1942年に、浅草・田原町で創業。食パンとロールパン、たった2種類のパンで浅草の地に根ざしながら、遠方からも人を呼ぶ店として歴史を重ねてきた「パンのペリカン」が、麻布台ヒルズにカフェをオープンしたニュースは、多くの人を驚かせた。四代目で専務の渡邊 陸さんが、「地域に愛される店づくり」の今とこれからを語る。
TEXT BY KEI SASAKI
PHOTO BY NORIO KIDERA
EDIT BY KAZUMI YAMAMOTO
illustration by Geoff McFetridge
浅草の老舗パンメーカーが、東京の西側に構えた新拠点
——海外や日本各地の名店の「初上陸」「初出店」の話題には事欠かない麻布台ヒルズですが、東京・浅草「ペリカン」の出店は、大きなインパクトがあったと思います。
渡邊 私たちにとっても、大変大きな挑戦でした。これまで、地域密着型、地元に愛される店づくりを第一に歴史を重ねてきた店ですので。創業75年目にして初めてカフェを開く際も、まずは浅草・田原町からというのは、自然ななりゆきでした。一方で、よく「一店舗主義」などと言われるのですが、特にそういう形に固執してきたわけではないんです。ただ、売り上げだけのために多店舗展開するつもりはまったくなく。職人を育てつつ、商品のクオリティを保ちながら、と考え商いを続けるうちに、おのずとこれまでの形になっていた、というところです。カフェをオープンしてからは、何件か商業施設から出店のお誘いも頂きましたが、できるか、できないかと考え、お断りせざるを得なかったのです。
——麻布台ヒルズはなぜ、ご出店に至ったのか。その経緯について教えて下さい。
渡邊 「建物を建てて終わり」ではなく、「街をつくろう」とされている森ビルさんの姿勢に、社長も私も共感したからです。とはいえ、即決というわけにはもちろんいきませんでした。現在の店舗兼工房もカフェも、自分たちで一からつくり上げた店で、商業施設に店を出すということが、よくイメージできなかったので。ただ、電話やメールで話を済ませる会社が多い中、森ビルのご担当者は何度も足を運んで下さり、とても熱心に説明して下さったんです。麻布台ヒルズは30年以上かけたプロジェクトというじゃないですか。よくよく考えたら、「ちょっとあり得ない」話ですよね。強い信念がないとできないし、利益だけ考えれば、ほかのやり方がいくらでもある。「こういう人たちとなら、何か一緒にやれる」と、思ったのだと思います。
「毎日食べられる、ごはんのようなパン」を変わらず届ける
——売上だけのための拡大は望まない。先に伺った「ペリカン」の理念にも共通するように思います。
渡邊 そうですね。うちの店の話を少しさせて頂くと、昭和17(1942)年、曽祖父の渡邊武雄が創業した当時は、「渡邊ベーカリー」という、菓子パンや総菜パンもあるごく普通のパン屋でした。それを、食パンとロールパンだけに絞って飲食店への卸しを主軸にし、小売りは直売所的な位置づけで、という営業形態にしたのが二代目である祖父・渡邊多夫です。屋号もそのときに「ペリカン」になり、いまの店の土台ができました。ただ、初代の頃から変わらぬ理念が「ごはんのように、毎日食べられるパンを」というものでした。そうは言っても「ごはんのようなパン」も、例えば戦後間もなくの創業時と、高度経済成長期時代と、今とでは、少しずつ変化している。同じ時代でも、夏と冬とでも微妙に違う。小麦粉の質だって、変わっています。そんな中で、レシピを微調整しながら「変わらないね」と言って頂けるよう努めています。
——戦後すぐから、これだけ数多くのパンの店がある今に至るまで、2種類のパンで愛され続けている「ペリカン」も、「ちょっとあり得ない」存在ですね。麻布台ヒルズの、店づくりについてお聞かせ下さい。
渡邊 ベースは、田原町のカフェと同じです。今まで東京の西側を含め、遠方から足を運んで下さったお客様にとって「あのペリカンの味が、ここで楽しめる」という点が期待されていると思いますので。店舗デザインも田原町と同じ、〈丘の上事務所〉の酒匂克之さんにお願いしました。田原町のカフェをご存じの方ならば、「あのカフェだ」と、思って頂けるはずです。パンの工房は併設していませんが、午後2~3時くらいをめどに、浅草の工房から届く食パンを数量限定で販売しています。カフェメニューも、「網焼きトースト」「ハムカツサンド」「フルーツサンド」と、おなじみのメニューが並び、一部はお持ち帰り頂けます。加えて、〈NO CODE〉の米澤文雄シェフ監修のサンドイッチも2種類、ご用意しています。
有名シェフともコラボ、麻布台から始まる新しいストーリー
——「ジャン ジョルジュ トウキョウ」などで活躍し、ヴィ―ガンレシピで料理本界のベストセラーを生み出すなど、多才な、そして大活躍中のトップシェフです。どのようなご経緯で、依頼をされたのでしょうか。
