北海道、十勝地方の沿岸部に位置する「芽武」という土地をご存知だろうか? 豊かな自然に囲まれたこの地でいま、「memu earth lab」という一風変わったリサーチプロジェクトが進んでいる。「建築」をテーマとしながらも音や食、自然環境へとアプローチし、さまざまな分野の研究者を招いてリサーチを進めるこの組織は、資源の「再読」を実践しているという。同プロジェクトで東京と芽武を往復し研究を続ける森下有の話からは、自然や都市の多様性に気づくための方法が見えてきた。
text by Syunta Ishigami
TOP IMAGE: courtesy of memu earth lab
photo by Ayako Mogi
領域を超えて人が集まる場所
——森下さんの取り組みは非常に多岐にわたっていて、その活動を一言で表すのが難しいですよね。いろいろな活動を経て現在に至っていると思うのですが、まず森下さんが参画されている「memu earth lab」とは一体なんなんでしょうか?
森下 memu earth labは、北海道の芽武(メム)を拠点にした東京大学のリサーチプロジェクトです。芽武は十勝地方の大樹町という海に近い湿地帯に位置していて、この名前はアイヌの言葉で「清水が湧いて出来ている池や沼」を意味しているといわれます。もともと(公益財団法人)LIXIL住生活財団(現・一般財団法人住環境財団)が芽武に寒冷地における住生活の研究拠点をつくるということで、2010年に隈(研吾)さんをお招きし、2010年に「Memu Meadows」というカンファレンスも宿泊もできる場所づくりから研究が始動しました。ぼく自身は博士課程のころから芽武にかかわっていて、はじめは町の方々がどのようにこの環境に住んでいるのか研究するべく住宅にセンサーをつけて実態調査を行なっていました。
——2010年ごろというと、IoTの先駆けのような研究ですね。森下さんはハーバードで建築理論を学んでいたと伺ったのですが、以前から住宅の研究に携わっていたんですか?
森下 建物をつくるときの情報はたくさんあるのにどう使われているかに関する情報が少ないことに気づき、東大学際情報学府の枠組みで研究を進めることになったんです。もともとは高校を卒業してからRISD(ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン)というアートスクールに進学したのですが、もっと建築の背景にある見えないものを学んだうえで設計に携わりたくなり、ハーバードでは理論や歴史を学んでいました。ぼくは設計もエンジニアリングもやりますが専門家というわけではないし、ヒストリアンでも理論家でもありません。いろいろな情報を咀嚼しながら現在を捉えるための理論や歴史を考えるためにも、むしろノンディシプリナリーであることを意識しています。
——さまざまな分野を研究されてきたからこそ、幅広い視点で研究に臨めるんでしょうね。
森下 芽武という具体的な場所があるおかげで、異なる専門の方とも話しやすい環境が生まれていると思います。memu earth labでは「音」や「糧」を現地を読み解く情報の媒体にしているので、いろいろな研究者の方が集まれるんです。たとえば音なら鳥の研究者も騒音の研究者も集まれるし、音楽家や森林の研究者が訪れることもある。そもそも何を研究すべきか考えるところから始めましょうと話していて、活動が生まれる経緯や、情報がどう生まれているのか研究することから始めるとすべてを建築として捉えられるようになるんですよね。本来は鹿や鳥も建築の一部といえるはずなのに、最初から「建物」に対象を絞ると上モノだけの話で終わってしまう。建物だけの価値を考えるのではなくて、それが何とつながっていて、どんな価値を生み出せるのか考えなければいけないと思っていました。
新たな「学び」を生み出すために
——普通はひとつの課題をさまざまな角度から研究するものだと思うんですが、森下さんの場合はひとつの場所をテーマにさまざまな角度から研究を行なっているのが面白いです。
森下 人が集まる仕組みをつくりたいんですよね。リサーチリトリートという言い方をしているのですが、アーティスト・イン・レジデンスのような仕組みというよりは、リトリート(retreat)という言葉が表すように、一歩下がって根源に戻れるような仕組みが必要だなと。さまざまなレイヤーの情報が多様なメディアで残っていき、それらを俯瞰したときにこの場所が理解できるような環境をつくろうと思っています。
——とはいえ、芽武という場所を知っている人も少ないですし、情報がないなかでどういうふうに人を集めようと考えたんでしょうか?
