大企業の事業改革や新規事業創出をミッションとして虎ノ門ヒルズにて始動したインキュベーションセンター「ARCH(アーチ)」。企画運営は虎ノ門ヒルズエリアにおいてグローバルビジネスセンターの形成を目指す森ビルが行い、米国シリコンバレーを本拠地とするWiLがベンチャーキャピタルの知見をもって参画している。WiLの三吉香留菜氏が、ヤマハの大村寛子氏を迎え、同社の取り組みについて伺います。
TEXT BY Kazuko Takahashi
PHOTO BY Koichi Tanoue
マーケティングの全社部門を設立
三吉 昨年になりますが、銀座に出かけた際にヤマハのショップの前を通りかかり、すてきな空間に吸い寄せられてふらっと入ったんです。1階ではお客さんらしき小さな女の子がピアノで「さくらさくら」を弾いていて、するとその音に合わせて伴奏の音が鳴り、フロア全体が美しい「さくらさくら」で満たされました。さらに大画面のモニターに桜の花びらが舞う美しい映像が映し出されて驚きました。
大村 立ち寄ってくださったんですね。ありがとうございます。ヤマハの旗艦店である銀座店の1階と2階はカフェ併設のブランド体験エリアで、楽器を弾く人も弾かない人も気軽に音楽を楽しめる空間になっています。三吉さんがご覧になったのは、昨春展開した「さくら咲くピアノ with AI」というイベントです。ピアノの初心者が1本指で弾いても伴奏とペダルが自動で追従するので、熟練したピアニストのような演奏ができる「AIピアノ」を体験していただくイベントでした。
三吉 おっしゃるように気軽に音楽を楽しむことができる空間でした。そして「上の階には何があるんだろう?」と気になって各階を見て回りました。すると、バーチャル映像と連動した楽器の自動演奏が楽しめるカフェラウンジがあったり、音楽関係の本がズラリと並ぶライブラリーがあったり。
大村 銀座店は2020年から2021年にかけて大幅リニューアルを実施し、私のチームがブランド体験エリアを担当しました。ブランド体験エリアはリニューアルの先駆けとして2020年10月にオープンしました。折しもコロナ禍の真っ只中で心配な滑り出しでしたが、街に活気が戻るにつれて賑わいを見せるようになりました。
三吉 私が訪れた時もとても賑わっていて、外国人のお客さんは楽しそうに店内をスマホで撮影していました。大村さんは銀座店の企画にも携わっていたのですね。
大村 はい。
三吉 ヤマハは2018年にマーケティングの全社部門を立ち上げました。大村さんはそのけん引役を担ったと伺っています。どのような経緯で?
大村 まず、ヤマハの主力となる楽器・音響ビジネスを横断したマーケティングの統括部門を作りたいと提案し、2016年にそれが実現しました。
三吉 それまでは、たとえばピアノ部門、ギター部門、ミキサー部門、スピーカー部門などと、プロダクトごとにマーケティングをしていたわけですね。
大村 そうです。プロダクトごとにサブブランドを作ることも多かったのですが、アセットを分散するのではなく、一つに集約していこうと。さらにコーポレートとしてのマーケティングも一気通貫で行う体制を整えるべくマーケティングの全社部門を立ち上げました。
三吉 大村さんは現在、執行役員兼ブランド戦略本部長としてマーケティングや広報など、広範囲の業務を統括するお立場ですが、もともとは開発部門のご出身だそうですね。
大村 はい。電子ピアノ「クラビノーバ」など、電子楽器の商品開発やソフトウェア開発に20年近く携わっていました。それが2011年に突如、鍵盤楽器の営業に異動となりまして。
三吉 それはびっくりですね。
大村 はい。全く違う部門に移ったわけですが、営業の仕事はとてもやりがいがあり楽しかったです。
三吉 どのようなところが?
大村 在任中にショパン国際コンクールやチャイコフスキー国際コンクール、浜松国際ピアノコンクールなどがあり、とても貴重な体験をしました。こうしたコンクールはピアニストの登竜門であると同時に、ピアノメーカーが製品力を競う場でもあります。コンテスタント(出場者)は複数社の製品の中から自分が弾くピアノを選べるのですが、メーカーとしては自社のピアノが選ばれ、さらに上位入賞が叶えばブランドのプレゼンスが上がります。つまり営業に課せられたミッションは「勝つこと」。そのためにコンテスタントのサポートやピアノのベストコンディションを維持する調律師のサポートに奔走しました。大変緊張感のある現場で、自社の楽器がどうあるべきかを肌で感じる機会となりました。
また、在任中にはヤマハが2008年に傘下に入れたオーストリアの名門ピアノメーカー・ベーゼンドルファーのボードメンバーも務め、女性社長の就任を後押ししました。 “ベーゼンドルファーの音”を誇りとする同社の職人たちのフィロソフィーや、それを実現するためのモノづくりへの情熱に学ぶことも多かったです。
製品売り切り型のビジネスから脱却する
三吉 様々な貴重なご経験を経て、ヤマハで初となるマーケティング全社部門の立ち上げにかかわられました。具体的にどのような活動を?
