塩田千春は、記憶、不安、夢など、かたちの無いものを表現した鮮烈なパフォーマンスやインスタレーションで知られるアーティスト。過去最大規模の個展が森美術館で開幕するにあたって、塩田自らが切望した、小説家・中村文則との初対談が実現。ジャンルを超え通じ合う二人が、互いの表現の本質を語り合います。
TEXT BY Shinichi Uchida
PHOTO BY Masahiro Tamura
中村 やっとお会いできました(笑) 塩田さんとのご縁は、僕の小説『私の消滅』(2016)の単行本の装丁に、作品写真を使わせていただいたのがはじまりでした。無数の黒い糸の中に白いドレスが浮かぶインスタレーションの写真でしたね。
塩田 私は、あの小説を、人としての形を残したまま内面を失うことを描いた作品として読みました。私のテーマのひとつ「不在のなかの存在」にぴったりと通じていたので、作品の写真を装丁に使っていただけてうれしかったです。
中村 塩田さんの作品は、作中に人がいないのに、むしろその不在によって人の存在を感じさせる点もとても印象的です。同時に、ドレスを「第二の皮膚」と捉えたり、ピアノを使った作品は個人的な「記憶」から出発していたり。以前はパフォーマンスアートも手がけていたそうで、作中にご自身を投影するような表現も多い。そのあたりに僕は文学に通じるものをとても強く感じています。
塩田 私の作品は、自分の中の「何か違うな」という気持ちから始まることが多いんです。世界の成り立ちを、科学や情報としては理解できても、なぜ自分がこの世界にいるのかなど、未だわからないことばかり。作品を通してそこに辿りつけたら、との思いが強いんです。
中村 よくわかります。生きる上での違和感ということでは、僕などは物心ついた頃からそうやって生きてきたので。でも程度の差こそあれ、誰だってそうだと思うんです。塩田さんの作品には、僕らが日常的に見ているものが、現実とは違うものとして出てきますよね。宙に浮いたり、無数の糸からなっていたり。そうした作品と向き合うとき、「この世界って本当はこう見えるのかもしれない」と真実めいた何かに触れる瞬間を感じます。
無数に編まれた「糸」の先にあるもの
中村 作品で糸を使うようになったきっかけはなんだったのですか?
塩田 絵画をやっていた頃は、線で空間を描くわけですが、私には二次元の線ですべてを表すのが難しかったんです。そのうち三次元の表現に取り組むようになり、糸を使って空間に黒い線を引き出したのが始まりです。中村さんの作品にもよく「黒い線」が象徴的に登場しますね。
中村 あれは、人間の関係性は家族や友人といった直接的なものだけでなく、無意識の領域でもつながっていると思ったことから来ています。ある人が受けた影響が別の人に連鎖したり、世界を別の角度から見たら無数の線で繋がっているのではないかと。僕の場合、それを悪や闇の面から描くことも多いのですが。
無数の線が張り巡らされた塩田さんの作品では、ひとつの線に目がいくと、さらに奥の線、さらにその奥の線へとどんどん引き込まれていく。三次元の奥行きというか、ひたすらその先へと誘惑されてゆく感じがありますね。
塩田 私は、人間の影のような部分を見つめよう、そこにこそ大事なものがあると思って作品を作っています。本当の自分はこうなんだけれど誰にも打ち明けられないとか、自分もいつか死ぬことへの不安とか。先ほどの奥へ奥へということで言えば、やがて線すら見えなくなった時、初めて何かが見えてきたり、「真実がわかるかも?」という気持ちが生まれる。人は上っ面にごまかされやすいけれど、本当はその奥にひっそりとある塊のような、ごろっとした何かを見たいんじゃないでしょうか。
中村 よく「この小説で何を表したかったのですか?」と聞かれるんです。たぶん簡潔な答えを期待されているのですが、僕は「いや、ですからそれをコレ(自著を手に取りながら)で表したのです」と答えるしかない。文学とは、そこに書かれた言葉の意味の全体で、その全体以上のものを表すものだと思っています。世界の成り立ちの真実に届くかどうか、追い求め続けること。僕は小説で「人間とは何か」「世界とは何か」と向き合いたいんですよね。
光と陰のなかに見る、世界と自身のすがた
塩田 作品をつくる過程では、自分の中から出発しながらも途中で自分から切り離して「他者」になることも必要ですよね。自分と作品との間に距離が生まれはじめて、他者と共有し得るものになる。
中村 つまり客観性ですね。人間の明るい部分に対する陰の部分というのは誰にでもあるし、そこに自覚的なのはむしろ良いことなのではないかと思います。光だけでなく闇も避けては通れないということは、塩田さんの作品にも強く感じます。だからこそ塩田さんの作品の前では周囲を忘れて内面に浸り、自分を見つめることができる。そこに、塩田作品の優しさを感じます。作品を前にして、誰かがはじかれる感じが一切しないんですね。
塩田 私は2017年に癌の告知を受けたのですが、そのとき「ああ、今日と明日って違うんだ」と初めて気づく感覚がありました。さらに、今回の個展のオファーを頂いたのは、癌の手術のまさに前日の夜のことでした。「生きていてよかった!」と思うほどうれしかったけれど、翌朝には手術室に入り、以来、どうやってこの身体と付き合っていけばいいのか戸惑い続けてきました。いまは抗がん剤治療も終えて復活しましたが、その間ずっと中村さんの小説を読んできたんです。死と寄り添い、自分の闇を見ながら生きるのはすごく辛い。でも中村さんの小説を読むことを通して、創作のエネルギーや生きる活力をもらいました。今となっては、自分の器も少し大きくなったように感じます。
中村 読者の方々からは、暗いけれど読み終わると元気になるという声もよくいただきますけれど……。確かに、何も抱えていない人はいないし、孤独や闇も芸術的なものに昇華できると僕は信じています。
「たましいってどこ?」という問い
中村 今回の個展のタイトルは「魂がふるえる」ですね。僕は人間って、意外と物理学ですべて説明できてしまうのではと思うこともあります。ただ同時に、素粒子の組み合わせで「意識」が生まれるのが不思議で仕方がない。では人が死んだら意識や魂はどうなるのか? そういったことを、他の小説で書いたこともあります。
塩田 たとえば、癌の手術や治療というのはものすごくシステマティックに決まっていきます。その段取りの中では、「私」などまったく存在しない。魂が触れたり、心が感じるものなどどこにもない。これには人間の不条理を感じざるを得ませんでした。病に限らず、自分の生や死については誰だってよくわからないものです。でも、だったらどうして私たちは心を持って生まれてきたのか。
心さえなければ、迷うことなくベルトコンベアーに乗って元気な自分を取り戻せるのか? そんな疑問に囚われたとき、人ってやっぱりこうして誰かと対話していくしかないんだと感じます。そこには進化も何もない。魂をふれあわせていくしかない。ただただ作品を通して問い続けること、関わり続けることしかありません。今回あえてタイトルに「魂」という言葉を使ってみたのはそんな理由からでした。それが展示とうまく共鳴してくれているとよいのですが。
中村 展覧会がオープンしたら、その「魂」の行方を辿りながら作品とじっくり対話してみたいです。
※ 初出=プリント版2019年7月号
※ この対談は「塩田千春展:魂がふるえる」の開幕直前に行われました。
中村文則『私の消滅』(文春文庫) このページをめくれば、あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない——不穏な文章から始まる手記が導く先は、狂気か救済か(7/10発売)/単行本と同じく塩田さんの作品写真が装丁に使われている。
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