森下 アウトプットを決めずにいろいろな方に集まっていただきながら、一つひとつ手段を検証している状態です。たとえば音楽という面ではチームのなかに音楽療法士の方がいるので、医療従事者の労働環境のために自然音のフィールドレコーディングが活用できないかOtocareというプロジェクトを立ち上げたのですが、そうすると異なる現場のプロフェッショナルと接点ができてまたつながりが広がっていく。いまはコンサートホールやライブハウスが閉鎖されているので、アーティストの方々に森の中でパフォーマンスを行なっていただいたこともあります。そうすると従来の産業に縛られず音の役割や音の価値について考える場所が生まれていき、議論を重ねるうちに認知学の先生や言語学の先生などべつの領域の先生方に声をかけられる機会にもつながっていきます。
——memu earth labのメンバーは森下さんだけなんですか?
森下 音楽療法士の方と建築出身の方とチームを組んでいるのですが、芽武で過ごしている時間はぼくが一番長いです。専属のメンバーではないけれど状況に応じて出たり入ったりしてくださる方もいて、BBCのラジオキャスターの方だったり寒冷地の食の持続性を探究されている方だったり、お年寄りの話を子ども世代に伝えていこうとされている方だったり、リレーションの探究をされている方だったり——ぼくたちのやろうとしていることとマッチングする部分で一緒にプロジェクトをつくっています。
——森下さんがいろいろな人を巻き込んでいくわけですね。面白そうですがなかなか大変そうです(笑)
森下 本当は若い人たちにももっと参加してほしいので、今年の夏は1.5カ月ほど学生に滞在してもらうプログラムを計画しています。フィールドワークが必要な研究を行う学生は日ごろから座学だけでなくいろいろな場所を訪れるものですが、文系・理系・芸術系など関係なく、すべての学生が「場所」から学ぶべきなんじゃないかと思っています。memu earth labは大学教育としてもある種の実験の場なのかなと思っていて、もう一度研究室の外から学びを得る方法を生み出していきたいんです。
自然を見つめ、資源を“再読”する
——芽武での暮らしはなかなか想像できないのですが、実際に住宅のセンシングを行なったときはいかがでしたか?
森下 部屋の温度を計測したのですが、家をすべて暖める人もいれば自分のいる場所だけ暖める人、ほとんど外にいるのと同じ室温のなかで暮らしている人もおられました。同じ地域に住んでいれど、生きている環境は人それぞれまったく異なっているのだなと感じさせられます。東京の人からすると過酷に思えるかもしれませんが、その人たちにとってはこの環境が善かれ悪しかれ当たり前なんだなと。
——すごいですね。自然とともに暮らしているようなイメージなんでしょうか。
森下 鹿は群れでかけめぐっているし、渡り鳥が飛んでいたり牧草地で動物がうろうろしていたり、自然が豊かなのはたしかです。ただ、森は植林されてつくられたものですし、広大な牧草地は牛や馬のために人間がつくったものでもある。自然と人間の二項対立がブラー(blur)になって、どちらか一方だけでは捉えられない場所だなと感じます。
——むしろ人間も自然の一部だと思える場所というか。
森下 そんな環境をどう情報化できるのか考えています。従来の理論だとどうしても二項対立で捉えたり方法論めいた考え方が強かったり、しっくりこなくて。この環境と向き合うためのアティテュードを確立していくことで、新しい学びや研究の方法を生み出せたらと思っています。
——その営み自体がmemu earth labの研究成果にもなっていきそうです。
