what is editing?

造形としての編集は可能か:大山エンリコイサムに訊く——連載|編集できない世界をめぐる対話 ③

慣れきってしまった世界のテクスチャーを、別の手触りへと再構成していくのは、「編集」という営みがなしうることのひとつ。そのとき「意味」にとらわれがちなのが、「編集」の性(さが)だ。伝達可能な情報であろうとすればするほど、束の間すくいとることができていた未知の感触は、指の隙間からこぼれ落ちていってしまう。その隘路を、どう抜け出すことができるだろうか。 「編集」という営みを広義において捉え直す、インタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」第3回。難題を共に考えてくれたのは、美術家の大山エンリコイサムだ。ストリートアートの一領域であるエアロゾル・ライティングを再解釈したモティーフ「クイックターン・ストラクチャー(QTS)」を広く展開し、注目を集めるアーティストである。そして4冊の単著を通じて、ソリッドな理論派にしてオープンな文体をもつ、新世代の著者としても知られている。「編集」の世界を理解する大山が、しかしその精神を「造形」という立場から相対化する、そんなインタビューとなった。

TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Kaori Nishida

——さまざまなニュアンスを含み持つ「編集」は、大山さんの目から、どのように見えているのでしょうか。

大山 「編集」を相対化することから始めたいと思います。現代社会において創造的な行為を考えるとき、「編集」という概念や営みがかなり支配的なものとしてある、個人的にそう感じているんです。他方で私は、「編集」とは対照的な「造形」の概念や、それに即した表現に取り組んでいるというアイデンティティがあります。「編集」/「造形」という対比は今回お話しするにあたり、仮の枠組みとして有効になりそうです。

——「編集」と「造形」ですか。

大山 音楽でたとえれば、若者が飛ばして聴くことがSNS上で話題になった「ギターソロ」は、私にとって「造形」的なんです。空間のなかに線を引くように、ギターの鋭利な音が伸びていく。それに対して、さまざまな音源をつぎはぎするDJは「編集」的です。情報の流れがこれまでになく速く、断片的かつ複雑になった現代において、その激流に瞬間的に同期しながら発信できる意味で、「編集」的なスタンスのほうが時代のシステムに適合していると思います。

——ある意味では「編集」の時代だ、と。

大山 アートの視覚表現においても、物理的な素材とゼロから格闘するより、既製品を組み合わせる制作手法のほうが、短い時間で量を作れるという面があります。だからこそ自分は、こうした「編集」的と思われているアプローチを、むしろ「造形」的なアプローチに置き換えられないかということも考えています。

——「造形」を重視する大山さんは、ストリートアートのひとつであるエアロゾル・ライティングを踏まえつつ、「クイックターン・ストラクチャー(QTS)」というモティーフを手がけています。

大山 エアロゾル・ライティングは、1970年代から80年代にかけてニューヨークで発展しました。その視覚言語を抽象化しつつ展開しているのがQTSです。当時のエアロゾル・ライティングは、地下鉄を中心として、公共空間に名前をかいて自己表現することから始まりました。

——エアロゾル塗料、つまりスプレー塗料を用いたライティング行為ですね。大山さんは、「塗料を吹く」行為を強調するスプレーという言葉より、「物質の状態」にフォーカスしたエアロゾルという言葉を意識的に選択されています。

大山エンリコイサム|Enrico Isamu Oyama 美術家。ストリートアートのひとつであるエアロゾル・ライティングのヴィジュアルを再解釈したモティーフ「クイックターン・ストラクチャー」を起点にメディアを横断する表現を展開。イタリア人の父と日本人の母のもと、1983年に東京で生まれ、同地に育つ。2007年に慶應義塾大学卒業、2009年に東京藝術大学大学院修了。2011−12年にアジアン・カルチュラル・カウンシルの招聘でニューヨークに滞在以降、ブルックリンにスタジオを構えて制作。2020年には東京にもスタジオを開設し、現在は二都市で制作を行なう。

