CITY OF AMORPHOUS

倉本聰の偉大さについて——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」17

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第17回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

第17回:倉本聰の偉大さについて

倉本聰(本名:山谷肇 現83歳)ほどになると、「氏」とか「さん」とか「先生」という敬称の類さえ気軽には付けられない。黒澤明などと同じであろう。「映画監督の黒澤明さんは<影武者>という作品で、俳優の勝新太郎さんと揉めたそうです」は、エッセイスト平均では無理だ。端的に、バカだと思われてしまう。

とまあ、以下、敬称略で行くが(僕はエッセイストとしてのマナーで、なるべく、可能な限り、敬称を付けるようにしている。ジャズシンガーの綾戸智恵氏を、ある原稿で「綾戸智恵氏は」と書いたら、後に対談を申し込まれ、「あたし、名前に<氏>なんか付けられたん。あんたが最初で最後やわ~」と、異様に喜ばれた。情けは人のためならず)、倉本聰の偉大さはやっぱハンパない。

「パねえっす」とか書いても良いのだが、僕はあまりこの修辞は好きではない。イタリア語でブレッドのことを「パーネ」というので、僕は日常的に結構な頻度で「パーネ」という言葉を口にする。「パーネもっとちょうだい」とか「パーネうまいねえ今夜」とか、色々。このこととのコンフリクトが原因だと推測している。と、僕の文章は必ず「カッコが多く、それが長すぎる」と、読み書きもままならないバカに文句をつけられるので、バカへの挑発の為に、カッコを「より多く、より長く」と心がけているのだが、今、妥協してしまった(「イタリア語で」からカッコで閉じても良かったのに……。やはりまだ僕は物書きとしては三流だ。こうしてバカに阿ってしまっているのだから。あ、ちなみに「阿って」は「おもねって」と発音し、いやらしい妥協や忖度を意味します)。

その点、倉本聰はすごい。「知ってるよそんなこと。バカかお前は」等と仰るなかれ、僕は、倉本聰の脚本は基本的にそんなに好きではない。

好きなのは、映画だったらグループサウンズ映画の『ザ・スパイダースのゴーゴー向こう見ず作戦(67年)』だけ(本作に於ける、故・かまやつひろしと堺正章の輝きはパねえっす)、テレビドラマだったら、幽霊コメディの『あなただけ今晩は(75年)』(本作の若尾文子のキュートさはマジ卍パリピやばい)以外、大体ダメだ。後の、病的な内向性ロマンティークや、やがてUFO期待にまで繋がる反文明主義がもう既に現れているからで、こういうのは好きな人にはとても美味しく、そしてそっちがわの人々は我が国のマジョリティなので、安心して嫌いと言える。そこも大物の証だ。

とさて、いきなり話が変わるけれども、仕事柄よくインタビューを受ける。そうすると、俗に「おこし」という作業が待っている。インタビュアー(多く、編集者兼)が、録音したインタビューを文字に起こして原稿化し、送ってくるのだが、まあまあ、いちいち言うのも詮無い話だが、かなりの打率で「オレ、こんな風に喋ってねえし」ということが起こる。聞き違いによる単語の間違い、とか、編集者が興奮して、大げさに盛ってしまった。とかの話ではない。口調と文体の変換の事だ。

昭和の名だたるエッセイストは大抵この事を嘆くエッセイを書いているので、昨日今日はじまった話ではないのだろう(かの小林信彦は、この件に関して、僕など及びもつかない怨念と粘着性で嘆きまくった後に、実名で「唯一、素晴らしい編集者」の名を挙げ「この人が自分の1時間の談話を僅か数千文字に起こした時、一体どこが切られているのか、本人である自分が読んでも全くわからなかった」と書いている。いいなあ、こんな人いねえかなあ。叶わぬ夢である)。

昭和と違うのは、その「歪められてた口調」のフォーマットが単一だという点だ。昔日は、インタビュアーの数だけ、編集者の数だけ「歪め方」があったろうに。僕は幸か不幸か、物書きとしては21世紀デビューなので、その都度その都度歪められ方が違うなどといった楽しみがないのだが(ごくごく稀に、後に業界から消えてしまうような、完全な「作家さん」がいて、人の談話をもとにオリジナルのエッセイを書いたりされたが、あそこまで行くと逆に面白い)、愚兄の菊地秀行先生などは、壁に頭を打ち付けて怒っていた(税金の高さに対しても同様の行動でアゲインストしていた。因みに)。

最近は、もうフォーマット一個しかない。手先が器用な奴が自動変換ソフトを作れるはずだ。絶対。

それは、「ネット口調」である。厳密には「SNS口調」というべきなのだろうが、SNSはおしなべて近年、日本版の10周年を迎える若いメディアなので、前行メディアであるミクシイ日記だの掲示板口調だのからの遺伝性を無視はできない。とまれ、Twitterの文字数制限の影響は甚大である。

倉本聰先生に早く合流するためにも、早速実例を出そう。以下、「原料(テープ起こしに完全に忠実)」「希望(それを修正し、話し手=自分が、「こう言いたかった」という理想像)」「現実(歪められた口調)」、の三段階を示す。勿論、具体例ではない。

