
わたしたち一人ひとりの存在の「弱さ」を、本という器でそっと掬いとってきたその人は、ここ四半世紀にわたる出版界を代表するスター編集者だ(本人はきっと否定されるだろうけれども)。医学書院に長らく勤めた白石正明が手がけた〈ケアをひらく〉シリーズは、シリーズ自体が毎日出版文化賞を、シリーズ中の著作が小林秀雄賞、大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞などを次々と受賞するなど、ひとつの時代を築いてきた。2024年に定年退職した後、自ら執筆し2025年4月に上梓した『ケアと編集』(岩波新書)は、そんな白石が得てきた気づきが散りばめられ、早くも話題書となっている。 白石の仕事は、広くケアに携わる人も、あるいは編集者も、他人とかかわりあう仕事をしている人々を刺激し、魅了してきた。本連載「編集できない世界をめぐる対話」でも、『どもる体』の伊藤亜紗や、『物語としてのケア』の野口裕二など、〈ケアをひらく〉シリーズで著作のある語り手に度々登場してもらっており、インタビュアーである企画者自身が大きな影響を受けている。と同時に、正直に記せば、かねてその活動にどこか腑に落ちないものを感じてもきた。連載第25回は、笑い声も、考え込む唸り声もまじりあうなかで語りあったことの、編集という工程を経由したドキュメントである。
TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Kaori Nishida
──『ケアと編集』は、白石さんが考え続けてきたロジックと、抑えきれぬ情熱が共に刻まれていく文章で、思わぬ飛躍も楽しい一冊です。どんな反応が届いていますか。
白石 まとまりがついていないという感想が少なからずあって、それは私も自覚しているところなんですが……(笑)。とはいえありがたいことに、たとえば看護の仕事に就いている方が「冒頭の10ページで泣いた」とおっしゃってくださって、ビックリしました。小児科医の熊谷晋一郎さんに〈ケアをひらく〉シリーズで書いていただいた『リハビリの夜』を紹介している箇所なのですが。
──『リハビリの夜』は、生まれながらの脳性まひによってほとんど四肢が動かない熊谷さんの、さまざまな経験が書かれた一冊ですね。街中で失禁してしまったとき、これまで知らず知らずのうちに自分を支えていた「地面や空気や太陽」に意識が向いていった瞬間が語られています。『リハビリの夜』のキーワードのひとつは、「敗北の官能」です。


上段左が、小林秀雄賞を受賞した國分功一郎『中動態の世界』(2017年)。広い読者の間で好評を博し、2025年3月には新潮文庫のラインナップに加わった。上段中央が熊谷晋一郎『リハビリの夜』(2009年)で、第9回新潮ドキュメント賞受賞作
白石 加えて『ケアと編集』では、街中で熊谷さんが介助をしてくれそうな視線を飛ばす、私にいわせればナンパするくだりを引いているんです。そこでナンパされた介助者のことを、『ケアと編集』ではこう書いたんですね、「介助者は、太陽や空気や地面と同じ意味で、ケアを提供しているのだと思う。こういう人は、太陽や空気や地面とまったく同じ意味で、高貴な存在だと思う」と。「泣いた」と感想をくださった方は、どうやらこういった言葉を正面切っていわれた経験がなかったようなんです。
──介護の仕事に従事されている方が、そうした評価をなかなか受けないということなんでしょうか?
白石 いや、「看護師さん、ありがとう」「尊い仕事ですよね」といった言葉をかけられる機会は、多いだろうと思います。ただ、『ケアと編集』で熊谷さんの文章をお借りしながら語ったことは、おそらく違う角度から物をいっている、そんな言葉なのかな、という気がするんです。
──その「違う角度」についてうかがわせてください。白石さんがおっしゃるケアは、世間一般でイメージされる「ケア」とはどこか違うと『ケアと編集』では書かれていますね。

