「画家のアトリエってセンスの良いもの、何か由緒あるものが置いてあったりして、すごく雰囲気があるのに、僕のところは全然違いますから」と彼は言った。訪れると確かに一時的にスペースを借りているような簡素さ。描くのに必要なものしかない仕事場と少しの洋服と料理器具、それと本だけの住空間。でもここであの情感のある肖像画などが生み出されているのか。
TEXT BY Yoshio Suzuki
PHOTO BY Mie Morimoto
courtesy of TOMIO KOYAMA GALLERY
六本木の小山登美夫ギャラリーで6年ぶりに個展「Stream」を開催中の画家、川島秀明にアトリエ取材のお願いをすると、「ぜんぜん画家のアトリエって感じじゃなくて、都内の3LDKのマンションを仕事場兼住居に使っていて、モノもあまりないし、写真を撮ってもつまらないと思います」との答え。それでもいいので伺わせてくださいと頼み、取材が実現した。
川島といえば肖像画なのだが、今回は情景を描きこんだ大きな絵や近代日本洋画からインスパイアされた作品も見せてくれた。
緑豊かな公園の中、小さな子どもに手を引かれている、これは川島の自画像である。
川島は名古屋出身で東京の西側にある美術大学を出て、10年弱の紆余曲折を経て(それについては後述の文章を読んでほしい)、美術の世界に戻ってきて現在に至る。近年は東京の東側サイドにアトリエを構えている。取材当日は学生時代の作品の写真なども準備して話をしてくれた。画家・川島秀明が語る半生。
中学校を卒業する頃から美術大学に行こうと思っていました。勉強もそこそこできたんです。でも、他の優等生みたいにいわゆるいい学校に進学して、いい会社に入るのが当然っていうことに疑問を持ったんですね。
父親は高校で野球をやって甲子園で優勝して、そこから、つまり3年の夏の甲子園が終わってから受験勉強して有名大学に合格して、一流企業のサラリーマンになった人でした。そんな父親と比べられるのも嫌で反発していたんです。
それで自分はちょっと変わった生き方をしたいというのがありました。絵が好きだったというのももちろんあります。美術館で名画を見て好きだったというより、子どもの頃からマンガを描いてたりしていて。学生時代の作品を見ても、絵を描いてるというよりはともかく目立つことをやろうというような自己顕示欲しか感じませんね。そんな自分には、高校の友だちよりも美大受験予備校で会う友だちの方が面白かったんです。
中学の時から美大に行こうと思っていたくらいなので、予備校の河合塾には高校1年の基礎科から通いました。そこで先生をやっていたのが奈良美智さんでした。奈良さんは河合塾では3年間だけ教えているんですが、1年目の教え子には僕とか、のちに『美術手帖』の副編集長になった宮村周子さんがいて、2年目の教え子は愛知県立芸術大学の日本画科を出て、今は東京藝術大学の教授をしている画家の杉戸洋さんや愛知県立芸大彫刻科教授の森北伸さんがいて、3年目にはアーティストの大巻伸嗣さんがいました。彼も東京藝大の教授ですね。
その後、上京して美術大学に通っていたときは、新宿にあった森山荘という3万円の下宿に住んでいました。学校が八王子にあったので、最初はその近くに住んだんですが、せっかく東京に出てきたのにそれじゃあ意味がないなと思って引っ越しました。朝、新宿で京王線の空いている下り、高尾行きに乗って、ゆったり読書しながら通学してました。
三島由紀夫に心酔して、ほぼ全著作を読んだり、だから当時の自分の作品には三島の影響がストレートに出ています。三島は元々は母親に薦められて読んだんです。
学生時代は画廊でアルバイトをしてました。自分では銀座の貸し画廊で個展をやったりしましたが、そのときの作品はバイト先の画廊のオーナーが引き取ってくれました。
大学を出てから、ヨーロッパにバックパック旅行に行きました。ドイツ、スイス、イタリア、ギリシャ、南フランス、スペイン、ポルトガル、フランスに戻ってパリ、ロンドン、ベルギー、オランダ、北欧、ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア。モスクワにも行きました。当時、デュッセルドルフアカデミーに通っていた奈良さんを訪ねたり。奈良さんの絵がジャケットになったドイツのバンドのレコードをいただいて大切に持ち帰りました。
