戦後75年を迎える中での「戦争の記憶」。そして、テクノロジーと人間の関係。一見関係ないかと思われるふたつの倫理的課題は、この夏話題を呼んでいる一冊の写真集『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』において、密接に結びついている。共著者である庭田杏珠さん(東京大学学生)と、渡邉英徳さん(同大大学院情報学環教授)のふたりに、じっくりと話を聞いた。
TEXT BY Fumihisa Miyata
——庭田さんが広島の高校生だった2017年からおふたりは、AI(人工知能)と人間が力を合わせて写真をカラー化し、対話の場を生み出す「記憶の解凍」プロジェクトを進めてきました。庭田さんは常々、カラー化した写真を通して、戦争を体験していない世代の人にも「自分ごと」として捉えてほしいと発言していますが、今年7月に本書が刊行されて以降、反応はいかがですか。
庭田 私はこの春に広島から上京して大学に入学しているのですが、同級生の友人が先日、写真集を読んで感想をくれたんです。その子は東京出身で、私とは戦争の記憶への距離も異なるのですが、「すごく『自分ごと』として想像できた」といってくれたんですね。「戦前の暮らしを、今の自分と重ねて考えることができた」と。
——現在の日々へも通じるような「暮らし」を捉えた写真が多くカラー化され、収録されていますね。
庭田 あと、実は私はこれまで「記憶の解凍」プロジェクトで忙しくしていたので、自分自身の祖父母に戦争の記憶を聞く時間があまりなかったんです。でも今回、ふたりにこの写真集をプレゼントしたら、祖父が1945年8月6日、広島に原爆が投下されて発生したきのこ雲の写真を見ながら、当日の記憶を語ってくれたんです。祖父は当時5歳で、B-29が飛んでくるのを見た、と。
——この夏、初めて庭田さんに語ってくれた、と。
庭田 広島市内から少し離れた海田町というところに住んでいたので被爆者ではないのですが、ピカッと光って、少し間が空いてからドーンというすごい音がして、そこできのこ雲を見た。やがて怪我をした人が市内から運ばれてくるようになり、親戚の家には大やけどを負った人が寝ていたそうなのですが、「この人はどうしたの?」と両親に聞けるような雰囲気ではなかったらしいんです。友人の感想も、祖父が記憶を話してくれたことも、とても貴重だった。こんなふうにこの写真集を見た当事者の人が、今度は発信者になり、その想いを受け取った人がまた発信してもらえたら……と思っています。
——情報デザインとデジタルアーカイブによる記憶の継承を研究し、「記憶の解凍」プロジェクト発足の前年、2016年から白黒写真をカラー化してきた渡邉さんはいかがですか。今回の写真集にはどんな反応があるのでしょうか。
渡邉 ネット上の感想を拝見していて、我が意を得たり……というより、我々の意図が伝わったと思いました。皆さんそれぞれに違う切り口から、この本の世界に入ってきてくださっていると実感できたからです。もちろん広島、長崎、沖縄といった典型的な場所の写真も紹介しています。それに加えて、できるだけ日本全国の都市で起きたことを、しかもなるべく市民の目線で捉えたものを選び、戦前から戦後までタイムラインに沿って展開させています。実際に「自分の街が空襲を受けていたことを初めて知った」という声もありました。多様な視点をトリガーにしながら、戦争について深く知る機会を提供できたのかな、と思っています。
——このプロジェクトは非当事者の、いわば「持たざる記憶の解凍」も刺激するところがありますね。手法としては、AIと人間の力のコラボレーションを標榜されています。「下色付け」としてAI技術でモノクロ写真を「自動色付け」し、その上で戦争体験者との対話や、SNSでのコメント、資料などをもとに手作業で補正していく。白黒写真をAIがカラー化した段階では、どれほどの品質なのでしょうか。
渡邉 写真によって千差万別です。AIは人の肌や、空、海、あるいは草木の緑など、学習する写真のデータにおいて同じように色が写っているものは得意で、だいたいは自然に色がつきます。しかし一方で、さまざまな色を持ちうる人工物は苦手です。たとえば今、僕のZoomの背景に設定している沖縄の家々の場合は、赤瓦の色をAIは判別できず、当初はグレーに着色してきました。こうした「下色付け」の状態から人の手で、過去に備えていたであろう色彩を取り戻していくというのが、「記憶の解凍」のプロセスなんです。
——文化的な意味合いを含んだ人工の構築物の色にかんしては、AIは判定が難しい、と。