大山 私がエアロゾル・ライティングという言い方をするのは、グラフィティ(落書き)と呼ばれるときはヴァンダリズム(破壊主義)や反社会性という側面がとくに前景化して、本当はそこにある他の要素が見えづらくなるからなんです。私自身この文化に影響を受けつつ、しかし異なる時代や社会背景から生まれたものを無批判に受容し、再生産するだけで本当によいのかと模索するなか、やがて生み出されたのがQTSでした。かつてのエアロゾル・ライティングにおいて重要であった、公共空間にかくこと、名前をかくことというふたつの要素を解体しながら、線の動きに還元した視覚表現として抽象化し、そのことによってメディアを横断して展開するようにしたんです。QTSが既存の領域の内部に回収されないように運動を続けて、それ独自の圏域を形成していくイメージです。

——造形的な運動によって、これまでにない横断的な圏域を形成したい、と。

大山 その横断性のひとつのモデルが、先ほど触れたニューヨークの地下鉄です。ニューヨークは移民の街で、エリアやブロックごとに違う言語を話し、異なる生活習慣をもつ人たちが住んでいます。そのあいだを物理的に横断するだけではなく、文脈として抽象的に横断していくイメージが、エアロゾル・ライティングのかかれたニューヨークの地下鉄にはありました。そこから派生したQTSもまた、壁やキャンバスといった物理的な素材だけでなく、その先にある文脈や観客、コミュニティも横断していくんです。たとえば布という物理的な素材ひとつとっても、キャンバスとして捉えれば絵画の領域、生地として捉えればファッションの領域になりえる。素材の横断とずれ重なるようにして、文脈の横断についても、いつも考えています。

Enrico Isamu Oyama, FFIGURATI #428, 2022, Installation view from solo exhibition “Altered Dimension” at Keio Museum Commons, Tokyo, Artwork ©︎Enrico Isamu Oyama, Photo ©︎Shu Nakagawa

——QTSの横断のイメージ自体が、複層的なのですね。

大山 ただ、もともとエアロゾル・ライティングにおいては、横断する対象のコンディションを無視して強引に、ときには暴力的に上書きする性質があります。すでにエアロゾル・ライティングがかかれた壁があるとして、そこに上書きするのみならず、削ったり、薬品で溶かしたりというケースさえある。私はQTSが横断するそれぞれの領域や、そこにあるコンディションとなるべく対話をしていくことが大切だと考えています。その対話によってQTS自体も変容する可能性があり、そうしてヴァリエーションが増えていくことを好機と捉えているんです。

——2023年4月から5月にかけて、六本木のPOST-FAKE projectsで開催されていた「Map Drawings」展は、象徴的かもしれません。匿名の図像にQTSをかき加える「ファウンド・オブジェクト」シリーズの最新作です。英国の古道具屋で見つけられた12枚の古地図、その区域の外形を縫い合わせるように、あいだをQTSの線が走っています。

Enrico Isamu Oyama, FFIGURATI #457, 2023, Artwork ©︎Enrico Isamu Oyama, Photo ©︎Shu Nakagawa

大山 「Map Drawings」の作品は、技法としてはエアロゾル塗料ではなく、シャープペンシルの下書きから始めて最後はアクリル絵の具で仕上げていますが、すでにあるコンディション、この場合は地図の視覚的なレイアウトに反応し、対話しながらQTSのかたちができていく点は同様です。レイアウトがすべてを規定するのではなく、QTSの自己生成的な動きもあり、そうした双方向的な力学のなかで両者が変容していく——QTSはもちろん、地図のレイアウトにもそれまでと異なるリズム感が引き出されるような、形体のせめぎ合いが発生すればと考えています。

——そのうえで、「編集」より「造形」に重きを置いている、ということですか?

