大企業の事業改革や新規事業創出をミッションとして虎ノ門ヒルズにて始動したインキュベーションセンター「ARCH(アーチ)」。企画運営は虎ノ門ヒルズエリアにおいてグローバルビジネスセンターの形成を目指す森ビルが行い、米国シリコンバレーを本拠地とするWiLがベンチャーキャピタルの知見をもって参画している。WiLの三吉香留菜氏が、東日本電信電話(NTT東日本)の尾形哲平氏を迎え、同社の取り組みについて伺います。
TEXT BY Kazuko Takahashi
PHOTO BY Ayako Mogi
地元山形ではSEとして新規開拓にチャレンジ
三吉 尾形さんは東日本電信電話(以下、NTT東日本)の新規事業であるスリープテック事業に立ち上げから携わっておられます。ご趣味は旅だそうですね。
尾形 えっ、どうしてご存じなんですか?
三吉 過去のご発言を何かで読みました(笑)
尾形 そうですか(笑)。学生時代は休みに入るとバックパッカーをしていました。アメリカの北部を1カ月ほど1人で旅したのがきっかけです。
三吉 私も大学時代にバックパッカーをしていた時期があって、1人でスロベニアなどを歩きました。
尾形 頼る人がいない旅というのは刺激になりますよね。私はそれほど英語を話せないのですが、片言でもなんとかなるものです。単独で行ける海外ボランティアを見つけてアフリカのガーナに滞在したこともありました。同地では保育園で子どもたちのケアをしたり、学校を建設したり。
三吉 学校を建設?
尾形 コンクリートをかきまぜて、ブロックを積み上げてという……
三吉 なるほど、物理的に。
尾形 ええ(笑)。卒業旅行もやはり1人でヨーロッパ各地を巡りました。
三吉 大学ではどんな研究を?
尾形 情報セキュリティの研究をしていました。
三吉 新卒でNTT東日本に入社されて、最初の勤務地はご出身の山形だったとか。
尾形 はい。SEとして山形の支店に配属されました。東日本大震災の翌年で、この年の新入社員は出身地の近くに配属されるケースが多かったです。
三吉 SEとしてどのような業務を?
尾形 ルーターの設定やWi-Fi導入などのインフラ系を担当し、主に教育系機関のネットワーク構築をしていました。
三吉 複雑で難しそうなお仕事です。
尾形 正直、自分の得意分野ではなかったです。ただ、SEといっても営業寄りの仕事が多く、この時にお客様とお話する楽しさを覚えました。支店では既存のお客様はベテラン社員が担当し、若手は新規開拓などのチャレンジ業務を任されるんです。
三吉 新規開拓のお客様というと、新しい会社や、新しい支店などですか?
尾形 それよりも、日頃からおつきあいのあるお客様に対して「新しいシステムに切り替えませんか?」「業務改善にチャレンジしませんか?」と提案することが多かったです。
三吉 ということは、既存のシステムを把握している必要がありますし、同時に創意工夫が求められます。若いうちからそうした業務を任されていたのですね。山形の支店には何年くらい?
尾形 3年です。その後、東京本社に異動になりました。折しもNTT東日本が電話や「フレッツ光」以外の収益源の拡大に向けて動いていた変革期でした。通信環境が多様化する中で、お客様にパンフレットをお渡しすれば契約につながる営業手法は早晩立ちゆかなくなる、お客様の事情に合わせて提案する課題解決型の営業にシフトし、そこにSEの人間が入ってサポートしていく必要があるだろうと。
三吉 つまり、従来型のBtoCの営業手法を、BtoBの営業手法へと変えようとしている時期に本社に戻られたわけですね。
尾形 その通りです。
三吉 営業手法の大転換ですから、それもまたチャレンジングな業務ですね。
尾形 そうですね。私はSEとして営業変革プロジェクトに2年ほど携わりました。そしてプロジェクトが組織化されたタイミングでBtoBtoXのチームに異動となりました。BtoBtoXというのは、連携企業を介して個人や法人のお客様に向けて付加価値の高いサービスを提供するビジネスモデルのことで、自分はクラウドサービスの技術的な営業を担当しました。
三吉 仕事の内容としては、BtoBに近いのでしょうか?
尾形 技術的な提案をする点では近い一方で、お客様層が全く違いました。それまでは情報システム系のお客様が多かったのですが、BtoBtoXでは、アプリケーションベンダーなど開発系のお客様でした。スタートアップのCEOやCOOから「こういう世界を作るために、こういうアプリを提供したい。そのためにこういう技術が欲しい」といったご相談を受けるわけです。
三吉 ワクワクする仕事ですね。
尾形 やりがいがあって面白い仕事でした。当時は数人の社員しかいなかったスタートアップが今は大きな会社に成長している例もあります。そしてこの時期に、本業の20%稼働を新規事業に使えるイントレプレナープログラムが始まり、手を挙げました。
アイデアの発端は、プレミアムフライデーの悩み
三吉 なぜイントレプレナープログラムに応募しようと?
