絵画は、いや、それに限らずあらゆる物ごとは、時間やプロセスの積み重ねで成り立っている。若くて優れた画家の、気持ちのいい抽象絵画を眺めながら、そんなあたり前のことを考える。
Text by Yoshio Suzuki
Art Works © Kohei Yamada
Kohei Yamada “Strikethrough”,
installation view at Taka Ishii Gallery, Jul 1 - 29, 2023.
Courtesy of Taka Ishii Gallery / Photo: Kenji Takahashi
「16世紀の終わりごろに、ミケランジェロ・メリン・ダ・カラヴァッジオという名のイタリアの芸術家が、劇的な感情を創るのに照明が利用できることを発見した。強く照射された人工照明あるいは窓から射しこむ一条の太陽光線は、人物にハイライトを当て、一次的な主題を強調するのに利用できることを発見した。」——リチャード・モリス『光の博物誌 神話・絵画・写真・現代物理学etc.』(白揚社)
山田康平 「Strikethrough」の展示を見るためにギャラリーに入ると、絵の大きさがまず圧倒してくる。厳密にいうと、カンヴァスの大きさそのものというより、それぞれの色が占める面の大きさに圧されるというか。心地よい圧迫感。
しかし、以前、彼は山など風景を描いていたこともあった。大学院生のころ、イメージにとらわれずにいろいろなものを描いていこうと考えた。コロナ禍のときは部屋の中で描くことしかできなかった。見えるものはスマホで見ている画像、隣の家の屋根。絵を描きたいという衝動が高まっていった。大学に通えるようになって、イメージでどうこうということではなくて、色や線のために身体性をどう発揮するか、手の動かし方をどうするのかなど、絵を作るためにはと考えていった。そうして2年間で100枚も描いたという。
明確なイメージから、色や線の構成の絵に。その説明のために彼はモンドリアンの例を挙げる。樹を描いていたモンドリアンはやがて段階的に抽象化していき、コンポジションにたどり着く。樹の絵から、線や面にモンドリアンが進んだように、山田も自分の絵画を進めていった。自分のやり方で絵画を「引き受け」に行ったという言い方を彼はする。
彼は「ルール」という言い方もするが、これは流儀とかに近いのだろうか。描くときに左上からレモンイエローを置いていく。ほとんどすべての絵ではその上に描かれ、なくなってしまうのだが、黄色が垣間見えるとき、それはカーテンの隙間から洩れる光のように見えてくる。そしてこれもまた彼が強調することだが、絵を「描く」という言い方には少し違和感があって、むしろ、「覆う」とか、「隠す」という方が近いというのだ。なるほど、カーテンから洩れる光の黄色の上に別の絵具をのせていくとなればそういうことか。
しかも絵具は重ねられるもので、どれくらい厚みを出すか、とはいっても彫刻的な意味での厚みではなくて、レイヤーとして何層も重ねるという意味の厚み。これは絵の強度と関係してくる話として、重要である。
特に気になった、層の下の方の光としての黄色のこと。遠近法はルネサンスで著しい発展を遂げるのだが、それにはレオナルド・ダ・ヴィンチの光の研究の影響が大きい。簡単にまとめると、「描かれたものが平らな面から浮き上がって見えるようにしたければ、明暗法の使い方を知らなければならない。それを修得したあとに初めて遠近法について思い患うべきである」と言っている。
そうやって、ルネサンスの巨匠たちは明暗法をまず再発見する。しかし、画家が光を独立した絵画的実態として扱うことができるようになるのはずっとあとのことで、19世紀の印象主義の登場まで待たなければならないが、それ以前の画家と光の格闘については、カラヴァッジオ、レンブラント、ターナーの絵を思い浮かべることができる。
さて、今、目の前にあるカンヴァス。絵具が覆いきれなかった、下のレイヤーの黄色が確かにあり、美術史の上の巨匠たちのことを考えてしまったというわけである。われわれは仕上がった絵の表面を眺めるわけだが、それは山田に言わせると、海を見ているつもりで、寄せては返す波の動きだけを見ているということなのだ。けれども海は深くて冷たいものである。絵を描くときは表面を感じるだけではなく、裏や深奥が存在することを忘れないようにしているのだそうだ。
そのようにものを見る感性も研ぎ澄まし、また当然、マテリアルに対しても感覚を立てていかなければならない。カンヴァスと紙とそれぞれに描かれたものがあるが、彼の場合、紙だからといって、ドローイングというわけではなく、どちらもペインティングだ。素材が変われば絵は変わる。面白いのだが、大きなカンヴァスとの格闘はたとえて言うとまるで、人を殴っているような感覚であり、紙に描いているときは、その許しを請うているような思いがあるという。
絵具についても、現実世界にない色を使うようにしている。植物にはない緑、海の色ではない青、隠蔽力に優れている赤。刷毛で描くうちに彩度が落ちて、現実世界に近づいていくけれど、近づきすぎてもいけないし、遠ざかりすぎてもいけない。さらに、そもそも絵具は工場で作られた工業製品であり、チューブから出てきたそれが現実ではないということ。それはデュシャンやリヒターが語るレディメイドの概念に近い。近代以降の作家は免れ得ないものだ。
ちなみに展覧会タイトルの「Strikethrough」というのは、取り消し線という意味だそうである。もう一つの意味は印刷用語で紙の裏までインクの油分がにじみ出る現象のこと。われわれは絵の表面しか見てない。しかし、それはいくつかの層の重なりの結果なのだ。そして、それは絵画だけでなく、確実に物ごとすべてに言えることだ。
感性と美術史の知識、身体性と技術力、マテリアル感覚と表現力や手法。それらを高度にバランスよく持ち合わせていることをこの画家は見せつけてくる。今後が大いに楽しみで、活動を追い続けたいと思わせる作家と出会えたのも喜びである。
SHARE