「阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんのことを知らなくても、阿波根さんが残したものがこの島にたくさんきっとある。そしてそういう話というのは、いわゆる抵抗とか闘争という枠組みではなかなか見ること、つかまえることができなくて、しかし非常にラディカルな可能性を秘めている。それはこの島で生活して、いろんな人から話を聞いたりする中でわかってくるものなのかなと思っています」
Interview by Sumiko Sato
movie by Kenji kawano
movie edit by Ayako Mogi
榎本空さんは、放浪する学生だ。中学までを沖縄の伊江島で過ごし、島根の全寮制の高校に入る。その間にスイスへ1年留学。それから同志社大学、スイスにもう1年、台湾・長栄大学、そしてマンハッタンのハーレムにあるユニオン神学校で神学を学んだ。いまはノースカロライナ大学チャペルヒル校の人類学専攻博士課程に籍を置く。ユニオン神学校では黒人解放の神学を提唱したジェイムズ・H・コーンに師事。コーンの最後の著作、『誰にも言わないと言ったけれど』(新教出版社、2020)を翻訳し、さらに自らの学びの日々を『それで君の声はどこにあるんだ?——黒人神学から学んだこと』(岩波書店、2022)として出版した。それは神学をめぐる思索を綴った個人的な留学記なのだが、なにか、ただただ、とても大切なことが書いてある本なのだった。伊江島で1950年代、阿波根昌鴻*という偉大な人物が率いた土地闘争の営みと、遠いアメリカの黒人解放運動とが、どうしてつながり合うのか。ユニオン神学校に飛び込んでいって、それを自らの言葉でたぐり寄せた榎本さん。その榎本さんが妻の百々子さん、4歳の春ちゃん、2歳の道ちゃんと共に伊江島の家に戻っているとわかり、急遽、島への短い旅に出た。海の見える明るい部屋で、ニューヨークと伊江島、これまでとこれからをぐるぐると巡りながら、考えながら、丁寧に語ってくださった話は、少し編集されている。
*阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)1903-2002。17歳でキリスト教の洗礼を受ける。キューバ、ペルーに移民したのちに帰国し、伊江島で農民学校設立を目指す。1945年に米軍が伊江島に上陸、島民1500人が死亡。この年、一人息子を沖縄戦で失う。1950年代以降、米軍による伊江島の土地接収に対して記録と抗議の活動を始め、1990年代まで非暴力で戦い続けた。
——榎本さんの本をある人に教えてもらって読んだらビックリしてしまって、お会いしたくなってしまったんです。アメリカとZoomでの会話になるのかなと思っていたら、帰って来ていらっしゃることがわかり、慌ててやってきました。
榎本 帰ってきているといってもすごい遠いところで。でも、来ていただいてよかったです。
——今朝、島を一周してみました。思っていたよりも少し大きかったです。ここで15歳まで暮らしたのですね。
榎本 そうですね。中学校を卒業するまでですから、15歳ですね。
——学校も島にあったんですか?
榎本 そうです。小学校は2つあるんですけど、中学校は1つ。高校はないので、みんな基本的に外に出るという感じになります。
——どんな子ども時代でしたか?
榎本 この家に帰ってきてよく思い出すのは、窓際に座ってよく本を読んでいたな、ということです。そんなに友達がたくさんいるようなタイプではなかったから、本が好きでよく読んでました。あとはサッカーをしたりとか。
——キリスト教は、近しいものだったのでしょうか。
榎本 もともと僕のおじいさんが、榎本保郎というんですけれど、牧師で。だから、キリスト教の中で育って。でも、父は牧師にはならずに、伊江島に来て、阿波根さんのところでいろいろお手伝いをさせていただいた。その後、結局いまは牧師になっているんですけど。だから、キリスト教はほんとうに近かったです。教会には行っていませんでしたが、日曜日には家族で、集会とまでは言えませんが、聖書を一緒に読むような時間があったり、食事をする前にはお祈りをするとか、そういうのはありました。
——お父さんが阿波根さんのところにいらしたときには、阿波根さんはもうかなりのお年だった……
榎本 そうですね。阿波根さんはほんとうにお年でした。一緒に遊んでいる写真もあるんですけれど、僕が覚えている頃は、ベッドで横になって、目もほとんど見えなくて、耳もほんとうに聞こえなくなって…… その手を握ったりしたことを覚えてます。
——お父さんは具体的にどんなことをされていたんですか。
榎本 本にもチラッと書きましたが、畑仕事とかが主だったんだと思います。阿波根さんは戦争の後片付けとおっしゃっていたけれども、木を植えたり、畑を耕したり、そういうことを日常的にはやっていたんだと思います。
——島で暮らすのはひさしぶりですね。
榎本 ほとんど20年ぶりぐらいです。ちょこちょこ何度かは帰ってきていたんですけど、親も島を離れてからはほとんど来れていなくて。
——戻られてまだ1カ月ですが、印象はどうですか?