渡邉 コンテクスト(文脈)に依存しているものは難しいです。AIは写真データのみで学習しているので、「歴史」のことは知らないんです。たとえば庭田さんのZoomの背景にある広島の写真が白黒だったとして、原爆ドームや遠くに見えるマンション・ビル群にかんしては、AIはまったく違う色をつけてくると思います。一方で、手前に見える木々の緑や川、あるいは空は一見、自然な色になるはずです。
——なるほど。庭田さんは、戦争当事者の方の家族写真に写っていた花にかんして、印象的な話を本書で書かれていますね。当初はAIが黄色く着色、庭田さんはシロツメクサだと判断して黄色味を弱めたら、ご本人がタンポポだとおっしゃられたことがある、と
庭田 現在の広島平和記念公園にあたる「中島地区」に住んでいらした、高橋久さんの写真ですね。一緒に写っているご家族は、久さんと戦後育てられた祖母を除いて原爆投下で亡くなっています。写真に写る花の形を植物図鑑で調べて白っぽく仕上げて、ご本人と娘さんにお見せしながら対話の機会を設けたのですが、久さんは認知症を患っておられまして。以前に娘さんの久美子さんを通して家族写真をお見せしたときは、ご自身が写っていることも認識しているかわからない状態でした。
——しかし、2018年夏に写真を見たときは違った。
庭田 久さんと久美子さん、私の3人で見たときの久さんは、私が質問をする前から「これはたんぽぽ畑だったんだ」とおっしゃったんです。どんどんと戦前の記憶が蘇るままに語られたのに、本当に驚きました。そのお話をもとに、私が改めて一つひとつの花を黄色く手作業で着彩していったんです。そうした思い出がたくさん詰まった中島地区の人々の平和な日常や暮らしが、原爆によって奪われてしまったということも、改めて想像できました。
——カラー化された写真の持つ力、まさに記憶が解凍される瞬間が、そこに立ち現れていたんですね。
庭田 娘さんも驚かれていて、「父がこんなふうに戦前の暮らしを、生き生きと話してくれたことはこれまでなかったから、本当に嬉しい」と話してくださいました。その後も中島地区の慰霊祭で久さんとお会いする機会はあったのですが、もうお話を伺える状態ではいらっしゃいません。戦後75年、戦争体験者の方に残された時間が限られてくる中で、「今」という時間が重要なんだと感じています。
——暮らしの記憶ということでいえば、本書をめくっていると、太平洋戦争が始まった1941年前後で写真の中身が大きく変わっていますね。開戦後は総力戦体制の中、銃後の暮らしが収められた写真は目立たなくなっていきます。
庭田 1941年以前のものとして、同じく平和記念公園内の無得(むとく)幼稚園の様子が写ったものを掲載しています。子どもたちがお弁当を食べていたり、お遊戯会で綱引きをしていたりするんですが、写真を提供していただいた今中圭介さんによると、これは今中さんのお姉さんの時代の写真だそうで、ご自身が幼稚園にいた頃には、こんな雰囲気ではなくなっていったそうです。どんどんと、戦争というものが子どもたちを含めた一般市民の生活に侵食していったのが、写真からもわかるんですね。
渡邉 1939年、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)を背後に、元安川沿いの砂浜で遊んでいる自分たちの写真を提供してくれた片山昇さんは、写真を見ながら「さびしそうな顔をしとるね」とおっしゃいました。撮影されたのは、戦争に向かって世の中が暗くなっていく時期です。私たちがカラー化する際に、そうした意図は込めていませんが、片山さんは写真をご覧になられて、自発的にそうおっしゃったんです。
——渡邉さんは、社会にストックされた写真から、対話というフローを生み出すのだと以前に発言されています。先ほど庭田さんが言及されたような、現在においてカラー化写真が持つ、語りを誘発するような力についてどうお考えですか。
渡邉 2010年代は「ビジュアライゼーションの時代」だった、というのが僕の見立てです。2016年に僕は写真のカラー化を始め、2017年からは庭田さんと「記憶の解凍」プロジェクトに取り組んできました。そして今は、「ストーリーテリングの時代」になっていると考えています。AIによるカラー化と、そこから生まれる対話——いわば一枚一枚に「ストーリー」が込められた写真が、僕が投稿するツイッターや今回のような本を通じて、皆さんの心に届いている、ということですね。一方で、そのために庭田さんや僕がどこまで「もとの写真」に手を入れるのかというのは、非常に難しい問題なんです。
——といいますと?