大山 今回は複数の地図が組み合わされていますが、それぞれの地図の固有名性や街区同士の関連性といったような「意味」は、むしろ漂白されているところがあります。過去にもたとえば「Sculptured Portraits」という、印刷された彫像のイメージのうえにQTSを展開した作品がありましたが、個々の人物のペルソナや表情はむしろ剥ぎ取り、鼻や頬骨といった頭部の骨格、つまり物理的な形状に反応するようにQTSを配置しました。情報が漂白され、構造に還元される点で、「造形」的なアプローチに重きを置いているのです。

Enrico Isamu Oyama, Sculptured Portraits Series / FFIGURATI #63 – #86, 2013-14, Artwork ©Enrico Isamu Oyama, Photo on pages ©Atelier Mole

——なるほど。だからこそ気になるのは、大山さんがキャリアの初期から、批評的なテキストの執筆を旺盛に行ってきている点です。そもそも、なぜこんなに文章を書かれているのでしょうか。

大山 70年代以降、すこしずつストリートアートという領域が広まっていくなか、しかし私が東京藝大に入学した2000年代後半には、それは日本の美術の世界ではまったく重要視されていなかったんです。バスキアやキース・ヘリング、近年ではバンクシーは知られていますが、ストリートアート全体はどうしてもファッションやトレンドの範疇であり、アカデミックな美術史や美術批評の対象にはならないという雰囲気がありました。しかし私はなかば直感的に、ストリートアート、とくにエアロゾル・ライティングは高度な表現文化であり、批評や分析に値する深みをもっていると考えていました。もとから読書が好きだったこともありますが、なにより日本の美術の世界にストリートアートの文脈を伝えていかないと自分の表現や活動が理解されないという必要性があった。つまりテキストの執筆は、非常に自覚的かつ実践的な取り組みだったんです。

——執筆するにあたって、このインタビューで話してきたテーマは、どのように関連するのでしょうか。

大山 最初の単著である『アゲインスト・リテラシー―グラフィティ文化論』(LIXIL出版、2015年)や、続く『ストリートアートの素顔―ニューヨーク・ライティング文化』(青土社、2020年)に関しては、先ほど話したような明確な目的のもとにかきましたから、かなりストレートに意味や歴史が伝わるようなテキストになっています。一方で、3冊目の『ストリートの美術―トゥオンブリからバンクシーまで』(講談社選書メチエ、2020年)は、各媒体に寄稿してきた、もともとは相互に無関係なテキストを集めています。定まった目的があるというより、都度のテーマに応答しながら、言葉のリズムを弾ませて文章をひたすら走らせていったような感じがあります。メディア批評家・ラジオアーティストの粉川哲夫さんとの往復書簡『エアロゾルの意味論 ポストパンデミックの思想と芸術 粉川哲夫との対話』(青土社、2020年)は、さらに「造形」的な運動に寄っていると思います。目的化された意味論的・文脈的な文章と、無目的に紡がれる造形的・運動的な文章―私が執筆をするときは、こうしたふたつの様態がたえず濃淡のグラデーションを伴って共存している感覚があります。

——インタビュアーは以前に大山さんから、テープ起こしへのご関心についてすこしうかがったことがあります。テープ起こしもまた、いまおっしゃったような「濃淡」が関係しているトピックなのかもしれません。

大山 学生のときに運営を手伝っていたシンポジウムなどで、講演やディスカッションの文字起こしをした経験が大きいですね。テープ起こし—実際は、テープではなく音声データの起こしですが—は、自分で考えて文章をかく作業ではないですよね。耳から入力される音声情報を、指でタイプして活字に置き換えていく。自分で考えない機械的な作業なので、タイピングの運動はとめどなく流れるように続いていく。塗り絵のように、すでにあるシルエットの内側をどんどん塗り潰す感覚に似ているかもしれません。ただ、実際はもうすこし複雑です。まるで動画の視聴中にダウンロードが追いつかず途中で止まってしまうように、耳に入力される音声より先に手は動かせないから止まってしまったり、あるいは運動の処理が追いつかずにすこし戻ったりというぎこちなさもある。塗り絵でいえば、イラストのアウトラインが現在形で伸びていく先端を追いかけながら、同時に塗り絵を進めていく、という感覚かもしれません。他者の音声を機械的に転写するのに、しかし完全に自動でドライブする機械にはなりきれない。そのもどかしさが、テープおこしに特有の不思議な身体性だなと思います。

