ANOTHER ENERGY BY AOKO MATSUDA
いろんな女がいることを感じに来る。それだけで意味があるし、楽しい——小説家 松田青子が体験した「アナザーエナジー展」@森美術館(〜2022/1/16)
50年以上にわたって世界で活躍する、70歳以上の女性アーティスト16名の作品に光をあてる「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力―世界の女性アーティスト16人」が、現在、森美術館で開催中だ。本展を人気女性小説家が体験し、エッセイに綴る企画。第2回は人間の生きづらさに着目し、『おばちゃんたちのいるところ』や『女が死ぬ』などの作品で海外からも注目を浴びる松田青子さんが登場。
※ 宮本和子 無題 1975年 糸、釘 サイズ可変 Courtesy: EXILE, Vienna; Take Ninagawa, Tokyo
TEXT BY Aoko Matsuda
PHOTO BY Yurie Nagashima
STYLING BY NATSUKO KANEKO
HAIR & MAKE-UP MOMIJI SAITO
EDIT BY AKANE WATANUKI
アメリカの作家、カレン・ラッセルの『レモン畑の吸血鬼』(松田青子訳/河出書房新社)という短編集がある。表題作はタイトル通り、イタリアのレモン畑が舞台なのだが、登場するのは、“中年の危機”を迎えた吸血鬼の夫婦であり、予想の斜め上をいく物語が展開される。想像力を自在に使いこなすラッセルの作品は、どれも彼女が何をやらかすかわからないどきどきがあるのだが、同時に、驚くほど地に足がついている。彼女は、現実に非現実的要素を足すことで、さらにくっきり現実の輪郭を縁どる才能を持っている。だから私は彼女の小説を読むと、新しいものに触れた驚きとともに、どこか懐かしい気持ちになる。すでに自分の中に彼女の物語があったことに気づかされるからだ。
さて、『レモン畑の吸血鬼』の中には、日本を舞台にした「お国のための糸繰り」という作品が存在する。ラッセルは日本という国をモチーフにする際に、明治時代の製糸工場に幽閉され、自由を奪われた女工たちの“変身”の物語を紡いだ。日本を題材にした欧米の作品の中には、偏見や軽視が感じられることも少なくないが、彼女の作品はそうではない。なぜなら、彼女は国を、時代を超え、同じ女性である女工たちと共鳴しながら、書いたのだ。
今回の展示で驚いたことに、コロナ禍で日本に渡ることができなかったなか、日本をテーマに製作をしたエジプト出身のアンナ・ボギギアンは、日本についてリサーチする過程でシルクロードを辿り、ラッセルと同じく、製糸工場の女工たちに心を寄せ、彼女たちにまつわる作品を制作した。何か、誰かをモチーフにするということは、一方的な視線を投影することであり、危険でもある。しかし、その一方的な視線を回避する方法はいくつもある。一つは、対象に対して真摯に臨むこと。その過程を作品から感じとれるものは信じていい。自分の目と気持ちを信じていい。
私はラッセルの作品を翻訳している時に、富岡製糸工場を訪れたことがある。世界遺産に選定されたそこは、企業としてのいい側面だけが語られ、その裏にあったはずの女性たちの声が聞こえてくる場所ではないように感じた。女性たちの生きた証は、彼女たちの声は、消されやすい。それはこの上なく男性的な歴史が証明している。ボギギアンは本来、あらゆる国を旅し、そこで自らが学び、感じた要素を、あらゆる技法と素材を駆使し、作品にする作家であるらしい。つまり、彼女は独自の、極めて個人的な世界地図を、人生をかけてつくり続けていることになる。ボギギアンの世界地図の中で、女工たちは新たな生を受け、新たな命を与えられた。作品に残す。それは、消させない、という断固たる宣言でもあるのだ。
『アナザーエナジー』では、それぞれ作風も取り組み方も違う、七十歳以上の女性アーティスト十六人の作品を見ることができる。
いろんな女がいるな。
展示室を回っていきながら、ある瞬間、私はぼんやりと思った。
いろんな女がいる。
そんなの当たり前のことだ。でも、現状日本では、その当たり前を感じることができる場は少ない。これはそういう場だ。むずかしく考える必要はない。いろんな女がいることを感じに来る。それだけで意味があるし、楽しい。
私が今回特に心惹かれたのは、他者とかかわりながら作品をつくることを選択したアーティストたちの作品だ。とはいえ、作品をつくる、という行為は、その時点で何か、誰かと向き合う行為ではあるので(自分自身でさえ、他者になる)、厳密にいうと、全員そうなのだが。
オセアニア地域に長く住み、その地域の「人間の価値は他人と親しくなり、共に働く能力によって」評価されるという価値観のもと、作品制作を続けたロビン・ホワイトは、芸術もまた共同作業であることを大切にする。ともに作品に取り組んだ相手を協力者ではなく連名にして、作品を発表している。ニュージランドの捕虜収容所で亡くなった日本人捕虜たちへの鎮魂の意を持つ《夏草》という静かな作品には、彼女の友人である飯村惠以子が、マスタートンの元捕虜で帰国後は牧師になった新屋徳治の著書から引用した聖書の言葉を日本語で書いているのだが、文字の連なりがまるで露草のようだ。ロビン・ホワイトの作品の前から私は動きたくなかった。