森下 memu earth labはもともと10年くらいかけて進んでいくプロジェクトと言われているので本格的なアウトプットはまだまだこれからなのですが、この場所がつくった音楽がBBCのラジオで流れるなど普通の大学とは異なるアウトプットを少しずつ生み出せている気がします。ビジュアルや言葉だけではなく教育プログラムを考えることもありますし、少しずつ手に取れるようなものもつくっていきたいですね。いつかは建築の形でアウトプットを生み出したいので、いまはそのための土台づくりを進めているようなイメージでしょうか。もっとも、どんな建築が生み出されるのか、いまはまったく想像がつきませんが……(笑)。でも、以前音楽家の野村誠さんが来たときに「芽武はスタジオみたいだね」と仰っていて。スタジオという箱がなくても浜辺や森の中、氷の張った沼の上をスタジオとして読み替えていけるのだなと。それを memu field studioと名前をつけ、まだ建物なき建築空間として資源化に取り組んでいます。ぼくらは「資源再読」という言葉をよく使っているのですが、芽武という場所を再読し、牛を再読し、食事を再読し、安易にわかった気にならず延々と目の前の対象に向き合いつづけることを大事にしています。
異なる時間の重なりのなかで生きること
——再読という言葉は面白いですね。森下さんは芽武に新しいものを持ち込もうとするのではなく、すでにその土地に根付いている多様性を受け入れることで新しいものをつくろうとしていますよね。人間は利便性や効率を追求したことでどんな場所でも同じように便利な暮らしを実現できるようになりましたが、その場所固有の暮らしがあるほうが多様性も豊かで素晴らしいなと感じさせられました。
森下 最近は「多様性」という言葉のなかに豊かなものが閉じ込められてしまっている気がします。たとえばアイヌの歌では、谷ごとに植生が異なれば集まる動物も変わるし地形や地質も変わるので音の響き方が変わっていき、集まる人と場所ごとに声の出し方も歌の響きも異なってくると教えてもらいました。その豊かな差異を「多様性」という言葉でまとめてしまっていいのか、と。だからぼくたちもこの土地に対して博物館的なアプローチで文化や現象を記録・保存し定義するだけではなく、生きた違いを認識しながら新たな価値を生み出す活動へつづけていくことが大事だなと感じています。
——知らずしらずのうちに、ぼくたちは目の前の自然を既存の枠組みにはめこんで理解しようとしてしまうのかもしれませんね。
森下 ぼくたちはカレンダーに沿って自然や季節の変化を捉えようとしてしまいますが、カレンダーはまさに枠そのものですよね。たとえば白樺は4月の最初の週と決まっているのではなく、季節や時間の変化の中、その樹液を出すと言われますし、1日24時間で1週間7日とか9時から17時までが勤務時間とか、ぼくらが慣れ親しんだ時間の感覚と自然の時間は当たり前のように異なっています。だからぼくらも鹿の時間や白樺の時間を生きられるようになれるといいですよね。
——環境問題を考えてみても、人間中心の世界観には無理がきているように思います。人間も自然の一部を担う存在であることをもう一度思い出す必要がありそうです。
森下 もう一回自然の仲間に入らせてもらう感じがいいなと。異なる流れをもった時間の重なりのなかでぼくたちは生きているし、その重なりのリアリティを無視して建物をつくって政策や街づくりを進めようとしても、機能しないと思うんです。東京のようにたくさんの施設や空間がある場所は読み替える対象で溢れているとも言えるわけで。memu earth labも芽武だけを研究しているわけでも、ある特定の場所についてだけ考えるわけでもなく、この活動を通じてさまざまな対象を“再読”するきっかけをつくれたらいいなと思っています。ぼくらは都市の“当たり前”を問いなおしつづけて、目の前の対象を読み替える可能性に立ち返らなければいけないはずです。その再読の先にしか、多様性もリアリティもないのではないでしょうか。
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