ANOTHER ENERGY BY YURIE NAGASHIMA
これがフェミニズム展じゃないならなにがそうなのか——写真家 長島有里枝が体験した「アナザーエナジー展」@森美術館(〜2022/1/16)
50年以上にわたって世界で活躍する、70歳以上の女性アーティスト16名の作品に光をあてる「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力―世界の女性アーティスト16人」が、現在、森美術館で開催中だ。本展を女性の書き手が体験し、エッセイに綴る企画。第3回は写真家であり、フェミニズムについて考察し発言するエッセイストの長島有里枝さんが登場。今企画すべての撮影を担当し、本稿を書き下ろした長島さん。自らが受け取ったアナザーエナジーとは? ※ドレス¥264,000 イヤリング¥308,000 シューズ¥155,100(ボッテガ・ヴェネタ/六本木ヒルズ ウェストウォーク2F)
TEXT BY YURIE NAGASHIMA
PHOTO BY AYAKA SHIDA
STYLING BY SUMIRE HAYASAKA
HAIR & MAKE-UP BY TAEKO KUSABA
EDIT BY AKANE WATANUKI
“フェミニズム展”に必要な条件とは、どのようなものだろう。この1年弱、展覧会の企画をしているせいもあり、いつもそんなことを考えてきた。16人の女性アーティストが参加する「アナザーエナジー展」は、フェミニズム展なのだろうか。おそらく、多くの人は本展を、フェミニズムとなんらかの関わりがある展覧会だと考えていたはずだ。
アート界で長らく見過ごされてきた70歳以上の女性作家を紹介する展覧会。そう聞いていたわたし自身、展示を実際に鑑賞する前から、本展そのものがフェミニズム的なメッセージであることを期待していた。昔もいまも、女性作家が大きな展覧会に呼ばれる機会は男性作家のそれよりずっと少ない。アート界のジェンダー不均衡をなくすには当然、より多くの女性作家に展示の機会を与えるべきだろう。男性作家だけを選んだグループ展がいまだにあちこちで開催されるのだから、女性だけの展覧会をすることそのものがフェミニズム的だと言えるんじゃないか。そう考えてしまいそうになる。
しかし残念なことに、故意か恣意的かにかかわらず、これまでに女性展は女性作家をアートの本流から周縁化する役割も少なからず果たしてきた。展示を企画するキュレーターや、カタログに論考を寄せる批評家が、彼女たちの制作行為や作品を「女性性」の発露とみなすとき、周縁化は最悪のかたちで起こる。彼女たちの作品は、男性には決して思いつかない手法だとか、男性にはない感受性または視点だとかいう言い方で“絶賛”される。でも、価値基準が男性(社会)に構築されてきたアート界において、「女性」になぞらえられた価値は主流(=男性)の美とは逆のもの、あるいはそこから逸脱したものと解釈され、周縁化されてしまう。そのような目に遭うのは「女性」だけではないが、もともとアート界の隅に追いやられてきた女性たちが「生物学的な性」を根拠に「女性らしさ」を評価されるとき、そのような評価から抜け出すのは、恐ろしく難しい。
だから、本展カタログでキュレーターの片岡真実が「女性による展覧会だが、女性に関する展覧会ではない」と敢えて言葉にするのは、そうした背景を鑑みた結果なのだろう。論考内では、「アナザーエナジー展」をフェミニズム展だとみなすことが、あまりにも慎重に避けられているようにも見える。その理由を本展キュレーターの徳山拓一さんに尋ねると、フェミニズム展や女性展なら参加しないという作家もいたのは事実です、とおっしゃったあと、フェミニズムや女性性を入り口としながらも、個々の作家や作品にフォーカスできるようにするためです、という答えが返ってきた。本展自体が女性作家を周縁化することのないよう、考え抜かれていることが改めて伝わってくる回答だったが、前半部分のエピソードについては、残念だと思いつつ作家としては共感もできてしまい、なんとも複雑な気持ちになった。男性がグループ展に参加するとき、男性だけの展覧会なら参加しない、と参加を断るケースがあるだろうか。つまり、この話は女性作家が歴史上いかにしょっちゅう、不本意な形で「女性」という枠組みに括られ、そのなかで悔しい思いをしてきたか、ということの証左と言っていい。