榎本 まだここに居るのが信じられない感じです。でも、アメリカに居たことも信じられないような。現実感がどこにもないような、いまはそういうふわふわした状態です。昔の友達が島にチラホラ居て、そういう人たちとまた出会い直しというか、大人になって出会ったりすると、また違って面白いです。
——風景は変わっていないですか?
榎本 そうですね。この庭や、ここからの景色は少し変わってますけど、伊江島自体はあまり変わっていないと思います。
自分で考え続けて、自分の言葉を探す
——いろいろと質問を考えてきたんですが、本に書いてあるじゃないかと言われそうなことが多くて……
榎本 いやいや、なんでも聞いてください。むしろなんでこの本を気に留めてくださったのか、僕が聞いてみたいです。すごくニッチなことが書いてありますし。
——神学をめぐる本なんですが、普通に読めるというか…… なんというんでしょうか、とても響いたんです。どんな人に読まれるイメージを持って書いたのでしょうか?
榎本 僕はこういうものを書いたことがなかったし、自分がやってきたこととかやっていることが、一般の人というか、大多数の人々にとってそんなに関係のある事でもないだろうなと思っていたので。これを書いたときは、僕が知っている、親や友人であるとか、そういう近しい人たちのことを考えて書いたというのが大きいです。アメリカや台湾に行った10年間に、ずっと支援してくれたり助けてくれた人たちが居たので、そういう人たちに読んでもらえたらいいなというぐらいの気持ちで書いたんです。
——頭の中で自然と音読してしまうような、不思議な本でした。榎本さんは牧師さんではないので、普段は人に向かって話すことはやっていらっしゃらないですよね?
榎本 そうですね。でも、アメリカに居たとき、JAUC、日米合同教会という日系の教会がマンハッタンの23番通りにあって。100年ぐらい伝統のある教会で。僕らは教会の4階に1年間住んでいたんです。それもすごい部屋だったんですけれど。そしてそこの人たち、ほとんど日系や日本から移住されてきた方々ですけど、そういう方々にお世話になっていたんです。
——神学校の中に住んでいたと本にありましたが、それとはまた別に教会にも住んでいたんですね。
榎本 1年間神学校に住んでいて、1年間その教会に住んでいました。で、ノースカロライナに移った後もそことつながりがあって、コロナになってZoomでの礼拝に変わったときから、月に1回、お話させていただけることになって。2年間ぐらい、ずっとそこで説教というか、お話を日本語と英語、両方でしていました。
——書くときと話すときとで回路は違いますか?
榎本 だいぶ似ているとは思います。書くときも声に出してリズムを調節していきますし。説教をやるときはもうちょっと話し言葉に近いものにはなるんですけれど。でも、たぶん始まりは同じだと思います。
——コーン先生の講義で、先生の声を直接体験されて、ご自身の書き方というか、発声に変化はありましたか?
榎本 コーン先生が自分の書いた文章を講義で読んで、直しながらまた読んで、というのを見ていたのは大きいと思います。僕も、ああ、こういうふうに書いたらいいのかとすごく勉強になりました。
——黒人の話し方には持って生まれたグルーヴがありますね。沖縄にもそれがあるように感じます。
榎本 そうですね。沖縄の言葉は独特ですし。僕はあんまり出てこないというか、沖縄の人としゃべるとちょっとしゃべり方が変わるぐらいですから、自分にどういうふうに影響しているかはよく分からないんですけど。
——いまはこれ、いつものしゃべり方ですか?