1)原料

「だ、だからあ、そうっすね、あー、スーツ、テーラードの、テーラードはやっぱり、素晴らしいですよね。実際に経験しないとわからない事ではあるんで、素晴らしい素晴らしいの連呼じゃ、ね、えー、まあ、能はない、ないんだけれども、今は、安価に、あのう、具体的な服屋さんの名前は出しませんけど、出してもいいか?……あ、だめだな。えー、それはともかく、すみません……えーっと、だから、若い人にフルオーダーでスーツを作る喜びを知ってほしい。っていうか、つまりえー、そういう、昔はユースカルチャーじゃなかったものを、ですね、ユースにまで下ろす。玩具化でもあるんだけど一方、というか、ユースの意味が、もう、大人ってことの意味とね、液状化っつうか、形骸化っつうか、死ぬまで青春の星になっちゃってるじゃないですか、はい、そう思いますよ。いや、何かがじゃなくて全部。そういう服屋さんの意欲のあり方っていうのも目立ってきてますね」

2)希望

「だからそうですね、テーラードのスーツはやっぱり、素晴らしいと思います。実際に経験しないとわからない事ではあるんで、素晴らしい素晴らしいの連呼じゃ能はないのですが、今は、若い人が安価に、フルオーダーでスーツを作る喜びを知ってほしい。という服屋さんの意欲のあり方が目立ってきていると言えます。つまり、昔はユースカルチャーじゃなかったものを、ユースに下ろす。これは一種の玩具化とも言えますが、ユースということの意味が、対語である大人液状化もしくは形骸化されてしまっていて、「死ぬまで青春」の星になっちゃってますから、オーダーメイドスーツだけじゃなくて、様々な事に同様の現象が見られますよね」

3)現実

「テーラード。テーラードはやっぱり素晴らしい。実際に経験しないとわからない事で。素晴らしいって言ってるだけじゃ能はないわけで。具体的な名前は出せないけど、若い人にフルオーダーでスーツを作る喜びを知ってほしいっていう。昔は<ユースカルチャー>じゃなかったのに、玩具化っていうか。<ユース>の意味って、もう、大人ってことと液状化してる。死ぬまで青春の星になったな、って思ったり。そんな中で、いろんな事が起こってるわけで」

とまあ、今急に捏造したので、膝を打つような明快さに欠けるきらいはあるが、大体こういう感じだ(ああ、出してぇ、具体例のエグいやつ。お察しください)。

「わけで。」「ってことで。」「思ったり。」は、句読点前の、終止における三種の神器である。僕は単純にこの言い回しが嫌いだし、嫌いな理由は、メディア(ネット)からカジュアル口語に転移して、それが再びメディア(ネットや雑誌)に戻されているから、と推測できる(昭和だと若者のストリートスラングやラジオ / テレビ口調がこれにあたる)。

一般人は、むしろこの現象を安心感、共有感とともに、陽性反応もしくは当然として迎える。これを嫌がるのはプロフェッショナルの物書きである(反作用として、これを嫌がらずに、あたかも流行に乗っている先端性だと捉えて、積極的に使う物書きもいるが)。

「オレはあんな喋り方してねえ」なんて甘っちょろい、SNSという冥府魔道、獣道では「オレはそんなこと全く言ってねえ」が拡散するのが日常なのだから。という適応性の強い方もいるだろうが、まあ、感覚的に無理&諦め。というところである、あくまで僕個人は。

と、僕個人の、メディアの文体の転移による記号化に対するアティテュードはどうだって良い。それより、ある日、僕は気がついたのであった。うわー!!

「わけで。」「ってことで。」「思ったり。」

これって、『前略おふくろ様(75年)』と『北の国から』のモノローグに似てね?(敢えてのネット口調。俺コレ、喜んで連発するやつ死ぬほど嫌い)

「前略、おふくろ様。今日も自分は、しくじったわけで。不器用だといえば不器用だと思うしかなかったり。ってことで。大将はやっぱり優しい人で。本当に優しい人で。」

↑天地神明にかけて、これは引用ではない。こんな雑なことを倉本聰が書くわけがない。というか僕はこのドラマを見たことがない。昭和の名作というのはすごい。見てもいない者に、トーンとマナーが伝わったのである。『北の国から』に至っては、主題歌まで諳んじられる。『北の国から』のじゅんくん(吉岡秀隆さん)のモノローグは、『前略おふくろ様』で、初めて確立した「倉本モノローグ」の完成系である。そんな事までわかるってどういうこと? 見てないのに!マジで!!

一度思い込むと(気がつくと)、もうそうにしか見えない。というのが人間である。僕は、優木まおみ氏と和田アキ子氏が、瓜二つであることや、永野芽郁ちゃんとTKO木下ちゃんが輪郭以外全く同じであることに気がついてしまう、気が付きやすい男である。そんな男が言うのであるからして、どうか信じてほしい。倉本聰は、かくも偉大だ。御年83にして、メディアが倉本節という癖の強い文体と同一化したのだから。如何な国民的な大ヒットドラマとはいえ、まさかあなた、SNSの口調に無意識的な支配力を振るうなんて、信じられます? 信じてもらおうにも、無理だと思うわけで。でも、信じてほしいなってことで。

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。