尾形 最初はアイデア出しの研修に参加するノリでした。
三吉 そういう軽さって大事ですよね。
尾形 いくつかチームを作ってメンターからジョブ理論などを学びながらアイデア出しを進めていったのですが、当時ちょうどプレミアムフライデーがありまして、私たちのチームはそこに課題を見つけました。
三吉 15時に仕事を切り上げないといけないプレミアムフライデーは、一時期話題になりましたね。
尾形 ええ。われわれ中堅社員は上からも下からも多くのタスクを任されていましたが、残業ができないわけです。限られた時間でタスクを処理するために何ができるか。脳のパフォーマンスをより高められないだろうか。そんな発想からいろいろと調べる中で着目したのが「仮眠をとると集中力が高まる」という研究データでした。
三吉 自分が抱える課題をテーマにしたのですね。そして、仕事の効率化ではなく、自分を強める方向に可能性を見いだしたと。「仮眠」から「睡眠」にテーマを広げたのは、何かきっかけがあったのですか?
尾形 まず、「仮眠をとると集中力が高まる」という仮説のもと、仮眠状態から良きタイミングで目覚めを促すプロダクトを作ろうと考え、知見を求めて睡眠を研究する大学教授やベンチャーにメールを送りまくりました。ほとんど返事がなかったのですが(苦笑)、スタンフォード大学で30年以上睡眠を研究している西野精治教授が創業したブレインスリープから「スリープテックのICTパートナーを探していた。仮眠も面白いが、睡眠をスコアリングするサービスを一緒に作りませんか?」という返事がきて、それがきっかけとなりました。
三吉 ICTは NTT東日本の得意分野ですから、お互いにベストな相手を見つけたわけですね。
尾形 はい。当時のブレインスリープ代表の道端孝助さんも面白がってくれまして。また、会社がアイデア段階のチームに自分たちが使える予算をつけてくれていたのも大きかった。とにかくやってみろと。これはすごいことだぞと、チームのモチベーションも高まりました。
三吉 信頼して任せてくれたのですね。そして実際に睡眠をスコアリングするサービスをローンチされました。
尾形 「睡眠偏差値for Biz」というサービスを作りました。1万人の睡眠データベースを元に、ウエブアンケート形式によって従業員の「睡眠」と「プレゼンティーズム(病休するほどではないが生産性が低下している状態)」をスコア化することで企業の課題を可視化し、改善までお手伝いするサービスです。
三吉 主にどのような企業を想定したサービスなのでしょう。
尾形 「ホワイト500」という健康経営優良法人認定を受けている企業など、健康経営やウェルビーイングを重視している企業を中心にアプローチしていきました。
三吉 保養施設を整えたり、食事や運動のケアを充実させたりという取り組みはよくありますが、従業員の睡眠のケアをしている会社はまだ少ないのではないでしょうか。でも日中の活動に睡眠は確かに影響していて、私自身実感していることです。実は、私の座右の銘は「9時間睡眠」なんです。毎日できれば9時間、少なくとも8時間は睡眠を取るように心がけていまして(笑)
尾形 それはすごいですね! すばらしい(笑)
三吉 でも、いまだに「睡眠を削って頑張る人はえらい!」という考え方が根強い気がしていて。「よく眠った方が良い」という価値観に変わっていけば、日本社会全体がヘルシーになっていくと思うのですけど……
尾形 いま私たちが展開しているコミュニティ「ZAKONE」の活動目的は、まさに三吉さんがおっしゃったことと重なります。ZAKONEは日本の睡眠業界を盛り上げるために生まれたコミュニティで、睡眠に携わる企業同士がつながる機会を提供したり、共創プロジェクトを生み出すイベントやプログラムを開催したり、市場トレンドやプロジェクトに関わる記事を発信するなど啓蒙活動も行っています。ZAKONEの公式ホームページのトップ画面には、「SLEEP FOR PEACE」というコンセプトとともに、こんな文章を載せています。少し長いですが、紹介させてください。
三吉 ぜひ。
尾形 「もしも、世界中のひとがぐっすりと眠れたら、きげんのいいひとが増える。はだの調子がいいひとが増える。しごとを効率的にできる人が増える。 もしも、世界中のひとがぐっすりと眠れたら、夫婦げんかが減る。しごとで気をやむひとが減る。昨日のいやなことを引きずるひとが減る。きっと、今よりすこし戦争が減る。ただ寝るだけ。でもそれが、いちばん難しい。私たちは、個人、企業、そして国とともに、日本から睡眠課題に取り組みます。そう、世界を少し平和にするために。 世界平和のためにみんなで寝よう」
三吉 なるほど。
尾形 ZAKONEでは、このような価値観を広めるための啓発活動にも力を入れています。
ARCHでスリープテックの可能性を確信
三吉 そもそもコミュニティを作ろうという発想に至った理由についてもお伺いしたいです。
尾形 プレーヤーを増やし、睡眠市場自体を盛り上げていくためです。当社はARCHに2020年の開業当初から入居していますが、ここで私たちの活動についてお話した時に、様々な業種の企業から「スリープテックに興味を持っている。新しいビジネスを共創したい」という反応が返ってきました。こうした反応を受けて、睡眠事業への新規参入をサポートするコンサルティング事業も始めました。「自社の製品やサービスが本当に睡眠改善に役立つの?」という疑問に対してエビデンスの検証を行い、睡眠に関するサービスや製品の開発に向けて共創する事業です。コミュニティやこうした取り組みを通じて、スリープテックの可能性を広げていきたいと思っています。
三吉 ARCHの使い勝手はいかがですか?