大村 当初は主にリブランディングのための活動で、ヤマハ銀座店のリニューアルもその一環でした。ちなみに三吉さんはヤマハにどんなイメージをお持ちですか?
三吉 パッと思い浮かんだのは、学校の音楽の時間や、吹奏楽部の演奏です。あとはヤマハの音楽教室。つまり、子どもの頃から音楽や楽器に親しめる環境を支え続けているブランドというイメージがあります。
大村 実際、おっしゃるようなイメージをお持ちの方が多く、それが「安心できる」「信頼できる」といった評価につながっています。いずれも短期間では決して獲得できないイメージで、先人たちが積み上げてきた大切な資産です。その一方で、「クール」「未来を開く」といったイメージからは遠いのではないでしょうか?
三吉 確かに、今まで私がヤマハブランドに対して抱いていたのは、ホッコリとした温かなイメージです。ただ、銀座店を体感した印象は、まさしく「クール」でした。
大村 ありがとうございます。長く培ってきたイメージを大切にしながらも、ブランドというのは常にアップデートしないと色あせてしまいます。そこで改めてヤマハがお客様に提供する価値を見つめ直し、2019年1月に“Make Waves”という新たなブランドプロミスを掲げました。「個性、感性、創造性を発揮し、自ら一歩踏み出そうとする人々の勇気や情熱を後押しする存在でありたい」との思いを込め、人々が心震わす瞬間を“Make Waves”という言葉で表現しています。銀座店のブランド体験エリアはその世界観を体感していただくための空間なので、クールな印象を持っていただけたというのは大変うれしいことです。
三吉 ブランドプロミスにある「自ら一歩踏み出そうとする人々の勇気や情熱を後押しする」空間だったと思います。というのも、最初は美術館か博物館かに迷い込んだ感覚で、自分がかかわっていける場所だと感じてどんどん上の階に上がって行ったんです。そうしたらいつの間に自分にかかわりがないはずの楽器売り場にいました(笑)
大村 コンセプト通りの動線を辿っていただいてありがとうございます(笑)。そのように楽器を買うつもりがなくてもフロアを回遊していただくことで、未知の音楽や楽器に触れ、興味を持っていただくきっかけになればと期待しています。また、そうした場づくりだけでなく、若い音楽家の楽曲制作から発表までを支援するなど、ライジングスターの発掘活動も行っています。
三吉 私がヤマハ銀座店で見た様々な革新的な音楽体験には、御社の新規事業が多く含まれていると思います。盤石な顧客基盤を持つヤマハが新規事業に取り組む背景には、どういった思想があるのでしょう。
大村 企業を取り巻く環境は大きく変わっています。大量生産・大量消費の時代から、環境や社会に配慮しながら持続可能な形で経済活動を維持していく時代へ。自社の利益をひたすら追い求める経営から、自社の存在意義を見つめ直し、社会貢献を軸として事業を営む「パーパス経営」へ。製造業を代表する自動車産業にしても、クルマを売るビジネスモデルから、「MaaS」と呼ばれる移動サービス全体を提供するビジネスモデルへとシフトしています。
当社も中期経営計画の中で「サステナビリティを経営・事業の根幹に据える」と宣言し、循環型のビジネスモデルへの転換を図っています。人々の暮らしに身近なところでは、例えば楽器のレンタルサービス。長期にレンタルした場合、その費用は楽器の購入額を上回りますが、「保管や処分の大変さや省資源を鑑みると、レンタルした方がいい」というお客様も見られるようになってきました。
三吉 家具や家電のサブスクサービスなどを利用する人も増えていますよね。
大村 シェアリングエコノミーの概念が広く普及してきているのだと思います。もちろん「ヤマハの楽器の音色が大好きなので、ぜひ手に入れたい」「今は弾かなくなったけれど、この愛器だけは手放したくない」と、ヤマハの楽器を愛してくださる方は大勢いらっしゃいます。そうしたお客様のニーズを変わらず大事にしながらも、産業構造が「製品」から「体験」へと変わりつつある時代を生き残るためには、当社も体験型のサービスを拡充していく必要があると考えています。