白石正明|Masaaki Shiraishi 1958年、東京都生まれ。青山学院大学法学部卒業。中央法規出版を経て、1996年に医学書院に入社。1998年に雑誌『精神看護』を、2000年に〈ケアをひらく〉シリーズを創刊。同シリーズは現在50冊を数え、2019年に毎日出版文化賞を受賞。2024年3月に医学書院を定年退職。現在は同シリーズを後輩に引き継ぎつつ、まだ数冊あるという自身の担当作を編集中。
白石 なかなかその違いを言葉にするのは難しいのですが、ケアをかなり広い意味でとらえていることは間違いありません。たとえば『ケアと編集』では、「未来のために現在を手段にする」ような世の中の「自立/自律志向」や「効率志向」に対して、ケアは「現在志向」で「刹那的」だと書きました。先ほどの熊谷さんの例は、困っている人に手を差し出すケアが世界の「今、ここ」を成立させているという文脈で触れているものです。
──「そうやって整えられた舞台の上で、自己啓発とかリスク管理とかコスパとか一攫千金とか革命の夢とかが、スポットライトを浴びながら歌ったり踊ったりしているわけだ」という一節は強烈です。
白石 ただ一方で、ケアを最初から「いい話」として語り、流通させるということに対しては、ものすごい違和感があるんです。ケアには、「いい話」というよりは、むしろちょっとアナーキーな部分があるというか、従来の枠組みとは異なる視座から世界を見ているところがあるのではないか、と。熊谷さんが「夜」として語っているのは、リハビリに励む「昼」が過ぎた後、トレーナーとの間での身体感覚を思い出す、どこか官能的な時間のことです。ケアといったときに含まれてくるのは、「いい話」に回収されない、こうしたある意味で“ヤバい”部分のことなんですね。普段は見過ごされがちなそうした細部を拡大してみたいと思いながら、〈ケアとひらく〉シリーズも手がけてきました。
──積極的な意味合いにおいて“ヤバい”領域が、ケアにはある、と。

白石 そうですね、既存の秩序が崩壊してしまうスレスレのところをいくといいますか……それぞれが自分勝手に人を助けてしまうような面白さがある。普通の人が「ケア」と聞いてイメージするような「いい話」ではない、そんな混沌とした領域に足を踏み込んでしまう潜在力を、ケアはもっている。そのように、密かに私は感じてきましたし、その潜在力をさまざまな角度から〈ケアをひらく〉シリーズで取り上げてきたと思っています。
──そんな「ケアと編集は似ていると思う」が、「どこがどう似ているのか、それが一言でいえないから、こうして本を書いている」と『ケアと編集』にはあります。そもそも本書の執筆オファーがある前から、ケアと編集は似ていると思っていらしたのですか?
白石 正直にいえば、もともとはそこまで明確には思っていませんでした。ただ、なんとなく似ているということは無意識に近いところで考えていたはずですし、いざ書きはじめたら、ケアと編集が似ていることはほとんど確信してきましたね。具体的にいえば、北海道浦河町にある精神障害者の生活拠点「浦河べてるの家」(以下、べてるの家)のソーシャルワーカー・向谷地生良(むかいやちいくよし)さんの活動が、自分が編集者としてやってきたことと、オーバーラップしていく感覚を強く抱いたんです。
──「わたしの編集の先生」と書かれていますね。〈ケアをひらく〉シリーズを通じてもこれまで、べてるの家や向谷地さん関連の書籍を度々刊行し、白石さんご自身が大きな影響を受けてこられました。

白石 ケアと編集が単に似ているというよりも、べてるの家も私も、共通して対立しているものがあるんです。それは「治療」なんですよ。私のなかでは、向谷地さんが取り組んでいるソーシャルワークも、私のいう編集も、治療じゃないんです。そこにあるものを変えたり治したりして、よりよきものにするのが治療なのだとすると、向谷地さんも私もそれとは全然違うことをやっている。
──べてるの家では、精神病の幻覚妄想を「なくす」のではなく、「幻覚&妄想大会」を開いてコミュニケーションの道具として「使う」。さらには、自分自身と距離をもって、客観的に自分の困りごとのメカニズムを探る「当事者研究」の先駆者としての顔ももちます。
白石 そうした向谷地さんたちのケアが、編集に通じているんです。編集というと、たとえば届いた原稿をガンガン修正していくというようなイメージをもたれる方が多いかもしれません。しかしそうした、自分のもとにやってきたものをいろいろ直して立派なものにして送り出す「医学的編集」は、編集という営みの核心にはないし、もっと違うやり方の編集があるんじゃないかと思います。そして向谷地さんは、ソーシャルワークの現場で、まさに別のやり方の編集をしているんです。つまり問題になっている当のものには手を加えず、その「傾き」が逆に輝いてしまうような背景をそこに持ってくる。
──なるほど。もう一点、『ケアと編集』の印象的なポイントは、「問いの外に出る」という点です。会議だろうとなんだろうと、問いに答えることが日常となっている社会に私たちは生きていますが……

白石 ケアでも編集でも重要なのは、「問われた問題には答えない」ということだと思います。何かが問われる場というのは、あらかじめ答えが想定されているというか、問うているほうも答えがある程度わかっていることが多いのではないでしょうか。だからこそ、その答えに最短距離でたどり着く人間が一番賢い、という理屈でいまの世界は形づくられてきている。しかしケアに取り組んでいる人は、そんな簡単な世界に住んでないんです。
──どういうことでしょうか。
白石 治らない病気をはじめとして、先ほど触れたような意味での「治療」を諦めた地点から、むしろケアははじまるところがある。効率的に治すということが不可能な対象と付き合っていくという「答えのない世界」に入っていかざるを得ない。だからおのずと、既存の問いの枠組みの外へ出てしまうのです。
──インタビュアーはまさに「医学的編集」を叩き込まれてきた身であり、このインタビューも少なからず「治療」しながら問いに回収していく原稿に構成するだろうと考えると──そしてその手つきにも何かしらの意義は残っているだろうとどうしても思ってしまう人間としては──反省的にうかがわざるをえないお話です。
白石 たとえば因果関係を明確にしたり、発せられた言葉の裏にはこんな意味があるとわかるように直していったりということですよね、自分も身に覚えはありますが……。そうした話と直接関連するかは定かではありませんが、「医学的編集」の外という意味では、心理主義ではないところに、べてるの家の面白さはあるんですよ。
──心理主義の外、ですか?