——自分で思考して文章をかいているときほどは意味にとらわれていないが、しかし同時に、文字化していくなかで身体的なレベルで意味とも付き合っていく面がありますよね。

大山 「アメ」と聞こえたときに、「雨」か「飴」かというのを即座に判断して起こしていくわけですよね。基本的には文脈で察知しますが、たとえば人の名前は簡単に判断できない。動いていた手がふと止まる。普通の執筆に比べるとマシンのように指先でタイピングする運動がひたすら走る感覚がありつつ、つまずくような意味論的な切断もランダムに生じてくる。

——テープ起こしのお話は、「造形」と「編集」のあいだを考えるうえで非常に興味深いです。近年、たとえば哲学の世界ではモノをどう扱うのか改めて議論されているようですが、「編集」においてモノはどう扱えるのでしょうか。

大山 直接のお答えになるかはわかりませんが、最終的には感性の問題だと思います。たとえばキュレーターの職能が素晴らしいのは、意味、オブジェクト、編集、造形といったことを総合していくからですね。仮に5人の美術作家の展示をキュレーションするとき、作家や作品の関係性を言語で説明できるだけでは成立しません。ギャラリーなり美術館の一室なり、空間に対する端正さといいますか、インスタレーションの感性がキュレーターのなかで働いていないと、それを見る人は、解説は理解できても身体が反応しない。もしくは豊かな食の経験というのは、いかに栄養バランスが優れているかという科学的事実と、舌で味覚を味わうという身体的な悦びの両面がありますよね。ウェブサイトの記事でも、優れたものには意味論的な整合性のみならず、ある種の美学がきちんとあります。今日の議論を踏まえれば、「編集」が「造形」的にも成功している、あるいはふたつの対比それ自体がより高次の位相で解消されている状態ということかもしれません。

——自戒をこめつつ思い出されるのは、コロナ禍でのインタビュー記事において、オンライン会議サービスの画面をキャプチャした顔写真が氾濫したことです。時代的なリアリティはありましたし、語り手の顔という意味合いは説明されていましたが、「造形」的な問いは後退していた気がします。モノとしての世界が前景化したコロナ禍の世界で、「編集」という営みが問われた場面だったのかもしれません。

大山 先ほどの発言にもうすこし言葉を重ねれば、さまざまな「意味」もオブジェクトとして造形的に扱えると思うんです。私は漢字・ひらがな・カタカナの配分をはじめとする文字のレイアウトにも配慮してテキストをかくのですが、言語にも物質性はありますよね。意味的な連環と、物理的な連環が、立体的かつ錯綜的に重なっている状態。意味もオブジェクトであり、感性の対象だといってよい気がします。

——情報の濁流のなか、そうした観点で「編集」という営みを続けられるのか。とても大きな宿題だと感じます。

大山 「非造形的な編集」は、まさに濁流なのかもしれません。必要な要素をきちんと吟味して選択し、レイアウトしなければ、それは「造形」的とは言えない。にもかかわらず昨今は、本来「編集」が成り立つはずの意味の次元が、誤字脱字などで疎かにされているケースもあり、悩ましい面があるとも思います。

——「造形」を考える手前でつまづいているケースも散見されるわけですよね。耳が痛いお話です……。ともあれ、このインタビューを通じて、普段意識が行き届かない領域が広がっていることを実感しました。

大山 冒頭から述べてきた「編集」と「造形」、あるいは「意味」と「オブジェクト」という二分法それ自体が、消失しているような状態がよいですよね。意味のレイヤーと物体のレイヤーをいったん分けて、ふたたび統合するような話をしてきましたが、それが有機的に生じていくような状態が理想なのかもしれません。

 

展示予定
 
個展「Notes Rings Spirals」
会場 アニエスベー ギャラリー ブティック
会期 6月17日(土)〜7月23日(日)※無休
 
Ginza Curator’s Room #004
「反復の圏域 – Repetitive Sphere -」

会場 思文閣 銀座
会期 6月24日(土)〜7月8日(土)※日曜休廊
 
東京現代
会場 横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)ブース=H19
会期 7月7日(金)〜7月9日(日)

 

profile

宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。