三吉 楽器の製造業という位置づけを、サービス系の領域へとずらしていくと。
大村 その通りです。製造業は原料や部品の調達が不可欠ですが、世界情勢の変化や自然保護の観点から調達が困難になることもあります。原価の低減やリスク分散という意味においても、サービス系の新規ビジネスへの期待は大きいのです。
三吉 もはや大量生産・大量消費の時代ではないとわかっていても、事業が安泰ゆえに変革に二の足を踏む大企業は少なくありません。そうした中で先陣を切って産業構造の変化に対応しているヤマハの取り組みはすばらしいと思います。昨年4月にはミュージックコネクト推進部という新しい部署を立ち上げましたね。
大村 音・音楽領域で新たな価値を創出する部署として新設されました。ヤマハの強みであるAIやデジタル技術を活用し、「いつでも・どこでも・誰でも」音や音楽を楽しめるサービスを展開していきます。また、製品売り切り型のビジネスから脱却し、広く、長く、深くお客様とつながるためのサービスの構築を目指していきます。
自ら挑戦し、失敗に挫けない姿勢を示す
三吉 オープンイノベーションの取り組みも積極的に進めています。
大村 ARCHに入居されている企業を始め、海外のスタートアップにも積極的にアプローチし、コラボレーションの可能性を探っています。社外の方々との交流によって気づかされることも多いです。
三吉 例えばどんなことでしょうか。
大村 製造業の視点からするとビジネスをスケールさせるのが困難そうだと思える領域でも、海外のスタートアップは壮大なビジョンを掲げてイノベーションに挑戦し、しかも成功するかわからないその挑戦に投資する会社が多く存在していることに驚きました。同時に、ヤマハの方がずっと技術やリソースがあるのに「売り上げがわずかだから」という理由で挑戦をやめていないだろうかと考えさせられました。利益以前に「どんな価値を生み出せるか」をベースに考えていく必要があるなと。
三吉 現在は全社を挙げて他社との共創に取り組み、新たな領域へと踏み出しています。それは社員の皆さんのチャレンジマインドの醸成につながるはずで、財務的なリターン以上の価値があると思うのです。
大村 おっしゃる通りです。新しいチャレンジですから失敗することもあるでしょう。その時に「失敗してもいい。チャレンジすることが何より重要」という意識を持てるかどうか。あるいは「自分の方がもっと上手くやれる。やらせてほしい」でもいい。そうしたマインドの醸成は必須で、ヤマハの未来像を描いたムービーを社員に向けて発信するなど、インナーコミュニケーションにも力を入れています。
三吉 大企業の新規事業担当者の方々とお話していてよく聞くのは、「新規事業に対して社内の理解が進まない」というお悩みです。トライをしても上手くいかなかったり、すぐに成果が出なかったりということが理由だと思うのですが、シリコンバレーやスタートアップの現場では「Fail early, Fail often(早くたくさん失敗せよ)」というワードがさかんに使われます。失敗を恐れないマインドを社内で共有できるといいですよね。
大村 ただ「失敗したくない」という人は確実にいて……
三吉 わかります。「失敗を回避し続けることが成功」みたいな……
大村 ある種の大企業病で、変わらず安定していることに誇りを持ってしまうという……。それでは何も変わらないので、役員の私が自ら新しいことに挑戦し、失敗に挫けない姿勢を示していけたらと思っています。
三吉 大村さんのチャレンジマインドの原動力は、どこから来ているのでしょう。
大村 同じことをやり続けるのが耐えられない、何か新しいことがないと落ち着かない性格なんです。泳ぎ続けていないと死んでしまうマグロのように(笑)
三吉 なるほど(笑)
大村 私のようなタイプをつかまえて新規事業に巻き込み、彼・彼女たちが活躍できる土壌を作ること。それが目下の課題と言えるかもしれません。
三吉 どうやってつかまえるのですか?
