what is interview?

インタビューって、何だろう?:ナラティヴ・アプローチの研究者、野口裕二に訊く——連載|編集できない世界をめぐる対話 ⑤

インタビューという行為も、それに基づくテキストも、現代社会においては読み切れないほど生産され、溢れ返っている。当インタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」もまた、そのひとつだ。しかし、数限りなく繰り返され、異様なほど日常的な営みになっているものだからこそ、ふと思いは巡る。インタビューとは一体、何なのだろう。わたしたちはここで何をおこなっているのだろう、そして何を読んでいるのだろう、と。

連載第5回のゲストは、日本におけるナラティヴ・アプローチ研究の第一人者である、社会学者・野口裕二である。臨床や医療の現場において人が語る・聞くという試みに、「ナラティヴ(語り、物語)」という概念をもとに迫っていったその思考の軌跡は、「研究者としては引退している」と話す野口の言葉を踏まえてなお、まばゆい光を放っている。SNS空間などにおける「ナラティヴ」もまた存在感を増すいまだからこそ、野口へのインタビューは、再考と実践のサイクルへとわたしたちを誘う。

TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Kaori Nishida

——わたしたちの生きる現実やそこで起きる現象に対して「ナラティヴ」という観点から接近する、そんな「ナラティヴ・アプローチ」を研究されてきたお立場から、インタビューや編集という営みについてうかがいたく、お声がけした次第です。

野口 はじめまして。このインタビューの趣旨自体はおおよそわかったのですが、いったいどうして、私のことを思い出してくださったのでしょうか。研究者としては第一線からは既に退いている身なので、何よりそこが気になりながら、この場にやってきました。

——私事ながら聞き手はかつて、2007年に野口さんが登壇された「構築主義批判・以後」というシンポジウムを客席で拝聴していた学生でした。その後に編集者となって早15年近く。インタビューや、その後の文章への再構成を繰り返すなか、自分たちが本当は何をしているだろうと常々不思議に思い、野口さんの研究のことが気になっておりました。

野口 なるほど。そうでしたか。あのときの雰囲気、懐かしいですね。私自身は「編集」にかんしては素人ですが、しかし自分が論文を書いたり本を書いたりするなかで、要するにこれは「編集」をしているのだな、と思うことは度々ありました。さまざまな情報を自分なりに取捨選択して、ひとつの文脈に並べていくという作業が「編集」と呼べるとすれば、私がやってきたことの半分くらいは「編集」だったといえるかもしれません。論文においては素材を選ぶだけでなく、それをどんな背景のもとに並べるかで面白さがまったく変わってきます。選んだ素材がよくても配置される文脈がよくなければ、いわば図と地のコントラストが出てこないために、読んでいて引き込まれるものになりません。

——議論をハードに突き詰める論文においても、読者を引き込むような工夫をされている、と。

野口 何かしら「なるほどね」といってもらえるような、そんな文脈設定がとても重要だと思っています。読者にとっての当たり前のことがどの地平にあって、当たり前ではないことがどの辺りにあるのかがわかっていないと、論文は書けません。当たり前/当たり前でない、その間のちょっとのズレが面白いわけで、逆にあまり大幅にズレたらわけがわからなくなってしまう。これは自然科学の論文でも同様だと思います。いまの科学の世界でわかっている常識というものがあり、そこをほんのすこしだけ超えるものを付け加えるからこそ論文になるわけです。

——そのわずかな差異を際立たせる文脈設定、ということですね。

野口 ただ文章や書籍によっては、一口に読者といってもいろんな人がいるわけですから、読者がもつ常識にも相当の幅があるわけです。どのあたりにその常識を想定するのか考えることも、ひとつの編集作業なのでしょう。このインタビューも同様ですね。

野口裕二|Yuji Noguchi 東京学芸大学名誉教授。1955年、千葉県生まれ。専門は臨床社会学、医療社会学。北海道大学文学部卒業、同大学院博士課程単位取得退学。著書に『アルコホリズムの社会学 アディクションと近代』『物語としてのケア ナラティヴ・アプローチの世界へ』『ナラティヴの臨床社会学』『ナラティヴと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』などがある。

——では改めて、「ナラティヴ・アプローチ」という方法についてうかがえますか。

野口 まず「ナラティヴ」というのは、「物語」あるいは「語り」を意味する言葉です。であれば「物語」「語り」といえばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、なぜ「ナラティヴ」という言葉をわざわざ用いるかといえば、「物語」「語り」の両方の意味をこめて、膨らみをもたせたいからなんですね。そのうえで「ナラティヴ・アプローチ」とは、「物語」あるいは「語り」という形式を重要な手がかりとして、何らかの現象に迫っていく方法のことです。物語や語りに着目しつつ何かを分析したり論じたりするならば、学問分野は問いません。