3回シリーズであるこの企画で、小説家の山内マリコさんと松田青子さんを撮影した日も含め、わたしは本展を5回鑑賞した。1回目は親しい友人と一緒。
最後には二人とも、全身に力が漲るのを感じた。子育てが大変でも、なかなか日の目を見なくても、100歳を過ぎても制作を辞めない女性作家たちにとんでもなく励まされた。長引く自粛生活や、慣れない働き方のせいで疲れて果てていた我々は、アラフィフってまだまだひよっこなんだと思い直し、人生これからだ!と興奮気味に確認しあった。なんでこの展覧会、フェミニズム展だって明言されてないんだろうなぁ、と編集者の友人が不満そうにいう。これがフェミニズム展じゃないならなにがそうかというぐらい、鑑賞者としてエンパワーされたわたしはまた、フェミニズム展について考え込む。
フェミニズム展はなぜたいてい女性展なのか。この謎を解きたいと思いながら、残りの4回は鑑賞した。スザンヌ・レイシーやロビン・ホワイト、アンナ・ボギギアンやアルピタ・シンは、目に見えるかたちでフェミニズム的な問題やアプローチを作品に取り入れている。作家の個人的なエピソード——フィリダ・バーロウが子供を5人育てながら制作していたこと、宮本和子がNYで女性作家の連帯を重視したこと、ヌヌンWSが「感情」を表現していることなど——を知ると、フェミニズムとの関連性が見出せる場合もあった。センガ・ネングディとは、1995年にデンマークで開かれたフェミニズム展で一緒になったことがある。
彼女たちの生まれ育った環境にも注目してみた。ほとんどの人は裕福な家の娘だ。父親や近親男性、恋人が著名な学者や芸術家だったり、資産家やアートディーラーだったりし、コーカシアンが多く、西洋を拠点にする作家の作品はアジアの作家の作品より高値の傾向にある。彼女たちのコントロールできる範疇にあるバックグラウンドではないが、注目してみるとほぼ不可逆的な方向性のようなものが、女性展であっても浮かび上がってくるのは事実だ。
美術史家のグリゼリダ・ポロックは最近のインタビュー(「美術手帖」2021年8月号)で、「キュレーターたちは、『女性アーティストに興味がある』という以外の方法で自分たちがフェミニストであることを示すのをつねに恐れているので、そこにフェミニスト理論は存在しない」と述べている。女性展ではないフェミニズム展をどう作るか、そもそもそれは可能なのかという問いに対するチャレンジは、そろそろ真剣になされてもいい。それとは別に、わたしと友人は本展に勇気づけられ、老いへの道のりを明るく捉え直すことができた。願わくば、参加作家たちにとっても本展が励ましになり、さらなる未来への希望になっていて欲しい。「アナザーエナジー」は、彼女たちの作品が発するエナジー(the energy)を浴びたわたしたちが発するエナジー(another energy)なのだと解釈することもできるだろう。作家は勝手に制作をし、鑑賞者も勝手に励まされる。美術館というスペースで交感したエネルギーを使って、お互いまた自分の歩みを進める。それだってある種の連帯かもしれず、フェミニズム的だと言ってしまえる気がする。
德山拓一|Hirokazu Tokuyama
森美術館 アソシエイト・キュレーター/静岡県生まれ。2012年より京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで学芸員として勤め、2016年4月より森美術館に勤務。森美術館では「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」(2018年)、「サンシャワー: 東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」(2017年)を担当。「アジア回廊 現代美術展」(2017)キュレーター。平成27年度京都市芸術文化特別奨励者。
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