尾形 おかげさまでARCHの機能を使い倒しています。例えば、毎週水曜日に会員同士の交流機会として開催されるランチ会で睡眠事業についてお話させてもらったり、会員さんに「睡眠偏差値for Biz」のモニターになっていただいて、結果を発表させていただいたり。
三吉 ARCHの会員の皆さんはよく眠れていましたか?
尾形 いいえ(笑)。特に営業担当の方のスコアは低かったですね。
三吉 ARCHのオープンスペースにしばしばZAKONEのイベント情報の掲示を出していらっしゃいますよね。
尾形 月に1度、「ZAKONE NIGHT」というミートアップイベントを行っているんです。コミュニティは常に動いていないと「入っても意味がない」と思われてしまいます。そこで、睡眠研究のトレンドを紹介したり、スリープテックのキーマンのトークセッションを開催したり、睡眠事業に取り組む企業のピッチを企画したりと、コミュニティの参加者同士の交流を図っています。そして最後は飲み会へ突入という……(笑)
三吉 そういうウェットな関係構築も大切ですよね(笑)
尾形 睡眠市場は着実に拡大しています。Webの進化についてWeb1.0、Web2.0、Web3.0などと表現しますが、睡眠市場も今やそうした分類がなされています。1.0は睡眠の可視化で、つまり睡眠履歴やセンシングデータを明らかにすること。2.0は睡眠の可視化と改善で、「寝る直前にスマホを見ない」「ヨガをする」「ヤクルトを飲む」といったことです。ただ、こうしたいわゆる“改善策”は、あらゆる情報が出尽くされた感があります。そして3.0は、睡眠の新しい体験です。
三吉 睡眠の新しい体験。
尾形 例えば、世界睡眠dayには“寝落ち”するためのイベントを箱根の旅館で開催しました。参加者様に睡眠情報をトラッキングする睡眠専用デバイス「ブレインスリープ コイン」をつけていただき、生演奏を聴きながらの“寝落ち”を体験していただいたのです。“生演奏”の心地良い音がそばにあると、眠ること自体が楽しくなるよね、というアプローチでした。
三吉 最近はARCHにとどまらず、麻布台ヒルズの「Hills House」でも活動されていると伺っています。
尾形 Hills Houseの会員は、ARCHと違って新規事業担当者に限りません。そしてここのカフェテリアでは、麻布台ヒルズの「グリーン&ウェルネス」というコンセプトのもと、健康に配慮した食事メニューを展開するなど、一般ワーカーのウェルネスを食の側面からサポートしています。今後はこの場でも睡眠がウェルネスに寄与することを訴求していきたいと考えています。自分の健康状態をデータで可視化し、食事制限などの対策をしているワーカーは必ずしも多くありません。睡眠の文脈で「第一歩」を踏み出していただけるようなプログラムを考案中です。
三吉 具体的にどのようなプログラムになりそうですか?
