既に世界にひしめいている、人々の創造性や主体性というものに、「編集」はどのように関与できるだろうか(あるいは、しないほうがいいのだろうか)。それは、狭義の「編集」に限定せず、広く「編集」を再考しようとするこのインタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」において、重要なテーマのひとつである。今回インタビューするのは、社会学者である牧野智和だ。研究してきたのは、自己啓発、建築・公共空間、ファシリテーション──つながりがないトピックが並んでいるように見えるが、これらは創造性や主体性といった現代社会をめぐる問いに貫かれており、実はひそかに「編集」という営みにも関係している。静かに雨の降る大学のキャンパスで、ゆっくりと言葉を交わした。
TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Shigeta Kobayashi
——取材をご承諾いただいたメールに、「期せずして、編集ということがらを複数回扱ってきたことに気づかされました」とありました。
牧野 博士論文をもとにした最初の単著である『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』(勁草書房、2012年)では、自己啓発メディアの分析をするなかで、ピエール・ブルデューがいうところの「文化媒介者」としての編集者という存在にすこしだけ触れました。この時点での私の見立てはあまり入り込んだものではなく、編集者は世の中で流通している考え方やメンタリティといったものをコンテンツに反映させている、くらいのものでした。
博論で考えきれなかったことや、新たに分析・考察したことをその後『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳術・片づけ』(勁草書房、2015年)にまとめたのですが、そこでは実際に自己啓発書のベストセラーを生みだしている編集者の人たちにお話をうかがいました。直接聞いてみると、予想以上に、ある種の操作が入っているんだなと感じました。この本ではやはりブルデューの概念である「倫理的前衛」という言葉も用いつつ論じたのですが、要は著者の個性や権威を、企画からパッケージまで含めて際立たせ、読者を引き込んでいく、引っ張っていく(つまり前衛的)役割を彼らが果たしているなと。単なる媒介というよりは、増幅という印象でした。
——狭義の「編集」における、ひとつのあり方ですね。
牧野 その後、テーマを大きく転じて建築空間について扱った『創造性をデザインする 建築空間の社会学』(勁草書房、2022年)では、いわゆる編集者という人はほとんど出てきません。ですが、たとえば建築物のリノベーションなどを含めて、ヒトやコトの結びつき方という観点において公共空間を(再)編集する、というような語りをとりあげていて、そう考えるとそれぞれの著作で必ず何かしら編集という営みを扱っていたわけですね。狭義の編集者が登場する場合も、そうした実践を行っている人として出てきます。
この場合の「編集」というのは、バリバリのベストセラー編集者として、どんどん時代に仕掛けをうって「増殖」を狙っていくようなアッパーな感じではない気がします。かといって——これはお話をうかがった自己啓発書編集者のなかに、そういう方が一定数いたことを想定して言うのですが——企業の内部でコツコツと、時には思ったようになかなか企画が通らない会議に歯ぎしりしながら仕事をする会社員タイプでもない。ただ、私は述べてきたように編集(者)について深く考えてきたわけではないので、じゃあこういう編集感覚だねと積極的にいえるわけでもないです。そもそも私は何につけても全体像というものをつかみたがる人間なのですが、現時点でそれがかけらもつかめていないので、今自分がどこに向けて何を言っているのかもよく分かっていない(笑)。なので逆にお聞きしますが、編集業界の構図、皆さんの生息図や分布図ってどんな感じなのでしょうか。今話してきたようなことはどれくらい当たり前だったり、珍しかったりするのでしょうか?