渡邉 あくまでもとの白黒写真を基調にしながら、慎重に着彩する——どこまで手を入れるのかということは、庭田さんと僕がいつも議論していることです。そして色の問題だけではなく、時間が流れる中で、写真自体に傷がついていることがあります。僕たちとしては、傷も込みでひとつの資料なのではないか、と考えているんです。
庭田 1938年、濵井德三さんと兄の玉三さんが広島県産業奨励館を背後にして撮られた写真は、上のほうにシミのようなものがあります。これは一度、きれいに消したんですけれども、撮影されてから長い時間が経ってこういう形になったのだと思い直して、あまり傷を消さず、産業奨励館にきちんと目がいくぐらいに留めたんですね。濵井さんが手元で大切に保管されてきたものですから……。
——積み重ねられてきた時間の傷もまた、記憶として残していく、と。
庭田 表紙にも使っている商店街の写真は、諏訪了我さんという既に亡くなられた方が提供してくださったもので、これも中央やや右の旗のまわりに、小さな傷があるんです。でもこれも、諏訪さんが写真を大切に残してきた時間の中でついた傷ですから、残そうと決めました。
渡邉 「受け継いでいく」ことが我々の使命です。だから毎回のこうした判断はとても難しい。目下の課題のひとつは、映画『この世界の片隅に』の片渕須直監督からコメントをいただいたきのこ雲の写真です。実は先ほど庭田さんが触れた広島のきのこ雲の写真は、以前白く着色したものをツイッターに投稿した際、片渕監督からいただいたコメントをもとに、オレンジ色に色補正したものです。そのバージョンを本書に収録しています。
——たしかに、オレンジ色のきのこ雲になっています。
渡邉 そしてつい先日の8月5日、ふたたび片渕監督からご指摘がありました。この写真は「赤みがかった最初の雲を、地上から立ち上った白い雲が覆い隠している」、つまりはふたつの雲が重なっている状態だ、とのことでした。それを受けて今年の8月6日、さらに色補正した新しいバージョンをツイートしました。
——ふたつの色の雲が重なっていますね。
渡邉 これもまた大きな反響をいただきつつ、片渕監督との対話はその後も続いています。片渕監督としては、まだ色調には検討が必要で、特に「地表から吹き上げられた粉塵・破片」、いわば街の一部が、他の写真では黒っぽく写っているとおっしゃっています。実際に僕のほうで写真を黒く焼きこんでみると、たしかにそう見えるんですね。ただ、これは難しいところです。先ほどお話したように、庭田さんも僕も、元の白黒写真をなるべくいじらずに着彩する、というルールを課しています。この写真は元が白く飛んでしまっている分、片渕監督がイメージされているような、実態に寄った写真に近づけていいのかどうか、という議論がありえます。
——なるほど。倫理的にそこまで手を加えていいのかどうか、難しいところなんですね。
渡邉 そうなんです。写真の修復家であればそこまで作業を進めるかもしれません。でも、庭田さんと僕がそこまで踏み込んでいいのかということについては、議論が必要だと思います。
——課題点について、重ねて伺いたいのですが、「戦争の記憶」を研究するある著名な論者の方は、「継承」を謳うことがむしろ「断絶」を生むのでは、と発言されています。このインタビューに引き付けていえば、「継承」しようとするあまり戦争当事者に対する批評性を失ったり、あるいは非当事者がカラー化された写真を見て「わかったつもり」になってしまったり……いわば歴史の「わからなさ」や複雑さが捨象されてしまう可能性も、ひょっとしたらあるかもしれません。どうお考えになりますか。
渡邉 難しい質問ですね。僕から答えてもいいのですが、ここは大学で「平和教育の教育空間」について研究を進めている、庭田さんの立場からまず答えてもらったほうがいいかもしれません。庭田さん、どうですか?
