一本で出られたし、逆向きに出て墓地の脇を抜けた乃木坂駅は当時勤めていた会社の本社に行くのに便利だった。時間に余裕があれば西麻布の交差点を渡って表参道駅まで歩き、永田町にも出られる。その利便性以外に理由があるとすれば、大学院生の頃、この近くのクラブで遊んだ帰りにたまに寄った、掘っ建て小屋みたいなラーメン屋が好きだったことくらいだった。クラブにはもう長らく立ち寄ってすらいなかった。強いお酒を飲んで明け方まで騒いでいたら次の日が辛い。私はもう無尽蔵に遊べる年齢を過ぎていたし、もともと大して音楽に詳しいわけでも踊るのが好きだというわけでもないからか、どうしてあんなに夜遊びが好きだったのか思い出せなくすらなっていた。それでも会社に入ってすっかり社会人ぽくなってしまった生活の中に、かつての自分の欠片を残しておきたかったのかもしれない。

車も持っていない身分で西麻布に住んでいるというと不便そうとか高そうと言われた。でも家賃はかつて住んだ下北沢や恵比寿の駅の近くより安かったし、数軒隣に小さなスーパーがあった。どこの駅からも多少歩くその距離は、意味のあることで一日が埋め尽くされそうになる若い社会人の生活のなかの、数少ない緩みのようになって、誰かに電話して週末には忘れてしまいそうな些末な噂話なんかをするのにも、何か別のものになった人生を妄想しながら黙って歩くのにもちょうど良い長さだった。もっとずっと若い頃は露出度の高い服を着て何か特別な理由を持って歩いた六本木通りを、仕事帰りの薄汚い安いスーツで生活のために歩いていると、退屈で惨めな気分にもなったし、かつての特別を普通の日常にしていく快感もあった。クラブ帰りにはあんなに魅力的だったラーメン屋も、いつでも歩いていける距離に住んでみると意外と足が遠のき、結局年に数回しか寄らなかった。

クラブ遊びをして、アイスクリーム屋やラーメン屋、あとはせいぜいチェーンのファストフードやドンキホーテに寄って明け方帰っていた頃には、都会的で眩い場所に思えたところも、住んでみると意外と綻びが目につく。大通りから一本入ると酔った学生がうずくまっていることもあったし、マンション住民の知り合いの嫌がらせなのか、汚物がばらまかれる事件もあった。

日付が変わる前に仕事が終わるときはなるべく地下鉄を使ったが、春でも夏でも少しでも陽の光が残っている時間に帰れたことはない。ただ、繁華街からすぐの比較的大きなマンションに住んでいた私に、夜が暗いという感覚はあまりなかった。会社の中は二十四時間灯りが点いていたし、駅の中も道路も明るい。少なくとも、鎌倉の実家の周りのような、車のライトがなくては何も見えない暗さとは無縁だった。

住んでいる間に一度だけ、ちょうどバレンタインデーに大雪が降った年があった。なんで日付まで覚えているかというと、本社を同じタイミングで出た先輩が、雪の中キャバクラ嬢の営業電話を受けて、六本木方面に出陣すると言ってきたからだ。私たちは千代田線で一緒に乃木坂まで出て、私は青山墓地の方の、先輩は乃木神社方面の出口をそれぞれ目指した。一人になって階段を上り、墓地のすぐわきの道に出たときに、あまりの明るさに私は一瞬自分が死んだんじゃないかと思うくらい目を疑った。街灯が雪に反射して、ほとんど周囲は昼間のように明るく、道路が白いというだけで、こんなに世界がはっきり見えるのを私はそれまで知らなかった。思えば大抵六本木駅から霞ケ関の記者クラブに出社して、帰りは本社から乃木坂駅に戻ってくる日が続いて、私は墓地や公園の中は、真っ黒で何も見えない状態しかほとんど知らなかったのだった。昼間によく見ると大してきれいではない路地は雪が覆ってしまって、実物よりずっと綺麗に見える。私は雪を剥がしたその下に、誰かが捨てたごみや吸い殻があるのを知っている。でも雪がなければ、夜の暗闇の深さを改めて知ることはなかった。一番見えている、と思っている状態が、一番見えているとは限らない。なんとなくそんなことを思った。同じ街の中で、地上で働いて暮らしている人がいることなんて意識すらしなかった十代の頃も、地下のクラブで苛立ちを持て余した若者のことを忘れている二十代のその時も、私にはきっと何かは見えていて、何かは見えていなかった。先輩は次の日、キャバ嬢にもらったチョコレート・クッキーをくれた。

人気漫画『SPY×FAMILY』の主人公ロイド・フォージャーが、戦争の前線にいた若い頃を回想する場面で、スパイのスカウトに来た男が口にする台詞は、情報が錯綜し、真実なんてどこにあるのかわからない世界を玉ねぎに喩える。戦況や作戦を何も知らず、友人たちの死を見過ごしたことを後から知って「無知とはなんて無力でなんて悪」と打ちひしがれていたフォージャーはその後、情報を武器とするスパイの道を選ぶ。私は今はもちろん、西麻布に住んで新聞社に籍を置いていた頃だって、機密情報なんて何も知らないけど、世界の見え方が薄皮一枚でくるくると変わることだけは忘れたくないし、できれば幾重にもかさなった玉ねぎの、綺麗に見える断面も傷だらけの外表も両方見てみたいと今も思う。

 

profile

鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。5年半勤務した日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に小説『浮き身』(新潮社)。