——分析する分野は問わないということですが、とはいえナラティヴ・アプローチが発展してきた具体的な文脈はあるわけですよね。

野口 すこしだけ、専門的な話に踏み入りますね。1990年代以降、家族療法という心理療法の領域で、ナラティヴ・セラピーという手法が注目されていったのがひとつの端緒です。それぞれオーストラリアとニュージーランドの臨床家であるホワイトとエプストンのような、「ナラティヴ」をキーワードに新たな実践に取り組む人たちが現れ、注目を集めました。重要な議論はさまざまにあるのですが、その特徴のひとつを示すとすれば、ある状況を支配している物語=「ドミナント・ストーリー」から脱出して新しい「オルタナティブ・ストーリー」をセラピストとクライエントが共同で作っていく実践として注目されました。

——「ドミナント・ストーリー」と「オルタナティブ・ストーリー」は、ナラティヴ・アプローチにおける重要な知見のひとつですね。

野口 われわれが長年信じていて、ほとんど誰も疑いを持っていない常識というものが、まさにドミナント・ストーリーとしてわれわれを支配しています。たとえば、フェミニズムが揺さぶりをかけてきたのは、そうしたドミナント・ストーリーです。男性上位社会や家父長制といった、かつては当たり前で疑う余地のなかったものに対し、「それはおかしいよね」と指摘する。すると、かつては「そういうものだ」とみんなが思っていた常識がすこしずつ揺らぎ始める。家族療法においても同様のアプローチがとられ、患者を支配しているドミナント・ストーリーには、医者やセラピストなどの専門家が加担している場合もあり、それを乗り越えるためのさまざまな方法が考案され実践されてきました。

——他にもナラティヴ・アプローチへと連なる潮流がありますね。

野口 たとえばもうひとつの流れとして、アメリカのクラインマンという精神科医・医療人類学者が1988年の著作において、病の意味をめぐるナラティヴに着目したことが挙げられます。治療者の客観的な診断があまりにも優先されすぎていて、患者による主観的な病の物語というのが軽視されてきた、というのがクラインマンの議論です。しかし本当に患者を支援していくならば、治療者が患者の主観的な物語を理解することからしか、はじまらないのではないかと。クラインマンは、患者・治療者・家族が病の原因や経過などにかんして抱く考えを「説明モデル」と呼びますが、それぞれが説明モデルをもっているためにしばしば食い違うわけで、それらにどう折り合いをつけていくかが大事です。このとき、治療者の説明モデルのほうが重要であるという常識を、クラインマンは「ナラティヴ」の観点のもとにひっくり返したわけですね。

——こうしたいくつかの流れを総じて野口さんは「ナラティヴ・アプローチ」としてまとめ、社会学者の目で論じてこられたのですね。

野口 とはいえ、1990年代の日本において「ナラティヴ」という観点は、ほとんど意識されていなかったと思います。先述したホワイトとエプストンたちでさえ、当時はまだ自分たちの試みを「ナラティヴ・セラピー」と称していなかった。こうした実践の領域においてナラティヴという言葉がぽつぽつと目立ってくるようになったのは、90年代も後半になってからでしょうか。加えて現在に至るまで、社会学者でこのあたりに注目した人の数は、実はそんなに多くありません。私自身は医療社会学を学んでいて、治療者・患者関係における権力性は重要なテーマのひとつでしたから、そこで新しいことが起きていると思い、惹かれていったんですね。

——野口さんにとっても、ひとつの出会いだったのですね。

野口 ホワイトたちのナラティヴ・セラピーに出会ったときにビックリしたのは、彼らが哲学者フーコーの理論を引用し、紹介しながら、それを実践に落とし込んでいるところでした。私としてはそれまで、フーコーは立派なことをいっていて、社会を理解する上でとても参考になるというか、導きの糸になる素晴らしい議論だとは思っていましたが、現実的に何かに使えるという感覚はもっていませんでした。それが家族療法という実践のレベルで応用できることを示した議論に出くわして目から鱗が落ちたのです。

——時が経ち『ナラティヴと共同性』に書かれた、2010年頃のある実践が興味深いです。勤めていらした大学で小中高校や特別支援学校など現役教員向けの教員免許状更新講習がおこなわれ、そこでナラティヴ・アプローチの観点をもとにグループ・ディスカッションをしたら、教育現場をめぐるドミナント・ストーリー/オルタナティブ・ストーリーの発見につながった、と。