榎本 そうですね。でも、小っちゃい頃は、親とはこういうふうにしゃべって、友達同士ではもっと沖縄の言葉でしゃべってみたいなことをやっていたので、違う言葉の中で生きるみたいなことはわりとずっとしていたのかもしれないです。
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——英語で聞いたり考えたことを、日本語でまた書こうとするときに、悩みませんでしたか?
榎本 僕はそんなに英語ができるわけでもなかったので、悩む悩まないという以前に、どうにか自分で理解しないといけないから、自分の日本語に直したり、それこそ翻訳ですね、翻訳を通して学ぶみたいなことはずっとしていました。
——読んでいて、英語の単語も一緒に思い浮かぶような感じがあったんです。
榎本 確かにそうですね。背後に英語がある文章が多いかもしれないです。
——本のタイトルでもある「Find your voice」という言葉をコーンさんはどういう文脈で使っていたんでしょうか。
榎本 やっぱりあれほど影響力を持つと、彼の言葉をただ繰り返す人も多くて。そういう人たちをコーンは批判することが多かったんです。そうなると、彼が神のようになってしまうというか、教義化されていってしまうようなところがあるし、それじゃあ前にやったことをただ繰り返しているだけじゃないかという気持ちがあったのかと思います。もちろんコーンの言葉も使うし、彼にたくさん学ぶんだけれども、同時に、自分が生きている場というのは常に変化していくものだし、そういう中でコーンの言葉が常に妥当性を持つわけでもない。だから、ずっと自分で考え続けて、自分の言葉をずっと探しなさいよ、ということだと思うんです。
——「voice」というのは書き言葉も指すことがありますが、発声されるイメージが強いですね。
榎本 そうですね。それが面白いですよね。特にコーンにとっては、説教というものが大きかったのかなと思います。コーンの自伝に「説教できないものは書きたくない」みたいな言葉があって、僕はそれにすごく共感したんです。きっとコーンは、まず第一に彼が育った[アメリカ南部、アーカンソー州]ビアーデンの共同体や教会の共同体や母親などのことが頭にあって、そういう人たちが分かるようにというか、そういう人たちに向けて書いている言葉が多いと思うんです。それはやっぱり説教の言葉ですよね。コーンは、自分は教会に行って話して、それで拒否されたことはないんだとうれしそうによく語っていました。
——本の中に、神学者とは村の中に住む詩人のような人だという言葉がありました。みんなに読んでもらって、誰かがよくわからないと言ったら、詩人はそれを捨てて書き直すのだと……
榎本 それは台湾のC・S・ソン先生が教えてくださった言葉です。神学をするという行為は、一部の人たちだけの中で実践されることではなくて、もっと普通に生きている人々に伝わるように、イエスだったり神であったりについて語ることだろうというのが、ソン先生が考えていらっしゃったことだと思うんですけれども、それをよく表していますよね。
過去の出来事をいまにつなげる
——阿波根さんの伊江島とコーン先生のアメリカが、榎本さんの中で引き合ったのはなぜなんでしょう?
榎本 ずっと沖縄のことであるとか、阿波根さんのことであるとかを僕なりに理解したいと思っていて、僕なりに理解するということは、キリスト教と切り離せないというか、キリスト教と阿波根さんがどういうふうに関わるか、みたいなことがずっとテーマとしてあって。それでも、それをつなぐ神学であったり思想であったりというものを、日本ではなかなか見つけることができなかったんです。そのとき、アメリカのコーン先生や台湾のソン先生がそういうことをされていると知って、そっちのほうに惹かれていったということはありました。
阿波根さんたちが運動とか闘争をされていた1950年代、60年代というのは、ちょうどキング牧師たちが運動をやっていた時代と重なるわけで、しかも、お互いにコミュニケーションがあったわけでもないのに、どちらも選んだ戦いの手段が非暴力であって、その背景にキリスト教的な思想があったということは、ずっと考えていたことだったので。そういう意味では、黒人をめぐることには興味がありました。
——本を読んでいて、キリスト教の教義や聖書が分からなくても惹かれるというか、分かる感じがとても新鮮でした。「文脈の神学」という言葉も榎本さんの翻訳で初めて知ったのですが、もう少し教えていただいてもいいですか?