庭田 これまで高校から3年間、展覧会を行ったり、映像作品を制作したり、国際会議で海外の方へ向けて発表したり、渡邉先生と共同で「記憶の解凍」ARアプリを開発したり、あるいはこうしたメディアでの発言であったり……いろんなことを体験する中で、それら全体が、戦争や平和について「自分ごと」として想像してもらうための「平和教育の教育空間」だと考えるようになりました。そしてテクノロジーやアートを通じて、そうした空間やテーマに興味関心を抱き、想像し、さらにはそれぞれが感じた想いを発信してもらうことが可能になるのではないか、とも考えているんです。
——なるほど。テクノロジーなどを用いることで、いわば記憶の回路が複数化されていくだろう、と。
庭田 はい。また国際会議での発表を通じて実感したのは、市民社会に加えて、専門家への発信も重要だということです。そして、それまで営まれていた生活や暮らしが戦争によって分断されてしまうというのは、私が生まれ育った広島や、あるいは日本だけではなくて、海外にも同じような状況がある、ということです。そうした共通部分を見出だし、想像・共感してもらえるという点において、「AIと人による写真のカラー化」を通じての発信には意義があるのでは、とも感じています。
——お話を伺っていると、このプロジェクトには「戦争の記憶をめぐる倫理」と、「テクノロジーと人の関係における倫理」、ふたつのテーマが潜んでいるように思えます。
渡邉 おそらく、「パブリック・ヒストリー」の概念を当てはめて考えると、いろんなことが見えてくるように思います。
——「パブリック・ヒストリー」ですか。
渡邉 これまでの歴史はおおむね、歴史の専門家によって、さまざまなエビデンスをもとに、さらには過去に綴られた歴史を批判しながら書かれてきました。一方で「パブリック・ヒストリー」は、多様な人々、多様な場によって紡がれていく「開かれた」歴史のことです。これまで個人史は大文字の歴史の中で抑圧されてきたと捉えることもできます。「パブリック・ヒストリー」においては、そうした小さな声を重ねた歴史が正統な「歴史」とフラットに併記される。「記憶の解凍」プロジェクトは「パブリック・ヒストリー」的なものではないでしょうか。
——カラー化された写真が、さまざまな個人の語りと共にアーカイブされていくわけですね。
渡邉 庭田さんと僕は、歴史を綴るヒストリアンではなく、実践的に作品をつくり、表現していくクリエイターです。そうした「表現」によって、社会全体に記憶の継承のモチベーションを形成していくことがミッションです。そして、AIというテクノロジーそのものは歴史を継承することはありません。継承するのは「ひと」なんです。私たちの活動によって、そうした人の営みを、改めて照らしなおすことができるのではないか——僕は、そう考えています。
● 映像作品「記憶の解凍」
カラー化写真で時を刻み、息づきはじめるヒロシマ
庭田杏珠 × 山浦徹也(2018年9月)
● 「記憶の解凍」
カラー化写真で時を刻み、息づきはじめるヒロシマ
〈広島テレビ新社屋完成記念展示会〉
2018年11月23日〜12月2日
● 「記憶の解凍」ARアプリ
庭田杏珠 × 渡邉英徳(2019年2月)
● 「記憶の解凍」プロジェクト
〈広島平和記念公園レストハウス常設展示〉
庭田杏珠 × 渡邉英徳(2020年7月1日〜)
庭田杏珠 × 渡邉英徳
『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』
戦前から戦後の貴重な白黒写真355枚を最新のAI技術と、当事者への取材や資料をもとに人の手で彩色。カラー化により当時の暮らしがふたたび息づく。光文社新書刊。
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