野口 講習や研修といった場にナラティヴ・アプローチを応用することは、だいぶ前からおこなってきました。ナラティヴ・アプローチは家族療法という領域で発展してきたわけですが、家族だけでなくさまざまなレベルの集団に応用可能です。たとえば、私が注目してきたアルコホリズムにおけるAA(Alcoholics Anonymous)や断酒会といった自助グループは、数名から数十名といった規模のグループであり、ミーティングを通じてナラティヴを大切にすることで効果をあげてきました。いずれにせよ、グループとナラティヴは相性がいいのだと思います。

——複数人においてナラティヴを見つめることに、何か現実を揺るがせる力があるのかもしれません。

野口 そもそも、われわれ自身、自分の思いを語る機会や相手の思いを聞く機会は意外に少ないですよね。たとえば会社員であれば、飲み屋で膝を突き合わせることで初めて「実はね……」と思いを語ることはあるでしょうが、普段はなかなか語ることも聞いてもらうこともできません。教員以外にも専門職の研修はいろいろあるのですが、そこでもナラティヴへの着目は有効だと思います。日常であればよほど気心の知れた人にしか話せないことを、一定のルールのもとで、今日初めて会った、しかももう二度と合わないかもしれない人の前で話してみる。すると意外にも、同じ仕事をしていればこそ通じ合うことがあり、そこで自分たちを支配しているドミナント・ストーリーに気づくことがある。それはとても面白いし、意義のあることではないでしょうか。

——その意味では、今まさにおこなっているようなインタビューは、改めて不思議な行為だと感じます。初対面の人間同士が聞き手/語り手となり、しかも実は1対1ではなく、この対話が再構成されたうえで見知らぬ読者たちへと届くことを想定しながら話し合っています。匿名の複数性と常に隣り合っているといいますか。

野口 とても興味深い、そして大事なテーマだと思います。見知らぬ読者だけでなく、実はこの場にはもうおひとり、フォトグラファーの方がいらっしゃいますが、この方がいるといないでは、私たちふたりの話し方がまったく変わってくると思います。私は今やはり、会話に参加していないフォトグラファーの方にも話が伝わるように語っている。他方でインタビュアーさんのお仕事からすれば、文章にして読者に伝えるためにインタビューしているわけですから、読者への意識抜きには成り立たない行為ですよね。実は臨床の世界では、こうした第三者との関係ということは、ほとんどの場合想定されていないのです。治療者と患者の関係だけであり、それを誰かに伝えるということは意識されていない。だからこそ、ナラティヴ・アプローチにおける方法のひとつ、アンデルセンによる「リフレクティング・チーム」は面白いんです。

——通常は観察室にいるセラピストたちが面接室にいる患者家族を観察するけれども、「リフレクティング・チーム」においては関係が反転していきます。面接室の家族を見た上で話し合う観察室のセラピストたちを、面接室の家族たちが観察する。そしてその様子を踏まえて、次は家族たちが話し合いを始める。これが繰り返されていく、と。

野口 人に見られている状況のなかで語る、そして見ている人たちの感想が聞くことができる。そうしたリフレクションが繰り返されていく。その関係性のなかで、おのずとそれぞれの語り方は大きく変わっていくわけです。何か問題が膠着してしまうときというのは、ナラティヴのパターンが固定化してしまっているときが多いのですが、このように従来とは異なる人たちが聞いている状況をつくることで問題がほぐれていくといいますか、固着しなくなるということはあるでしょう。そうそう、対談にさらにもうひとり足して鼎談にすると、さらにナラティヴはまったく違ってくるでしょうね。鼎談のいいところは、ふたりが喋っているときに、もうひとりは完全に聞く側にまわることができる、ということです。ふたりが勝手に喋っているのを──もちろんもうひとりの私のことは意識しているわけですが──横から聞いていて後から茶々を入れる、それはすごく楽しいものですよ(笑)。仮に同じテーマであっても、1対1で話しているのとはまったく異なる角度や視点が見えてくることがありますよね。

——ナラティヴ・アプローチの方法には他にも、グーリシャンらが提唱した「無知の姿勢」もありますよね。高度の専門性をもつ治療者が「無知の姿勢」を貫き、「もっと知りたい」と質問を重ねていく。一方で私のようなインタビュアーは、下調べしてはいるが専門家ではない中途半端な素人であり、この微妙な立ち位置は何だろうとも感じます。

野口 アンビバレントといいますか、「無知の姿勢」でインタビューしている気もするし、しかし「無知の姿勢」になり切れていない気もする、と。いや、でも考えてみてください。たとえば今日、私にインタビューしようと思ったのは、本当に純粋な好奇心で知りたいことがあったからですよね? であれば、「わからないから教えてもらう」という「無知の姿勢」になっているのではないでしょうか。仮に用意してきた質問があるとしても、それもわからないから聞きたいわけですし、そもそも事前の準備のなかでわからないことがいろいろあるから聞きたいことが見えてくるわけです。下準備をしたからといって「無知の姿勢」ではない、ということにはならないと思います。もう答えが見えているのに聞いているのでしたら「無知の姿勢」ではないですが、わからなさから出発してもっと知りたいと思っている限りは「無知の姿勢」を保持できている。逆に「無知の姿勢」でなければ、このような対話は続かないわけです。わからないから、なかなか終わることができない(笑)

