いろいろなことがあるけれど、やはり世界はすばらしい。工藤麻紀子の絵を前にしてきっと誰もがそう思うのではないか。描かれるのは、どこそこの、ではなくて、どこにでもありそうな風景。私かもしれないし、私ではないだれかの姿。そして、これはいつのことだったのだろうか、でもそんなことはたいしたことではない。ただその記憶の色彩の中に引き込まれていたいだけ。
TEXT BY Yoshio Suzuki
PHOTO BY Mie Morimoto
ART WORKS © Makiko Kudo, Courtesy of Tomio Koyama Gallery
どこの景色だろう。すごく特別な場所ではない気がする。近所にあったような場所。誰かがそこにいる。昔の自分だろうか。知ってる人のようでもあり、知らない人かもしれない。動物たちもなんだか自由にそこにいるようだ。見る側からするとこれは、いつの、どこのというのが無い絵なのだろうかとも思えるが、そうではなく、かなり具体的に特定できるものだそうだ。
工藤麻紀子のアトリエは神奈川県内の、とり立てて都会でもなく、それほど田舎でもないところにある。メゾネットタイプの部屋で、1階をアトリエに、2階を住居として使っている。建物の南側に光を採り入れるには十分な窓があり、それは駐車場に面していて、大きな絵の出し入れはそこからする。彼女はクルマが好きで、スポーツカーとステーションワゴンの2台をそこに停めている。それから自転車も。
「鎌倉の海にはたまに行くけれど、自転車で30分くらいかかるかな。クルマで行っても変わらないかも。道が混んでるから。それにクルマで行くと駐車料金もかかるし」
工藤の描く風景、背景は景勝地とか、絶景のような特別な場所はない。ありそうな河原とか、原っぱとかもあれば、スーパーの駐車場のガードレールのこちら側の植え込みとか。そういった場所に一人または複数の人物がいたりする。現実の風景を描いているのだろうか。
「これはここの河原に猫がいっぱいいて、近所の人が小屋をつくってあげたり、ご飯をあげたりしてたことがあって、その思い出というか……。実際に見た風景と、もしかしたら現実とは違っているかもしれない記憶の中のものが重なり合っていると思います。思い出すというか、連想するという感じというか、ちょっと膨らませてというか」
絵の中に必ず現れる人物というのはどういう位置付けだろう? 自画像とか、記憶にある人々とか。
「それは“気持ち”みたいな感じと思っています。感情とかちょっと目に見えない感じのものというか。なので自分ではどっちかっていうと風景画だと思っているんです。人物と風景の両方で感情を表しているとも言える」
やや意外な返答を聞き当惑しながら、ロシアイコンのことを思い出していた。イコンとはキリストや聖人、天使たちが描かれた絵である。しかし、宗教の物語を絵解きしたものではなくて、信仰を持つ者にとっては絵画というよりも、信仰を媒介し、信仰する世界への入口を示すのである。彼らはイコンに祈り、口づけをする。そういった聖なるものだ。
イコンに描いてある、たとえば、聖母マリアとイエス・キリストであっても、それは絵解きのためではなく、祈りのきっかけのためのものだとすれば、工藤も同様に絵解きをしているのではなく、ある感情を呼び覚ます装置を作っているのだろう。そこにいる人物は、人物であって人物ではなく“気持ち”みたいなものというなら、イコンが呼び起こす信仰の“気持ち”みたいなものかと連想したのだ。
「なんか景色とか見たときに、毎日通る道だけど、急に光って見えるみたいな、急に印象が強く見えるときがあって、なんかそういうのって、光の当たり具合とか、その日の天気とか、そういうのもあるかもしれないけど、自分の気持ちがそこにピッタリはまって、すごく強く見えるときがあるのかなって思って。そういう瞬間を表したい。受け止めたときの気持ちっていうか、見えるものと見えないものが風景と合わさって、結局、心象風景なのかな、みたいに自分では思っている。思春期とかそういうときのよくわからない気持ちとか、なんだか悲しいんだか、楽しいんだかわからないような、ああいう気持ちってその時しかなかったなって。だから特に肖像画ってわけでもないし、自画像ってわけでもないって自分では思っている。風景だと思っている」
それを聞いて、今度は中国や日本の昔の山水画の中に小さく描かれる人物のことも思い出した。人物を描くことで景色の雄大さが強調される。その場を客観視している。さらに鑑賞者はその人物の視点を借りて、目の前に深山幽谷を想像できる気がするのだ。風景画の一部として機能する人物。たいていはおそらく立派な人物とその人に随行しているらしき人のふたり。ただし、工藤の描く絵に登場するのは少女や身近な感じの人物ではあるが。
好きな画家、影響を受けた画家、勝手に師匠と決めてる画家は? という質問をしたら、マティスと宮崎駿という答えが返ってきた。それから、ボナール。ホックニーはどうなの? と聞くと、ホックニーは気になる存在、と。それはホックニーの多彩さに拠るところだという。確かにドローイング、水彩、油彩、写真、映像、舞台美術と多面的に活動してきた先達だからだろう。
日々、目にする景色、記憶、そして彼女の場合、夢というのも重要な要素になる。子どもが人の絵を描く状態がずっと続いているのかもしれないという。夢の中で行動する自分を見ているときもあれば、夢全体を俯瞰で見ているときもある。
「夢ができるのと、絵ができるのと似た構造かなと思っています。夢っていろんなごちゃごちゃしたことが頭の中で整理されていくような作業だとしたら、絵もそういうところがちょっとあると思ってて。現実で見たもの、夢で見たもの、感じたものがランダムに混ざってるのかなみたいなところがあって、つくりが似ているなと思います。ストーリーがあるようでないっていうか。しかもそれは動画で、最近はズーム機能がついてます。iPadを操作して、細部を確認するみたいにできるんです」
展覧会の準備をしていた時期の彼女の1日はこんな感じだ。まず、毎朝5時くらい、猫に起こされて起きる。それは寒い朝でも変わらない。食事をしたいときはして、ひと通り掃除をしたりして。そうすると、8時くらいにはもう絵を描き始めることができる。週に2回くらいはプールに行って泳ぐ。あるいは、絵を描いて、お昼を食べて、散歩して、また絵を描いて。遅くとも21時にはやめるという。そうして、0時前には眠っている。
「あまり遅くまでやってると、眠れなくなるから」
絵の中に現れるさまざまな風景や人物や動物。彼女が見たり、夢で見たり、記憶していたことのコラージュとして、それは描かれていく。絵になったそれはまた、見る人の記憶や感情を揺さぶり、まるで自分の記憶や夢で見た景色として共有される。そのとき絵は画家だけのものでなく、それを見た人のものにもなる。優れた画家の仕事というのはそういう連関で成り立っているのである。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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