尾形 「健康データを測ってください」「睡眠を改善しましょう」などと呼びかけるだけでは響かないと思うので、「睡眠と美容」「睡眠と音楽」「睡眠と腸」など、睡眠とは一見関係のない分野との掛け算によって興味・関心が広がるようなアプローチができたらと思っています。
三吉 つまり、睡眠を「大目的」にしないということですね。
尾形 おっしゃる通りです。最初は“ド直球”で、「睡眠をとると生産性が上がるというスコアが出ているので、眠りましょう」と訴求していたんです。でも上手くいきませんでした。というのも、「仕事のストレスが原因で眠れない」「勤務時間の関係で眠る直前に食事をとるしかなく、そのため寝付きが悪い」といった方もいて、このような場合、職場環境を変えない限りは十分に眠れないわけです。
三吉 睡眠時間をとりたくてもとれない中で「睡眠は大事」と言われると、かえってしんどくなる方もいるかもしれませんね。それよりも「肌や髪のツヤがよくなりますよ。その方法として睡眠に注目してみませんか?」といったアプローチの方が、確かに受け容れやすい気がします。
尾形 そうですよね。単に「眠れば解決」というアプローチには限界があると思っています。
副業の革靴店とそば店経営が、新規事業の糧に
三吉 ところで、尾形さんは副業でビンテージ革靴店と山形の冷たい肉そば専門店を経営されているそうですが、それはどのような経緯で?
尾形 ビンテージ革靴店は、趣味の延長でスタートしました。学生時代に買ったビンテージの革靴の品質がすばらしく、しかもユーズドで売れたんです。あと、社会人になってからの体験として、バシッとスーツで決めているわりに靴がイケてない人が多いという思いもあって(笑)、ECショップを立ち上げました。アークヒルズで開催される「赤阪蚤の市」にもポップアップ出店させていただいています。冷たい肉そばの店は、「出身地の山形に貢献したい。好物の肉そばで実現できないだろうか」という思いをフワッと抱いていたところ、手伝ってくれるシェフが現れたので、思いきって始めました。
三吉 本業がありながら、抱いた構想を行動に移せるところがすごいと思います。そうしたご経験をお持ちだからこそ、睡眠の新規事業にも信憑性と説得力が伴うのでしょうね。
尾形 副業を始めて大きかったのは、自分ひとりの力でどの程度のことができるのか、可能性の範囲が分かったことです。また、副業で関わる人は本業と全く違うので、良い刺激になっています。
三吉 私は週に1度、服飾学校の夕方からのコースに通っているのですが、本業と関係がないようで、応用できることがたくさんあるなと感じるんです。
尾形 そうなんですか。すばらしいですね。私も全く同じで、副業での経験が本業に役立つことは多いです。
三吉 睡眠事業も、もともとは社内副業から始まったと思うのですが、イントレプレナープログラムは今も続いているのですか?
尾形 プログラムは「ダブルワーク制度」という全社の取り組みになりました。すべての社員が本業以外の業務に従事することが可能になり、例えば、別の部署の人間がわれわれの睡眠事業に参画したいと手を挙げ、上長の許可が出れば、20%稼働でチームに加わることができます。
三吉 新規事業を育てていく上で大事な取り組みですね。
尾形 めちゃくちゃ大事だと思います。ただその場合、外部のメンターがいることが重要で、社内の壁打ちだけでは意味がないと思っています。
三吉 私はWiLで新規事業の壁打ちも担当させていただいていますが、「社内の壁打ちだけでは限界がある」というお話は、確かによく伺います。
尾形 社内で盛り上がった企画が一歩外に出たら全く通用しないというケースは多いと思います。そういう意味でもARCHは貴重な場です。開業当初は他企業の皆さんに顔を覚えてもらうために、連日エントランス付近に陣取っていました。挨拶できる関係になると雑談が生まれます。雑談からアイデアが浮かぶことってすごく多いんですよ。睡眠事業を始めた時に、知見のある人に手紙を送ってもほとんど返事がなかったと語りましたが、ARCHでは「話を聞いてみたい」という企業がすぐに見つかり、睡眠と香りの関係を研究されているエステーさんをはじめ、複数の企業との共創につながっていきました。
三吉 今後もスリープテックの中核企業として様々な企業を巻き込み、睡眠市場の拡大に邁進されていくことと思います。最後に展望をお聞かせください。
尾形 ZAKONEの会員企業は現在164社にのぼります。スリープテックはNTT東日本の重要なアセットになりつつありますので、安定した収益を生む事業への発展を目指すとともに、活動を通して「睡眠で世界平和を」というコンセプトを広めていけたらと思っています。
三吉香留菜|Karuna Miyoshi
東京大学法学部卒業後、ベイン・アンド・カンパニーにて戦略コンサルティング業務に従事。中期経営計画・M&A戦略策定/DD、ポートフォリオ変革支援など全社戦略の策定・伴走を行う。2022年にWiLへ参画し、東京オフィスLP Relation担当Directorとして大企業の変革・イノベーション創出支援を行う。グラフィック化スキルを活かし、大企業向けワークショップのビジュアライズも担当。
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