——なるほど。他のジレンマとしては、野口さんが著作内でその「衝撃」を語っていらした、近年隆盛の「オープンダイアローグ」に対しても感じます。その特徴のひとつは、複数人による「開かれた」対話をとにかく続けることです。魅力を感じながらも、「開かれ」よりは追及的・検証的な質問を集中して重ね、後に再構成していく私たちのインタビューではなかなか難しいと思いますし、話者のナラティヴの収奪になっていないか不安も覚えます。

野口 しかし、再構成をするのは編集者として当然の仕事ですよね? それは読者によりわかりやすく伝えるためである。そもそも相手のナラティヴを再構成してはいけないという決まりはなくて、それを誰かに伝えようと思ったら再構成していいのです。繰り返すように、臨床の場合は治療者とクライエントの間での共有に留まることがほとんどであるわけですが、しかしその場合も患者さんによりわかりやすくするようなナラティヴの再構成が起こる余地はありますし、そもそも相手のナラティヴを聞いて自分の感想を述べる時点で、相手に何かしらの影響を及ぼしてしまう。さらには今日のこのインタビューのような場合は、第三者に伝えるべく私の語りを再構成することに、私自身が同意したうえでここに来ているわけです。同意しているのですから、何の問題もないですし、収奪でもないでしょう。もちろん、再構成した結果はチェックしますし、「私はこんなことは言っていない」「言っていたことにしたくない」ということは修正しますが(笑)

——そのコンセンサスをきちんと保持していくことが重要なのかもしれませんね。最後に、ナラティヴ・アプローチが、SNS空間を含めてある意味ではナラティヴの時代ともいえる現代社会の諸問題に何か手がかりを与えてくれそうな点があるか、うかがえますか。インタビューをする身としては、あちこちでおこなわれる取材で析出された複数の「語りえぬもの」が、まるでクラウドのように時代の隠れた精神を体現することを願うところもあります。

野口 ナラティヴのもつ「威力」というものが、よりわかりやすく伝わるようになってきた時代であるという気がします。ナラティヴ・アプローチは、ミクロな臨床領域から出発しましたが、マクロな社会領域にも適用できることに気づきはじめたということです。たとえば、#MeToo運動のようにSNSにおけるミクロなナラティヴが大きなうねりとなってマクロなナラティヴを形成して社会を動かすということが起こりうる。実は先日、ナラティヴのこうした側面に注目する毎日新聞編集委員の大治朋子さんから取材を受けて、現代社会におけるナラティヴの特徴や役割についてお話ししました。そこで、本日のテーマであるインタビューについても聞かれて、「隠された真実」を探る「本質主義」的なインタビューと、行き先がどこにたどり着くのかもわからない対話のなかで、ともに何かをつくっていき、思わぬものに出会うような「構成主義」的なインタビューがあるという話をしました。これらの話が大治さんの新刊『人を動かすナラティブ』に掲載されていますので参照していただければと思います。ところで、先ほど「語りえぬもの」とおっしゃいましたが、私はその表現をあまり使わないようにしているんですよ。

——「語りえぬもの」を、別の表現で語るのですか。

野口 「語りえぬもの」と決めつけてしまっては、それ以上何もいえなくなってしまう。そうではなくて、「いまだうまく語られていないもの」と表現したいと思います。それは、いつかはうまく語ることができるかもしれない。そうした言葉を探していく試みのひとつが、たとえば近年注目されている「当事者研究」です。もちろん、本当に未来永劫「語りえぬもの」はあるはずですが、そのレベルは私たちの手には負えません(笑)。今はまだうまく語れず、いい言葉が見つかっていないが、いつかはきちんと語ることができるかもしれないものがあるならば言葉を探していこう、というのがナラティヴ・アプローチの「姿勢」なのです。「姿勢」だと申し上げているのは、これも同様にナラティヴ・アプローチから学んだことなのですが、技法ではないんですよ。もちろん技法やノウハウで対処できるものは対処すればよいので、一概に否定するわけではありません。しかし既存の技法では太刀打ちできない、「いまだうまく語られていないもの」に突き当たる瞬間がある。そのとき私たちにできるのは、何とか言葉を探そうとする「姿勢」をとり続けることではないかと思うのです。

 

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宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。