絵画の最前線で高い評価を受けつつも、ある意味、型破りな挑戦を続けている小林正人の展覧会がシュウゴアーツで開催されている。キャンバスを張りながら描く。張ってからでは遅すぎる。絵の具を手に乗せ、描いていく。筆では遅すぎる。
TEXT BY Yoshio Suzuki
Photo: Courtesy of ShugoArts
「卒業制作は、一〇〇号の大きいキャンバスに木炭と白ペンキで天使を描いた。なんで天使なんだ?と教授に聞かれて『絵に描けるからです』と答えた。存在しないから描けるってものもある」
(小林正人『この星の絵の具[上]一橋大学の木の下で』p10)
これは19世紀フランス、写実主義の画家、ギュスターヴ・クールベが語ったエピソード、「私は天使を描けない。なぜなら見たことがないから」に明らかに対抗している。
正しい長方形ではない。平でもない。キャンバスがきちんと張られていない。しかも壁にかけずに床に置く。これが絵画なのか。小林正人はキャンバスを張りながら描く。手に絵の具をつけて描く。
かつて絵画は建築の一部であった。それが壁から引き剥がされ、持ち運び可能となってからしばらく時間が経つが、ここで美術史への挑戦ともとれる小林の仕事である。彼は、自由に描きたかっただけなんだ。そのために絵の作りも自由に変える必要があったと語っている。
「存在することで少しも失墜していないものだ。
奇蹟さ!
——僕はそういう存在の仕方をするキャンバスを目指した。
わかっていたのは白いキャンバスの前に立ってから描くのでは遅い。張った時にはそこに描かれてなければならないことだ」
(前掲『この星の絵の具[上]』p152)
小林は自身の作品を孤立した物体としてではなく、この星(=地球上)の時空間に存在する絵画であると位置づける。その結果、90年代以降、型破りの形態をもった作品を生み出した。さらに2000年代からは「ひどい絵」から美しい絵の境界線を拡張するような作品もある。
「空の絵が描きたくて、藝大を卒業した翌年、国立の旭通りにあるビルの四階に部屋を借りたんだ。それまで色のついた画を描いたことはなかった。色と呼べるような絵の具も持ってなかった。(略)
そうだ、俺は青い空の画を一枚描くためにあの部屋を借りたんだ」
(前掲『この星の絵の具[上]』p10)
頭の中には完成している空の画があって、それを手を使って頭の外に出すだけだったが、それがうまくいかない。そのギャップとの戦いがあり、彼独自の作品がある。
サンパウロビエンナーレ日本代表に選ばれた1996年にキュレーター、ヤン・フートに見出され、誘われベルギーのヘント(ゲント)に移る。以後10年ほどヘントを拠点に活動する。ヘントといえば、聖バーフ大聖堂の《神秘の子羊》(1432年)がすぐに思い浮かぶ。
《神秘の子羊》《ヘントの祭壇画》《神秘の子羊の礼拝》とも呼ばれるがフーベルト&ヤン・ファン・エイク兄弟による、板に油彩で描かれた初期フランドル派絵画を代表する作品。複数の絵画で構成される多翼祭壇画では最も有名なもの。そんなわけで、ヘントはある意味、絵画の聖地でもある。
これについて、小林に話を聞いた。
「ヘントは自分で選んで行ったわけではなく、ヤン・フートが来いって言ったことで縁ができたわけで。《神秘の子羊》がある聖バーフ大聖堂が街のへそになっているくらいだから、自分にとってはなにかすごく象徴的だとは思ったけれど。5世紀以上前に描かれたのに、油絵としてそれこそ昨日描いたみたいにきれいな絵で。どうやって描けばこんなものが描けるのかと思えたのは自分にとって良かったとは思う。だけど、自分は新しいことをやろうとしてそこに行ったわけで自分にとっての美術史が必要だと考えていた。
大聖堂の前に広場があった。大聖堂には入らずに広場に座って、自分が描いている絵のことをよく考えたりした。自分が描いている絵を頭の中で空にあてはめて、その空に描いているようなときがある。赤いスターリーナイトを描くなら、空を黒にしてとか、空を見ながらやってるときがある。空に描いている。そうして《神秘の子羊》を中に入って見るんじゃなくて想像する。中にあれがあるんだと思うと大聖堂が《神秘の子羊》の額みたいに見えてくるんだよね。
そういう時間がヘントではあったな」
今回の展覧会のタイトルは「画家とモデル」。もともとは描く者と描かれる者の関係ではある。小林はその自伝的著書『この星の絵の具[上]一橋大学の木の下で』の中で書いていることだが、彼には特別な経験があった。高校時代、愛する人から絵を描く道に誘導され、彼女をモデルとして描いた(実際には描けなかった)のが出発点だった。その後の二人をめぐる状況については同書に譲るが、小林にはモデルを前にして常に、描く者と描かれる者というあたりまえの関係では割り切れないところがあるのではないだろうかと思えてくる。
ベラスケスのヴィーナスのように後ろ向きに横たわっているモデルを描いた大作がある。しかし、背中から心臓を打ち抜かれているモデル。もう一つ、筆をくわえた馬の絵。これは画家の姿であろう。この別々の絵が持つ深意はわからないが、この星にこの画を存在させたいと小林が考え、ここに在る。
彼の作品にしばしば登場する絵筆を咥えた馬。これは画家のメタファーなのか。裸の女性と関連しているのだろうか。いくつもの謎を残したまま、「画家とモデル」は存在する。ともかく、本人は幸福な画家なのである。
「ああ、この近さだ。
俺はこの瞬間、確かに画とひとつになっていた。
俺は今幸せだ」
(前掲『この星の絵の具[上]』p143)
これはパウル・クレーがチュニジア旅行中の1914年4月16日に書いた日記、「色彩は私を永遠に捉えた、私にはそれがわかる。この至福の時が意味するのは、私と色彩はひとつだということ。私は、画家だということ」を連想させる。
展覧会というものをどう作るか。大きく2つに分かれる。今まで見せたことのないことをやろうとする作家と、毎回が作家人生の総括になっている者。小林は後者なのだろう。彼の画業や人生の総括になっていると思える。とても真面目な、言ってみれば凄絶な。彼は総括しながら少しずつゆっくり前に進んでいく。長い美術史の中に記される自分の部分をていねいに磨き上げているかのようである。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌ブルータス元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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