大村 難しいことで、今も模索中です。他企業の役員の方々と交流できるARCHのエグゼクティブプランでいろいろとお話を伺うと、ボトムアップの提案システムを作ったり、ビジネスコンテストを実施したりという施策が多いようです。つまり新しいことにトライできる仕組みを作るということですね。自分の体験としては、飲み会の打ち解けた雰囲気の中で新規事業に向いていそうな人に気づくこともあります。
三吉 そうした地道なコミュニケーションを続けながら新規事業を育てていらっしゃるのですね。さて、近々のトピックについても伺いたいのですが、今春、みなとみらいの横浜シンフォステージにヤマハのブランドショップがオープンします。
大村 1階はブランド体験エリアとヤマハとベーゼンドルファーのピアノショールーム、2階は初心者でも気軽に楽器に触れて試すことができる体験型の楽器売り場や、横浜エリア最大級の品揃えとなる楽譜・書籍売り場、ミニステージを併設したカフェなど、3階では大人向けの音楽教室を展開します。また、当グループの開発、営業、マーケティングのオフィスが入居します。羽田空港からのアクセスが良いので、グローバルな共創や産学連携の拠点としての機能も果たしていきます。
三吉 オープンイノベーションの拠点の一つとして、ARCHをどのように活用していますか?
大村 ARCHを利用するメンバーには、できるだけ多くの企業の方にご挨拶するようにと伝えています。優秀ながら内気なメンバーもいるので、ARCHという場でオープンマインドを育み、出会いの中からアイデア創出のきっかけをつかんでほしいと思っています。私自身は、先ほどもお話したエグゼクティブプランがとても有意義な場になっています。中にはガバナンスと新規事業の両方を担っている役員の方もいて、私も似た立場ですので、お話を伺うだけで勉強になります。うれしかったのは、ヤマハの新規事業をご説明したら「投資したい」と言ってくださる方がいたこと。とても励まされました。
三吉 すぐに利益や成果が出にくい新規事業は、担当者が社内で孤立しがちです。そうした時に、社外の同じ立場の人と励まし合える場というのはとても貴重で、アイデアの交換やビジネスのやり取り以上にインパクトがあるような気がします。
大村 ええ、本当にそう思います。
独自技術を体験型のサービスへと展開
三吉 最後に“Make Waves”の今後の可能性について聞かせてください。
大村 ヤマハは、楽器ごとの音色や奏法の特徴に合わせてそれぞれの楽器演奏を分析・評価することができる独自技術を有しています。これを活用し、エデュテインメントやゲーミフィケーションの分野における可能性を探っています。ゲーム業界やメタバースとのコラボレーションも考えられ、例えばリアルな場で演奏するのが恥ずかしい人は、メタバース内でアバターとして演奏したり、アバターの先生から教わったりできるようになるかもしれません。
また、ヤマハが培ってきた技術や音楽の知見を組み込んだ生成AIを様々なサービスに展開していくことで、人々のよりクリエーティブな活動に貢献していきます。現在進行中のプロジェクトとしては、ヤマハの歌声合成ソフト「VOCALOID(ボーカロイド)」に連なるAI搭載の新ソフト「VX-β(ブイエックスベータ)」をクリエーター向けに無料公開し、反応を探っています。パラメーターを操作するだけで、声の張りや息の混ぜ方、ビブラートなどの歌唱表現を変化させられるソフトで、私も試してみましたが、リアルタイムで表情をつけて歌わせることができて盛り上がります(笑)
三吉 そうなんですね。私も試してみたいです!
大村 ええ、ぜひ。ARCHの方々にも試していただきたいです。
三吉 ARCHを利用されている企業の皆さんなら、手を挙げる方はたくさんいらっしゃると思います。
大村 また、離れた場所にいる人たちがリアルタイムで音楽演奏ができるアプリケーション「SYNCROOM(シンクルーム)」もヤマハの独自技術を活かしたサービスです。遅延の少ない音声データのやり取りができるため、アプリ上で演奏仲間と気軽に練習やセッションができたり、リアルの場では出会えない新しい音楽仲間と遠隔演奏を楽しんだり、アーティストとリスナーを結んだりと、様々な広がりが期待できるサービスです。
その他、アーティストの迫力あるライブパフォーマンスを忠実に記録し、そのパフォーマンスをステージ上にバーチャル再現する次世代ライブビューイング「Distance Viewing(ディスタンス・ビューイング)」は、音楽文化の継承にも寄与すると考えています。
三吉 いずれも「あったらいいな」と思うワクワクするお話ばかりで、しかもクール!
大村 ありがとうございます。まだ準備段階のサービスも多いですが、着実に実現させてヤマハブランドの成長につなげていけたらと思います。
三吉香留菜|Karuna Miyoshi
東京大学法学部卒業後、ベイン・アンド・カンパニーにて戦略コンサルティング業務に従事。中期経営計画・M&A戦略策定/DD、ポートフォリオ変革支援など全社戦略の策定・伴走を行う。2022年にWiLへ参画し、東京オフィスLP Relation担当Directorとして大企業の変革・イノベーション創出支援を行う。グラフィック化スキルを活かし、大企業向けワークショップのビジュアライズも担当。
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