榎本 それは、1950年とか60年代ぐらいから生まれてきた神学思想で。基本的には神学の西洋中心主義というか、ドイツとかヨーロッパが中心とされてきた神学をそのまま輸入するんじゃなくて、自分たちの文脈というか、社会的な状況とか、文化とか、そういうものの中でもう一回イエスというものを理解し直そうという神学運動だったんです。その中心にいらっしゃったのがC・S・ソン先生であり、広い意味ではジェイムズ・コーンもそういう流れの中に居たと思います。
——世界のいろいろなところにある……
榎本 そうですね。アジアにはアジアの神学があり、ラテンアメリカでは解放の神学が生まれたり、黒人神学や、アフリカにもアフリカの神学があります。
——神学は長いあいだ、西洋と白人とに偏っていたのですね。
榎本 もともとはそうですね。白人男性が強い学問でした。僕はいま、神学を専門的にやっているわけではないのですが、いまは神学もすごく多様化していると思います。でも、ソン先生やコーンが始めたときというのは、神学の権威みたいな人たちが居て、そういう人たちはみんなヨーロッパの神学者でした。
——わたしは宗教は持たないのですが、例えばヨーロッパに行って教会に入ってみたりすると、ほんとうによく分からないという気持ちが強く湧いてしまうのです。立派で、独特の思いというか、信念がある空間だとはわかっても、どう感じていいのかよく分からなかった。でも、榎本さんの本で少し入り口が見えたというんでしょうか、そんな気がしたんです。
榎本 そうなんですね。
——何につながって生きているのか、何の後を生きているかというようなことを何度か書いていらっしゃいますが、そういうふうに思うに至った経緯は…… それこそ、本に書いてあるのだと思いますが……
榎本 なんでなんですかね…… セイディヤ・ハートマンさんという僕の尊敬する学者の方がいらっしゃって、「死者と寄り添う方法を歴史と言う」というのはその人の言葉なんですけれども、その後に僕は、「死者と寄り添うもう一つの方法は信仰だ」と書きました。歴史と信仰というのが僕にとっては同じような行為に思えて。キリスト教の信仰というのは、いちばん簡単に言うと、2,000年前のイエスの出来事が、どういうかたちでか、なぜかいまここに関係しているということを信じるというか、納得するというか、そういう行為だと思うんです。歴史というのもやっぱりそういう行為で、過去のある出来事というのがそこで終わったんじゃなくて、いまというときに食い込んでいるということを明らかにする学問だと思うんです。それがすごく似ているんじゃないかと、僕の中ではそこで腑に落ちたというか。だから、僕はイエスの出来事というのをいまの出来事としてどうにか感じようとしているし、それは黒人の人たちが400年前のことがいままだ続いているんだと言うのと同じようなことだし、沖縄の人たちがずっとあの戦争のことにこだわって、忘れられずに、いまもまだいろいろやられているということともつながるのかなと思います。
——阿波根さんが使われていたさまざまな言葉にはキリスト教を超えた普遍性があると感じました。
榎本 彼の、「剣をとる者は、剣にて亡ぶ」の後に「基地をもつ国は基地にて亡ぶ」と続けるというような聖書の読み方は、学問的にではなく、もっと生活の中でイエスだったりキリスト教を理解して、実践されていたんだろうと思います。だから、教義や教会組織というものからは外れているのかもしれない。でも、彼なりの説得力があるし、普遍性がある。そういう信仰には僕もすごく惹かれるところがあります。
——でも、この島がとても静かで、あの阿波根さんの運動のひっ迫した感じを想像するのがなかなか難しいです。
榎本 ほんとうに。のどかで、表面的には平和な島ですから。基地のほうへは行かれましたか?
——今朝、道路のいちばん先、基地のフェンスの手前まで行ってきました。
榎本 あの近くに、夕日がすごくきれいに見えるところがあるんです。灯台の近くですけど、僕らもきのう行っていました。フェンスの脇のあたり。灯台はフェンスの内側にあるので。きのう百々子が言っていたのは、夕日はちょうど島のそのあたりの海に沈むので見えるんですけど、もし日が沈むのが島の反対側だったら基地があって見えなかったね、と。
——島にはいつもはあまり米軍は居ないんですか?