——インタビュアーが質問されてしまいましたが……(笑)。なかなか直接的なお答えはできませんが、ベストセラーを生みだすようなタイプの方でも、あるいは「公共」にアプローチするような新世代のタイプの方でも、“既に社会のなかに遍在するものを束ねる”編集感覚にかんしては、共通理解をもっているような気はします。
牧野 なるほど。『創造性をデザインする』で扱った公共空間の「編集」ないしは「デザイン」というトピックについていえば、それは現在の建築や都市の空間の状況というものにすごくうまく嵌まっているように見えます。新たにどんどん公共的な建築物をつくるのは経済的に難しい、でも見渡してみれば都市のなかには既に多くのモノやコトのストックがある。ならばデザインや編集の再定義を伴いながら、それらの領域拡張を試みつつ都市にアプローチしていくというのは、かなり説得的な物語であるようにみえます。
一方、自己啓発書ベストセラーをめがけていくような編集(者)像では、既にあるものを生かしてリミックスするというより、もっとストレートに、みんなが欲しいものを訴えかけるというか……あまりこの言葉は好きではありませんが、ブルーオーシャンに投げ込むという感じがある気はします。とはいえ、共同研究で行っている調査の傾向を見るに、自己啓発書を読む割合は減少傾向に入りつつあるのではないかと思っています。つまり、世の中にみんなが欲しいと思っている上向きの大きなアスピレーション(願望)があって、それに向かっていけばベストセラーが生まれる、という社会ではなくなってきたということを意味しているのかな、と。これを、人々の願望のあり方が変わってきたのだと捉えると、そのときにみんなで協働して何とかやっていこう、という対案が示されて、そこに編集という営みがかかわる可能性があるのかもしれません。
——ここまでは「編集」に引きつけてお話をうかがってきましたが、改めて牧野さんご自身は、どんな思いで研究に臨んでいるのですか。
牧野 共編著である『ファシリテーションとは何か コミュニケーション幻想を超えて』(ナカニシヤ出版、2021年)という本のことからお話してみたいと思います。これは建築空間について考察した『創造性をデザインする』の内容と、実は強くリンクしています。『創造性をデザインする』の一部にも、まちづくりへの住民参加をうながすワークショップの話が出てくるんですが、その話が派生してこうなった、というような本です。とはいえ、共編者である井上義和さんのすばらしい企画力がなければ実際にかたちになることはなかったと思います。
私は日常的には大学の教員として、アクティブラーニングを取り入れようという近年の教育界の動きのなかで働いています。ごく単純にいえば、まさにワークショップやファシリテーションを大学教育の場でも求められているということです。実際に、うまく場の仕掛けをつくらないと学生は授業内での関係性をつくれなかったり、考えを深めることができなかったりするので、必要な実践だとは感じています。また、世の流れとして要求され、組織としてフォーマルに対応すべきものとして導入が促されている実践でもありますから、組織のなかで働く個人としてそこから距離をとって相対化することの難しさもある。だとしたら、自分が何に巻き込まれていて、自分がどこに向かおうとしているのかを知りたいというのが、『ファシリテーションとは何か』という本に取り組んだ根本的な動機のひとつです。
——牧野さんの日常に、実は密接に関連しているのですね。
牧野 はい。大体そんな感じで研究関心が芽生えることが多いです。自己啓発についてもほぼ同様で、私たちの世代って就職活動における自己分析といったものが確立されたというか、やらなければならないものとして直面させられるようになってきた世代だといえると思います。ただ、自分に向き合ったかどうか、やりたいことがはっきりわかっているか、そうした自己への向き合い方が正しく善いものかどうかを、大量にこなさねばならない人事の面接ルーティンのなかで判断されるなんて納得できないなと思って。まあ自分が幼かっただけなんですが、でもそんな違和感から就職活動に背を向けた私が大学院に行ったのもまた「自分がやりたいことをやりたかったから」みたいなものだったわけです。だとすれば、結局就活で求められているものと同じような「自己」への向き合い方をしてしまったんだなと後で気づきまして。じゃあ、自分がなぜそのようになってしまったのかを知りたいということで、自己啓発研究に向かっていくことになったのかなと。
——研究者としてのキャリア初期から現在まで、扱うテーマは変わりつつも、姿勢としては一貫していらっしゃるのですね。
牧野 単純な人間なので、大体同じパターンな気がします。『創造性をデザインする』も、直接的なきっかけとしては自己啓発にかんする資料を読み過ぎてもう限界になって、まったく逆のこと=モノの研究をやろうと思ったことがまずあるんですが、いくつかのビルディングタイプを調べ始めると、一様にコミュニケーションや創造性の誘発が称揚されている。で、これらもまた、そのなかで私たちがどのように日々を過ごし、どのようにして私たちができあがっているのかを考えることにつながるなと。さらに実際に研究していくと、建築をめぐってワークショップがたくさん行われていることに行き当たって、それをもう少しちゃんと見ていくと、人のやる気をどう引き出して合意を形成するかといった「主体性」をめぐる議論と実践が行われていた。それで結果として、建築のことをやっていたはずなのに、自己啓発研究のときに考えていた話に戻ってきました。
