人生の円熟期にある4人の元ピアニストの女性たち。彼らが自宅で同じ曲をそれぞれの個性で弾くだけの映像作品である。まずは音に耳が奪われ、演奏する画像に目が釘付けになる。そしてもう一つの、時間がゆったりと流れる映像を眺めることになる。
TEXT BY Yoshio Suzuki
PHOTO BY Keizo Kioku
隣りあった2つの画面。片方の画面にはピアノを弾く女性の姿あるいは手元が、もう片方には庭や室内が映し出されている。演奏する姿は音をともなう動的な映像、風景や室内は固定されたカメラによる静的な映像。その対比。年配の女性たち4人。全員が引退したピアニストである。場所は彼らの自宅。手入れされた庭や多くの蔵書をたたえるリヴィングルームが映される。
どの映像も演奏されるのはフレデリック・ショパンの「ワルツ第10番」。構成はシンプルだけれども、美しい旋律と憂いを含んだ楽曲。感傷的に過ぎるという理由で生前の発表が控えられたという。それを聞くと同じショパンの「ワルツ第9番 別れのワルツ」を思い起こさずにいられない。この「ワルツ第10番」はショパンが19歳のとき(1829年)に作曲したとされる曲。潔癖症のショパンは自身の死後、作品を破棄するように言い遺したが、没後の1852年に友人のユリアナ・フォンタナにより出版された。
軽やかなワルツでありながら、憂いのある旋律をもち、途中、転調し明るいメロディになるが再び短調に戻り、終える。
4人のピアニストがいると当然4通りの弾き方がある。ある者は軽やかに、ある者はややたどたどしく。つまり誰も誰かに似ていない。
この作品は昨年8月10日〜12月1日、神奈川県箱根のポーラ美術館で開催された「シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート」でも展示された。
この展覧会は同館所蔵の絵画、彫刻、東洋陶磁などを12組の現代美術作家の作品とともに紹介するものだった。《永遠に、そしてふたたび》はルノワール、モネという印象派画家、そしてその系譜を継ぐナビ派のボナールの描いた花をモティーフにした作品と組み合わされた。
同展のカタログには画家たちの筆触(ストローク、タッチ)とピアノ演奏のタッチをかけてこう書いている。
「印象派の画家、ルノワール、モネ、そして彼らの後継者ボナールは戸外での制作を重視し、自邸の庭での制作に人生の円熟期を費やした。印象派絵画は、画家たちが自然を見つめ、絵筆を動かした瞬間を可視化し、物質化する術であった。彼らの筆触——タッチは、彼らの身振りと感覚に直結し、タッチの集積は、彼らが遺した表現となる。」(同館学芸課長 今井敬子氏)
ピアノ演奏には彼女らの人生が反映されているなどという安易な結論を引き出すつもりは毛頭ない。しかし、人生には時間が流れていて、時間は偶然や、嗜好などの必然から何かしら積み重ねをつくる。それは棲家の有り様として現れるものである。あるいはここでなら、ピアノの技巧でもあるし、映し出された手の皺でもある。
教訓や寓意を引き出すためのものでも、もちろんない。ただわかるのは同じ人生は二つはないというあまりにも単純なことである。この世に生まれ、時間という乗物に乗り、やがて誰もがそこから降車するという淡々とした事実だけである。
横溝 静|Shizuka Yokomizo
1966年東京生まれ。近年の個展に「Shizuka Yokomizo」大和日英基金(ロンドン、2014年)、グループ展に「Japanese Photography from Postwar to Now」サンフランシスコ現代美術館(2016年)「永遠に、そしてふたたび」IZU PHOTO MUSEUM(静岡、2018年)「シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート」ポーラ美術館(神奈川、2019年)などがある。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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