榎本 そうですね。訓練はしているんですけれども、住んでいる人は居なくて。だから、伊江島はいわゆる基地の町みたいなこととは、また違うんです。でも、この前もパラシュートが畑に落ちる事件がありました。そういうのは日常的にありますね。
記憶や振る舞いに息づく、ラディカルな可能性
——いま、伊江島でされている研究は、神学ではなく文化人類学なのですね。
榎本 そうです。僕もまだほとんど始めていないに等しいですし、分からないことも多いんですけれども。阿波根さんのことを阿波根さんのこととして理解するのは、もしかしたら神学を通してもっとできるかもしれないんですが、伊江島ということを考えたときや、伊江島の中で阿波根さんがどういうふうなことをしたのかとか考えるときには、なかなかキリスト教だけでは理解できない部分が多い。そうなると、文化人類学は便利というか、面白い学問だと思います。
——これからどんなふうに研究をされるのか教えていただけますか?
榎本 ほんとにまだ何もやってないんですけど(笑) 一つは島の人たちにいろんなことを教えてもらいながら、彼らが復帰前にどういう経験をされてきたかを聞き取りできたらいいなというのは思っています。
——それをまた文章化するようなイメージですか?
榎本 博士論文を書かないといけないので、書けたらいいなと思います。あと、編集者さんともいろいろ話しながら、かたちに残せたらいいなと思っているんですけれども。まだどうなるかは分からないです。
——聞き取りをする人は、知り合いの方から探していくのでしょうか。
榎本 そういう感じですね。友人に聞きながら探していったらいいかなと思っています。でも、コロナなのでなかなか難しいですね。簡単に人の家に行ったりお話したりというのが難しいですし。
僕と同世代の人とはよく話をするんですが、彼らに聞いても阿波根さんのことはあまり知らないんですよね。「なんかすごい人が居たんだね」ぐらいの話で終わるんです。でも、それもまた面白いなと思って。一回そういう話をした友達がその後、家に帰って、自分のお母さんに阿波根さんのことを話したらしいんです。そうしたらそのお母さんが阿波根さんと一緒に売店のような生協みたいなところで働いていたことがわかった。そのとき阿波根さんがそのお母さんに教えてくれたのが、食器の洗い方だというんです。伊江島は水が少ないから、まずあまり油で汚れていないものから洗って、というやり方を阿波根さんから教えてもらったと。で、その食器の洗い方は、僕の友達もその母親から教えられて、ずっとそういうふうに洗ってきたという話があって。だから、阿波根さんのことを知らなくても、阿波根さんが残したものがこの島にきっとたくさんある。そしてそういう話というのは、いわゆる抵抗とか闘争という枠組みではなかなか見ること、つかまえることができなくて、しかし非常にラディカルな可能性を秘めている。それはこの島で生活して、いろんな人から話を聞いたりする中でわかってくるものなのかなと思っています。
——知恵のようなものが蓄積されて、つながっている。
榎本 そうだと思います。伊江島って外からは政治的に保守的な島というふうに見られるんですけれども、阿波根さんや50年代の闘争が残したものというのが、いろんなかたちできっと残っていて、そういう記憶や振る舞いを拾い集めていくのが大事なのかなと思っています。そういう知識を学ぶことができるのがフィールドワークのいいところですから。
——文章は普段から書いていらっしゃるんですか?
榎本 編集者さんに、日記を書くようにしなさいという宿題をいただいて。怠け者なので、なかなか続かないですけれど、毎日少しだけでも書けるようにしようと思って。あと、翻訳したい本が一冊あって、それをちょっとずつやったりはしています。
——それはどういう本ですか?
榎本 それも黒人の人の本で。この本にも出てくる、セイディヤ・ハートマンさんという人の本が僕はすごく好きで、今の自分の研究とも直結してくるので、その本をどうにか翻訳できたらいいなと思って、ちょっとずつ進めています。
危機の言葉が響くとき
——ハルちゃんとミチちゃんの名前はどういう漢字ですか?
榎本 ミチは道路の「道」。ハルは季節の「春」です。ハルはジェイムズ・ハル・コーンのハルもあったし。あと、僕は細野晴臣が好きなんです。
——細野晴臣のハル!