一貫して気をつけてきたのは、考えてきた対象について「これは良い/悪い」という二項対立に押し込めたり、何かを「告発」したりするのではない書き方、スタンスで向き合うことかなと思います。切り分けて「良い」側につくのは簡単で楽ですが、描いていることがらは既に私たちのなにがしかを構成しているものなので、実はそう単純化できないとも思います。ファシリテーションだって、それに誘導的な要素が伴っているといった批判はもちろんできるけれど、さっき述べたように自分自身そこから逃げることは簡単じゃないし、自分に閉じこもるのではなく社会的な関係性に向かって開いていく可能性も確かに持っていると思うので。だから、まずはそのメカニズムを理解することに重きを置きました。
——なるほど。冒頭の話に戻れば、狭義であれ広義であれ「編集」という営みは、こうした時代の変化にアジャストしながら並走している感じがします。
牧野 私は自己啓発研究のなかで女性向けライフスタイル誌『an・an』を論じたことがあるのですが、自己啓発という文脈に限らず、生き方というレベルで人の生活に編集のスキルや考え方が入り込んでくる例というのは、編集に携わる方からすると珍しいものなのでしょうか?
——ライフスタイル誌とは時代も文脈も異なりますが、日本国内の例でパッと思いつくのは、戦後まもなく1948年に創刊された雑誌『暮しの手帖』でしょうか。「暮し」に密接に関連した商品のテストを誌面でおこない、まったく忖度なく評するというのが、名物企画になりました。
牧野 ああ、いわれてみればそうですね。だとすると、人間の生というものに編集という営みが関係してくるという例は、これまでにいろいろとあったということなのでしょうね。それが現在であれば、『創造性をデザインする』でも一部とりあげたように、まちおこしやローカルデザインといった文脈で、地域の人や文化資源を掘り起こしたりつなぎあわせたりするというような、編集的な手法の応用につながっている。
——あえて突っ込んでうかがうのですが、『創造性をデザインする』のなかでは、上記したような「公共」をめぐる取り組みへの、非常にクリティカルな指摘がありますよね。楽しくアクティブ、かつ自発的に参加していくクリエイティブな「主体性」のあり方にかんして、「新自由主義的」なガバナンス(統治)がなされていると言及していらっしゃいます。
牧野 新自由主義という言葉が、多様なかたちで批判を招きこむレッテルとして機能しがちであるということも書いてはいるのですが、そうした譲歩を踏まえてなお、その言葉に典型的にあてはまる側面があることは看過できないように思いました。公共空間における人々のふるまいを誘発しようとする語りのなかでは、ときに新自由主義的な状況に批判的な言及をしつつ、しかしまさに新自由主義的といえるような主体性を発揮して、人々が公共空間へかかわっていくことが同時に期待されている。
ただ、私が指摘するまでもなく、そうした語りをしている人の多くはそのことに自覚的なんじゃないかなとも思います。本当にどうでもいい話なのですが、私が『創造性をデザインする』のなかで今述べたような部分を書いているとき、頭のなかでドコドコと鳴り響いていたのはメタリカの『Fight Fire With Fire』でした(笑)。つまり、「火をもって火を制す」ですね。新自由主義を制するには新自由主義をもってしかないということなのだろうか、と思いながら書いていました。もちろん、私は資料を積み上げて実践を支える心性を推察しているだけですから、だからダメなんだと簡単に断じるようなことはできないし、したくない。ただ、結局のところ新自由主義という言葉にやっぱりあてはまるよなということは一度誰かが書いておいた方がいいような気がしたんです。
——編集という営みもまた、だんだんと領域を拡張するにつれ、おっしゃっているような事態に巻き込まれつつあるのかもしれません。
牧野 この議論は、最近私も書評を執筆した、エドガー・カバナスとエヴァ・イルーズによる共著『ハッピークラシー 「幸せ」願望に支配される日常』(高里ひろ訳、みすず書房、2022年)にもつながってくる話じゃないかなと思います。
——心理学者と社会主義者が、現代社会における「幸せ(Happy)」による「支配(-cracy)」を論じた書籍ですね。現在、ネット記事を含めて狭義の「編集」能力が求められる場もまた、「ハッピークラシー」とでもいうべきコンテンツ関連であることが多くなってきている実感があります。たとえば近年、企業文化のなかでウェルビーイングが言及されている記事を見かける度に、「編集」の現在を考えてしまいます。
牧野 ええっとつまり、巧言令色といえばいいのか、結局は人々の「主体性」を管理しているのだけれど、うまいことをいってそれを取り繕うようなことに「編集」の技能が使われているんじゃないか……というような話ですか?