学校を出ると、だんだんと絵を描かなくなってしまったんです。美大という環境にあったからやってたというのもあるし、そもそも美術の目的として、他の人と違うことをやるという狭い視野に基づいていたものだから、世の中に出ると、自分は何者なんだろうというところから始まるし、絵を描くことが環境としてないので、その環境づくりからしないといけないわけで、そのときはそれができなかったんですね。
まわりに絵を描いている人もいないし、他の人とは違うことをやろうと思って、イキリたくても、自分のイキリをわかってくれる人が周囲にいないので意味がなかった。
1993年、奈良さんがギャラリーユマニテでやった個展は見に行きました。そのころ僕が美術と関わる接点は奈良さんしかなかった時期です。あと、会田誠さんが大森にあったレントゲンで発表した《巨大フジ隊員VSキングギドラ》は見に行ったかな。
そういうものを見ても、僕はもっとニューペインティング的なものとか、佐賀町エキジビットスペースで見た大竹伸朗さんの展覧会とか、ヘタウマの巨匠である湯村輝彦さんとか、朝倉世界一さんのマンガの方が自分に近い気がしていました。
当時はアルバイトで生計を立てていました。世の中はバブルだったので苦労はなかったです。バックパック旅行をしているとき、ユースホステルなどで会う日本人旅行者に対して、こちらは半年も日本を離れて旅しているというのを自慢する意味でも「最近の日本ってどうですか?」って聞いたりして、すると「バブルがはじけた」という言葉が流行ってます」と返ってきたんです。
実際、帰国してみたら、アルバイト情報誌「フロムA」とかめちゃ薄くなっちゃってるし。僕が学生のころ、バイトの面接というのは、明日からヨロシク、みたいな儀式でしかなかったのに、バイトの面接で落ちたりするなんてことも起こってきちゃって。生活がままならなくなり、絵も描く意欲がなくなっていくし。
そんな状況の中で仏教に出会いました。天台宗が僧侶の一般公募をやるというのを知って、応募して入りました。大学を1991年に卒業して、バイトしたり、長い旅行に行っていたりして、比叡山に入ったのが95年でした。そこでは庫裡に住むわけですが、僕たちは一般公募という特殊な形で入っているので、いちおう個室があてがわれて、でもそれでは修行にならないからと、1カ月ごとに部屋を引っ越す決まりでした。
それが今のモノの少ない断捨離生活に繋がっているのかもしれません。当時の仲間内でも僕の引っ越しはめちゃくちゃ早くて、そのときの物のない生活が自分には一番合ってたんじゃないかなと思います。モノもそうだけど、寺に入るという今までの生活そのものを捨てるような行為です。裏返せば自虐的な自己愛、こんなことやっちゃった自分というのが好き、みたいなのかもしれないとも思います。父は何も言わず、得度式にも来てくれました。
比叡山には2年いて、降りてきたんです。一緒に入った人の中には地方のお寺と縁組みしたり、比叡山に残った人もいました。僕も残ることを勧められたんですけど結局それはしなかった。あとは病死した人もいるし、全然連絡が取れなくなった人もいます。
かつてアルバイトしていた銀座の画廊の主人がお正月に比叡山に参拝に来て、正月は僕たちも表に出るので参拝客に会うことがあり、偶然会ってしまったんです。それで僕のことをあるお寺のお嬢さんに話したら、その人が手紙を送ってきたんですね。そのことが比叡山にバレてしまったのもあって、そのお寺に行こうかとも思ったこともありました。ともかく、そんなこんなでアートのことも思い出して、比叡山を降りるんですが、結局その人のお寺にも行かずに、再び名古屋でバイト生活に戻ったんです。今度は居酒屋で働きました。
河合塾で一緒だった友だちが自宅をギャラリー&ショップに改造して、フリーペーパーを仲間と作ってたのでそこに参加しました。創刊号が「奈良美智特集」で、奈良さんにコメントをもらったりしています。奈良さんは作品が『美術手帖』の表紙になったりしていたころですね。その頃の僕の活動は『東海ウォーカー』に載ったこともあります。