榎本 僕の音楽好きは細野さんから始まって、そこからいろいろ細野晴臣関連のものをあさったりして。最初は人に教えてもらって『泰安洋行』を聴いて。同時代で聴いていたのは『HoSoNoVa』ぐらいからです。あれがちょうど震災後に出て、その気分にすごいマッチしていて好きだったんです。
——細野さん以外では?
榎本 細野さんまわりの人たちは大体わりと好きです。ティン・パン・アレーとか、久保田麻琴とか。この前亡くなった小坂忠さんも好きですし。アメリカだとライ・クーダーとかレオン・レッドボーン、アラン・トゥーサンとか。最近だと折坂悠太さんがすごい好きですね。アナログのレコードが大好きで。いまここには、ちょっとしかないですけど。
——百々子さんとは高校の同級生だったんですね。
榎本 そう。1学年15人ぐらいの高校で、全寮制で、みんなで生活して。島根にあって。
——そこからスイスに留学したんですよね。
榎本 それは、単純に、その頃ジョン・レノンにあこがれていて…… 平和といえば国連、国連といえばスイス、みたいな短絡的な考えで。髪も伸ばしたりして「イマジン」歌ってました(笑)
——高校時代までさかのぼるといろんなことが…… それから戻ってきて、その後、大学は京都ですね。
榎本 そうです。
——それからまた…… ニューヨークじゃなくて……
榎本 スイスにもう一回行って。それから台湾に。
——どうしてもう一度スイスに?
榎本 神学といったらスイスだ、みたいな。
——じゃあ、そこではヨーロッパ白人男性神学をガッツリ。
榎本 最初にそこでやって。だから、ぜんぜん納得できなかったし、分からないことが多くて。やっぱりジェイムズ・コーンとかのほうが自分にはしっくりきました。
——アメリカには結局何年住んでいたんですか?
榎本 8年住みました。
——書評などがたくさん出てきていますが、この本のいまの状況をどんなふうに感じていらっしゃるんでしょう。
榎本 そんなに多くの方に読んでもらえるとはほんとうに思ってなかったので、それは素直にうれしいです。でも、こういうコーンの言葉とか、コーネル・ウェストの言葉というのがこれだけ響くというのは、それだけきっといまの時代が悪いというか、やっぱり何か切迫したものがあるからこそ響くんだろうと思って。それは喜んでいいのかどうなのかということはすごく思いますね。
——いま、何だかこの国はいろいろ変だけどあまり変わっていかない、どうしたらいいんだろうという閉塞感というか無力感を多くの人が感じていると思うんです。
榎本 そうですね。彼らの言葉というのは危機の言葉というか、誰かの命がないがしろにされている状況の中で発せられた言葉だと思うので、その言葉を何か近くに感じるというのは、それだけ多くの人たちが自分の命がないがしろにされていると感じているのかもしれないとは思います。
——実際に安倍さんの事件が起きたりして、わりあい近くにそういう、生死の境界みたいなものがあるなという感覚に多くの人が触れたんじゃないでしょうか。
榎本 確かにアメリカに居ると、それこそ銃撃事件とかも多くて、スーパーマーケットに行くだけで大丈夫かなと思うような状況がずっと続いていたので。ようやく日本に帰ってきて、そういうものから解放されるかなと思っていたときに、安倍さんのことが起きて。もしかしたら日本もこれからそういう、ほんとうに日常的に自分の命を疑わないといけないような状況になっていくのかなと思ったりもします。そして沖縄に居ると、黒人の方々が感じているようなことを皆さんどこかで感じているところもあるんです。いつパラシュートが降ってくるか分からないところですから。
——もしかしたらそれは日本のどこにいてもあるものなのかもしれないですね。
榎本 そうかもしれないです。ただ、沖縄は歴史的にそれが積み上がってきているから、みんな感じざるを得ない。その上での日常の生活があって、それはほんとうに大変なことであり、同時に一つの偉業なのではないかと思っています。
——伊江島でお会いできて、ほんとうによかったです。
佐藤澄子|Sumiko Sato
1962年東京生まれ、名古屋在住。クリエーティブディレクター、コピーライター。出版社「2nd Lap」を立ち上げ、翻訳、出版に取り組んでいる。訳書にソナーリ・デラニヤガラ『波』(新潮社)ほか。
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