——はい。この連載の第1回で、北千住の先鋭的なアートスペース「BUoY」の代表・芸術監督である岸本佳子さんにインタビューした際、なぜか「まちづくりを頑張るお姉さん」として捉えられることが多いとおっしゃられていたのも、関係のある話だろうと思います。
牧野 そこにモヤモヤされているのだとしたら、そこにこそ編集の可能性があるのではないでしょうか。目の前の事態をどのように表現するか、ということが問題であるわけですよね。本来はもっと多様性を含んだ状況であるにもかかわらず、それを一番わかりやすい言葉にだけ落とし込んでいってしまうと、「ハッピークラシー」に薪をくべるようなことにつながっていく。
逆に状況を、既に流通しているような明快なひとつの言葉にはまとめない、ということもできるはず。既存のわかりやすい言葉ではない扱い方をして、人それぞれの生や出来事に丁寧に向き合うことができるよう言葉の引き出しを社会のなかに増やしていく。編集は、そういうことにもかかわれるんじゃないでしょうか。
——事態を、異なる表現で扱う、と。巻き込まれている環境の“外部”を常に想像するような力も求められそうですし、人々の創造性を含めて多様なものを多様なままに扱うというのは、至難の業です。たとえば公共と編集という観点でいえば、近年のファンダムをめぐる議論をふくめて、既にあるにぎわいにどう関係するのか/しないのかが問われます。
牧野 そこにどれくらい編集的な作為が入るか、あるいはその作為がどれくらい言葉にされるかで、ファンダムの側が素直に受け入れられたり、あるいは嫌な感じを抱いたりするのかが変わってくる気がしませんか? 「コミュニティを形成してファンダムを活性化させたい」とか、公園であれば「この場をにぎわいにつなげていきたい」とか表立って言いはじめた瞬間、私のような天邪鬼は、そっとその場を離れたくなってしまいます(笑)。ただ現在は、そうした作為を言語化する社会になっているようにも感じるんですよね。作為を述べないといけないというか……。
——ある種の透明性を保つために、明確に言葉にしているということですか?
牧野 いや、というよりは、何かしらの目的や効用を説明することに囚われすぎなのではないか、と思います。感覚的な話ではありますが、想定外の事態をなくし、織り込み済みにしていくべく、すべてを喋って説明してしまうといいますか。それこそ何と表現すればいいのか難しいところなんですけれど(笑)
いずれにしても、「こう書くといやらしいな、品がないな」というポイントをきちんと差配して、表現したりしなかったりすることって結構大事な気がします。それこそ編集の領域の話なんじゃないでしょうか。たとえば「にぎわい」にしても、「にぎわい」という表現を使わず、しかし「にぎわい」への期待を込めることはできるのでは。もっといろんな違う表現、もっといろんな違う文脈へのつなげ方を考え、社会に発信していく。編集のそういう側面が今よりもっと活発になっていけば、もっと何か変わっていくような、そんな気がします。
宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。
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