時代的には、マッキントッシュでポストカードを作ったりすることがブームになっていて、美大出身とかでなくても趣味でやってる人が作ったポストカードをショップで売ったりしてました。商店街イベントにブースを出したりもして、「僧侶が描く!」なんてキャッチつけて、カードを売ったりして、そのオープニングに奈良さんも来てくれて、いくつか買ってくれました。
2000年ころに奈良さんが横浜美術館での展覧会準備もあり、ドイツを引き払って帰国して、東京の西多摩郡の瑞穂町というところに引っ越してきました。奈良さんから「うちの隣がいいよ」って誘っていただいて、アーティストの小出ナオキ君と一緒にそこに住みました。加藤泉君とかとも知り合って、なので加藤君は「間接的に奈良チルドレンみたいなもの」なんて言うこともありますね。
高校一年で美術予備校に入った頃は、美術で食っていくというのはデザインの仕事をすることなのかなと漠然と考えていたのですが、奈良さんのような作家さんに会って、目からウロコが落ちるみたいに人生が変わりました。そういう生き方もあるんだって。僕は石膏デッサンはだいたいできてたんだけど、平面構成とかは苦手だったから、デザイナーには向いてなかったでしょうね。彫刻科に行きたいと考えたりもしたんですけど、彫刻科というのは学校によってはとても保守的だとも聞いて、奈良さんには油絵科に行くように薦められました。しかし、油絵具がどうもうまく使えなかったんですけどね。
奈良さんの隣に引っ越してきた僕は急に絵っぽい絵を描いて勝手に苦労してたんです。奈良さんがキュレーションして、小山登美夫ギャラリーで開催したグループ展「モーニング・グローリー」に参加させてもらうことになりました。作品のファイルもなくて、公募展に出したこともない僕の作家人生はこの展覧会から始まっています。展覧会をやって作品が売れるなんてことは学生の頃から期待もしてなかったけれど、売れないとやっぱり寂しいというか動揺するというか、しゅんとなります。そんなこと何も知らないで個展をやってたときは本当に自由で楽しかったんですけど。
同時に現代美術という知らなかった世界に向き合うことになって、ともかくビビったわけです。しかも売らなければならない。自分の絵を10万円で売るとかって、10万円って言えば大金だなぁって思いました。はっきり言って怖くて怖くて。もちろんバイトしながら生活していたんですけど、このままじゃどうなのかなとその頃、考え始めていて、このままこんなふうにやっててもなぁって。
「モーニング・グローリー」には参加させてもらって絵も売れたけれども、それ一発で終わってしまっていたんですが、しばらくしてアメリカのコレクターの人がこのカワシマって人の作品はないかって小山さんのところに問い合わせが来たんだそうです。小山さんから「川島君、作品ある?」って聞かれたので、家にあった作品を当時乗っていたスズキアルトに積めるだけ積んでギャラリーに持っていって、見せられるだけ見せたんです。そのときは、結局1点買ってもらえました。
結果的にそれがプレゼンみたいになって、小山さんのギャラリーが江東区佐賀町の食糧ビルから中央区新川のビルに移ったときにギャラリーのメインのスペースとは別に地下に小さい部屋を作るからそこでやるのはどう? って声をかけてもらったのが、2003年ですね。その部屋は「プロジェクト・ルーム」と名付けられ、これから売り出す作家を取り上げる実験的な場所で、そこの2回目の展覧会でした。その段階でもギャラリーに所属というより単発の依頼だと思ってました。
バーゼルのアートフェアにも作品を持っていくと聞いていたのですが、実はバーゼルと言われても僕はそれが何なのか全然知らなかったんです。バイトを終えて家に帰ってきたら、バーゼルにいる小山さんから留守電が入っていて、すごく引き(問い合わせ)があるから、作品の画像を送ってくれないかというので、いくつか見繕って送りました。画像を見せて向こうで売ると言うことでした。自分のウェブサイトを作っていて、それ用に作品の画像は整理して持っていたのでそれを送りました。