日本では、芸術一般が“政治的”であることを忌み嫌う人たちがいるが、それがどれだけ愚かで退屈なことか、スザンヌ・レイシーやベアトリス・ゴンザレスの作品を見ればわかるだろう。
レイシーの1979年の作品《インターナショナル・ディナー・パーティー》は、ネットがない時代に、世界で同時多発的にフェミニストの集まりを開催するというものだ。この試みは主催者の元に集まってきた電報や、後日届いた世界各地からの“報告書”によって、かたちになった。うれしいことに日本でも行われており、「みんなですき焼きを食べました」という、にこっと思わず微笑んでしまうような手紙が展示されている。アメリカでの集まりの一つにはルイーズ・ブルジョワも参加していた。ちなみに、森美術館がある六本木ヒルズの入り口付近にはブルジョワの《ママン》(母)という作品がどーんと設置されており、訪れる我々を見下ろしているわけだが、私はこの蜘蛛の化け物のようなどでかい彫刻作品を見るたびに、これが「母」かよ、と爽快な気分になる。
ベアトリス・ゴンザレスの作品は、コロンビアの政治状況へのたゆまぬ応答である。私たちが展示室で見ることができる彼女の作品は、息子を亡くし泣き崩れる母親たちの姿を描いたポスターなど、コロンビアでは本来街中に貼られているものもある。涙にくれる女性たちの姿は街の中に溶け込み、または不協和音を奏で、問いかけ続ける。ゴンザレスは時代の変化によって絵をマイナーチェンジ(途中から、スマートフォンが登場する)し、その作業を繰り返す。
《無名のオーラ》という作品は、スケート場とサッカー場を建設するために取り壊される予定だったボゴタ中央墓地の無数の墓穴の入り口に、遺体を運ぶ<運び人>のモチーフを一つ一つ手刷りした板を設置することで、その場所の本来の意味を思い出させ、最終的に取り壊しは無期限で中止されることになる。ゴンザレスとともにこのプロジェクトを進めたドリス・サルセドの作品を数年前にニューヨーク近代美術館で見たことがあるが、彼女の作品も、社会の犠牲になって死んでいった者たちの存在を決して忘れさせないという意志を強く感じさせるものだった。ゴンザレスはモチーフを果てなく反復する。そうすることで、なぜそうしなければならないのか、その理由が立ち上がってくる。倦むことなく繰り返すことで、彼女は問題が解決されていないことを告発し、抗議の声を上げ続けているのだ。
アンナ・ベラ・ガイゲルと宮本和子の作品にも反復の傾向がある。彼女たちもまた、人の営みの連続性を再構築することで、その中に隠れているものを、新たなかたちで私たちに提示してみせる。歩いて帰宅する一人の女性の後ろ姿をカメラで捉え続けただけのガイゲルの映像が語るものは何か。彼女がなぜそのアイデアを思いついたのか、一瞬で理解できる女性は多いだろう。
彼女たちの作品に私が心を惹かれるのは、彼女の作品でありながら、彼女だけの作品ではないからだ。冒頭に書いた、ラッセル作品について感じるのと同じ気持ちを、私は多くの女性アーティストの作品に対して抱く。彼女たちの作品には、時代や国や状況は違えど、同じ男性中心社会の中で生きてきたあまたの女性たちの声が内包されているからだ。だから、出会えた驚きと喜びとともに、すっと心に馴染むのだ。私の声もそこにあるから。きっとあなたの声もある。
最後に一つ、ずっと不思議だったことがある。女性アーティストの作品はなぜ「しなやか」と形容されがちなのだろう。図録や展覧会名などで「しなやか」と書かれている作品を実際に見ても、私はまったく「しなやか」とは感じない。時代々々の、その人それぞれの「ガチ」しか伝わってこない。彼女たちの「ガチ」を、「しなやか」とまるで美点のようにトーンダウンしてしまうことは、そろそろ止めてもいい頃ではないだろうか。
德山拓一|Hirokazu Tokuyama
森美術館 アソシエイト・キュレーター/静岡県生まれ。2012年より京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで学芸員として勤め、2016年4月より森美術館に勤務。森美術館では「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」(2018年)、「サンシャワー: 東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」(2017年)を担当。「アジア回廊 現代美術展」(2017)キュレーター。平成27年度京都市芸術文化特別奨励者。
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