渡邊 著名なシェフや、高い技術をお持ちのシェフはたくさんいらっしゃると思うのですが、それだけでは違う気がして。米澤シェフは、浅草のご出身ということで、「この方ならば」と、コンタクトを試みたところ、うちのパンを知っていて下さり、子供時代に食べられた記憶もあると。メニュー監修の相談をすると快くお受け頂き、現在、ご提供している「エビフライサンド」と「醤油レーズンあんバターサンド ゴルゴンゾーラ入り」が完成しました。試食をさせて頂いた瞬間、社長と「これ、これだよね!」と、テンションが上がりました。「毎日食べられる、ごはんのような」ペリカンのパンは、しょっぱいものと合わせると甘味が感じられ、甘いものと合わせるとほのかな塩気を感じる味を大切にしているのですが、それを見事に生かしながら、懐かしさと新しさを感じられるメニューが出来たと感謝しています。
——開業から4カ月経ちますが、麻布台ヒルズ店をオープンされて気付かれたことなどはありますか。
渡邊 それはもう、大ありです。同じ東京でも、街が違えば、お客様の雰囲気が違う。これまで来て頂けなかった方々に、来て頂けているのかなという広がりを感じます。スタッフも同じ。店ごとに求人をかけ、採用をしているのですが、それぞれの店で、志望理由が違って、自分たちの店ながら「こんな風に受け止められているのか」と、毎日、発見があります。笑い話なのですが、6年前に田原町のカフェを開いたとき「こちらのパンはどこかで売っているんですか?」と言われて、驚いたことがあり。カフェで初めて「ペリカン」を知って下さる方も、当然ながらいらっしゃるわけで。新しいお客様との出会いが広がるというのは、店舗展開の大きな魅力ですね。
人と人とのつながりありき、新しい街づくりをここから
——麻布台ヒルズは、都心にありながら「Green&Wellness」をコンセプトとした、未来型の商業施設です。このコンセプトについてはどう思われますか。
渡邊 振り返れば、出店のお誘いを頂いたのはコロナ禍の真っただ中でした。お客様は信じられないほど減り、売上はがた落ち、開業して数年目のカフェは満足に営業できない。スタッフの志気を保つのも大変な時期でした。そんな折に話を頂き、みんなに「やるよ」と伝えると、スタッフがぱっと明るくなって。「すごいですね!」「麻布台ヒルズに、うちの店ができるんですね」と。ありがたかったですね。そしてオープンしたらしたで、毎日、驚くほどのお客様に来て頂いている。「Wellness」を「心身の健康」とか「よりよく生きること」を指すなら、今に至るまでのプロセスから、我々にとっての「Wellness」につながることでした。また、「ペリカン」の小さな取り組みとしては、創業以来、一貫して食品ロスに対しては意識的です。パンや菓子の業界では、お客様が来たときに商品がない「機会損失」は大きなデメリットなので、ロスを見込んでの製造が一般的です。が、戦争を経験した二代目は「食べ物を捨てる」ことはできなかった。お客様にご不便をおかけするのは申し訳ないと思いつつ、売り切れ御免の製造・販売体制を続けていて、それはここでも変わりません。
——ここで、新しく挑戦されたいと思うことはありますか。
渡邊 森ビルさんと一緒になって、街をつくっていきたい。浅草でも、「地域あってのペリカン」という想いで、地元の法人会に参加したり、イベントがあればうちのパンを使って頂いたりと、街とのつながりの中で店を続けてきたので、ここでも何らかの形で街づくりに参加したいですね。私自身は、浅草で育っていないのですが、浅草は地域のつながりが非常に強い土地で、大人同士の挨拶でもお互い浅草出身とわかると「何年生まれ? 中学は(どこ)?」なんて会話が日常なんです。「じゃあ、○○を知っているよね」「ああ、あそこの息子と同級生か」みたいな(笑)。街は、人と人とのつながりの集合体。森ビルさんのやり方も、地域の方々との交渉から我々テナントとの話し合いまで、常に人対人。東京の、ど真ん中の最新の場所で、血の通ったコミュニティを作っていきたいです。
米澤文雄|Fumio Yonezawa
1980年生まれ、東京出身。ニューヨークの三つ星「Jean George」で日本人初のスーシェフに。同店の東京進出時、料理長として貢献する。2022年「NO CODE」を設立し、レストラン運営、人材育成、コンサルタント業など幅広く活動する。
渡邊 陸|Riku Watanabe
1987年生まれ。東京都出身。成蹊大学を卒業後、2010年より母方の家業である「ペリカン」に勤め始める。東京製菓学校を経て、「株式会社ペリカン」 専務取締役 店長に。
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