今でこそ、ネットで画像を見て作品が売れるということはよくありますけど、そのときはそんなことしていいのかなぁと思ったり、ますます怖くなりました。そうやって作品が売れていって、実は「プロジェクト・ルーム」のあと、名古屋のギャラリーでも個展をやる予定が前々からあって、でも作品が売れてしまったので、個展の延期をお願いしたんですけど、それはできないと言われて、その話を小山さんにしたら、じゃあ今後はうちだけで取り扱わせてと言ってもらって、これでやっとギャラリーに所属したということなのかなと思いました。
2004年にはバイトを辞めて、画家専業。今のような生活に入りました。ニューヨークのアートフェア「アーモリー・ショー」に連れていってもらいました。ニューヨークも初めて、アートフェアも初めてでした。それまでも、小山さんに絵を渡すと、外国で売ってくれて、僕にはお金が入ってくるというその仕掛けがよくわからなくてビビってたので、アートフェアの現場を見ておきたかったんです。
アートフェア会場の小山登美夫ギャラリーのブースに自分の作品が飾られているのを見たあと、会場をぐるりと一周して戻ってきて、再び自分の絵を見たときに、あ、これ買う人がいるかもなとやっと思えたんです。自分の絵のことだけ考えてると、なんでこれが売れるんだろうって思ってたけれども、アートフェアにはあまりにもいろんなものがあるのを見て、これだけいろいろあるなら、売れる場合もあるかもなってちょっとわかったんですね。それを小山さんに言ったら、「そんなの当たり前だよ。いいものしかない市場なんてないんだよ」って言われて、どういう意味かなって考えて、文脈からしたら、僕の作品は良くなくても買う人がいるってことなのかなって。
小山さんが本にも書いてるんですけど、良い悪いと売れる売れないは別の話だってよく言ってて、そのことがそこで実感としてわかったということですかね。そのときの小山登美夫ギャラリーのブースのメインは蜷川実花さんで、僕の作品は4〜5点出していました。
急に現代美術の最前線に来てしまった感じ。なにしろ90年代は現代美術に関しては空白でしたから。比叡山に籠っていたり、名古屋にいたりして、現代美術は全然見てなかった。奈良さんが有名になっていってるってことだけは知り合いが教えてくれたりしてましたけど。小山登美夫ギャラリーがどんなギャラリーかも知りませんでした。もちろん、ピーター・ドイグとか、ローラ・オーウェンズといった世界的に活躍してる画家も知らなかったんですけど、アートフェアを経験して、たとえば奈良さんが海外で評価されていった意味がわかったりしました。
絵の描き方でいうと、油絵をやるようになって変わりました。アクリル絵具のときは乾きが早いので、1点1点終わるまでそれに集中してたんですけど、乾燥しにくい油絵具で描くとなると、否応なく複数の絵を同時進行でやることになります。最大で4点を同時進行したりしますが、そうなるとちょっと引いて見てるところがありますね。没入し過ぎないというか。
描くことを続けていって、歳とって熟練していくと余分なことをしなくなるのかなぁ、なんてイメージしています。無駄な迷いがなくなって決断が早くなって、合理的になる。マティスの切り紙絵やホックニーのiPadペインテイングみたいに。僕はいっとき絵から離れていたときもあったので、今でもアマチュアリズムに浸っているところもなくはないなと思いますね。以前は自分がどう見られているかってことに囚われていたけれども、その執着も弱くなってきたと思います。
ある人と話していて、仏教は自我を抑えて静かにという方向のもので、一方、美術とかは自分を出していく行為で、それは両極の2つで、矛盾というか自分を苦しめることをやっているのではないかと問われたんです。確かにそのとおりだと思うこともあります。作品を発表する人っていうのは自意識が強くなりますよね。人からこう見られているということを意識する毎日の中で、なんでこんなことやってるんだろうと。比叡山に行ったときのように全部捨ててしまえるといいと思うことは今でもあります。
それでも今は毎日、絵には触っています。そして、散歩して日記を書く日々を送っています。
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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