白石 大雑把にいえば、そこにある問題を個人の内面や心理に結びつけるのが心理主義ですよね。言葉の裏に隠された意図を探るというのは、まさに心理主義的なところがあります。それに対して、内面や心理に結びつけない路線もある。言葉であれば、その言葉の裏にあるものを読み取ろうとせず、表に出た言葉だけを扱う。『ケアと編集』で、べてるの家の人々の言葉が「言ったまんま」だと書いたのはそういう意味合いなんです。
──「言葉に粘り気がない」とも書かれていますね。
白石 そうしたやりとりは、途方もない解放感も人にもたらします。表面的な行動だけがすべてになっていくわけですから。実は、心理主義というのは看護や介護の世界で、かなり根強いものがあるんですよ。ケアを提供する側は相手を本当に愛おしいと思う必要がある、だから自分の心を改造していかなければいけない、というような自己啓発セミナーじみた言説は、珍しいものではありません。私からすると、心は関係ないでしょうと思うのですが……
──もっと即物的であれ、ということですね。
白石 そうですね。向谷地さんさんたちは楽観的に周囲を信じて、だからこそ自分のことも気楽でいい加減なままに託していくわけです。そうした「信」に対して、べてるの家のメンバーが東京大学で講演したときに学生が「信じる根拠がないときにはどうするんですか?」と質問したことを、『ケアの編集』では紹介しています。
──正直、いい質問だと思いました。どうしてそんなに無根拠なままに信じられるんですか、と。
白石 根拠なくそう思うことを「信じる」というのだから、定義上、その質問は倒錯していますよね(笑)。それはそれとして向谷地さんの答えは、信じるというのは別にそんな大したものじゃない、ということでした。誰でもポケットからハイと渡せるものだし、それぐらいの感覚で「信」を出せば、向こうも何か出してくれる、と。内面に「信」があるのではなく、対人の関係性のなかに「信」がある。その最初に切るカードは、「信(仮)」と呼べるものです。
──思い出したのは、この連載で前回インタビューした人類学者・里見龍樹さんのことです。初対面だったのですが、原稿には載せていないところで、里見さんの記録写真を投影するプロジェクターの接続がうまくいかず、お互いにあれこれ試行錯誤する時間が冒頭にありました。そういった単純作業によるアイスブレイクが「信(仮)」につながったのかな、などとも思いつつ、いうほど簡単に「信(仮)」のカードは最初に出せるものなのでしょうか。

白石 そうした疑問が浮かぶのは、そもそも「信」が重いと思っているからじゃないでしょうか。
──たしかに……。そこまで重いものではない、と?
白石 なにせ、ポケットからすぐ取り出せるくらいですから(笑)。そうした「信」の重さをめぐる感覚にも、やはり心理主義が根をはっている気がしますね。目の前の人を信じるに足る根拠を自分のなかに発見できないのに信じていいのか、という自己ツッコミが発生してしまっている。真面目であればあるほど、そこには欺瞞があると思って「信(仮)」をひとまずポケットから取り出すことができない。私もどちらかといえばそうしてがんじがらめになってしまいがちな人間ではあるのですが、べてるの家の「信(仮)」はいい加減なんです。
──幻覚妄想を複数人で共有するというのは、そうした気楽な「信(仮)」があるがゆえですよね。
白石 だからこそ、べてるの家で私も救われたところがあるんです。簡単に私のことを信じてくれて、初対面でも普通に喋ってくれるし、コーヒーを奢ってくれと頼まれるし、どんどん渦のなかに招き入れてくれて、こちらもいつの間にか「信(仮)」の場に応えていくことができてしまう。つまりこの時点で、「信」が重いか軽いかという論点から、「信」は個人の中にあるか、他人との間にあるかという論点に移っているんですね。「対人関係としての信」というのは魅力的な発想でした。
──美学者・伊藤亜紗さんの『どもる体』にかんして、同じく吃音者である白石さんご自身にとっても大切な本だと書かれていましたね。ここでも「準備」をせず、自己コントロールを手放したほうが喋るのが楽だという話がありました。

白石 そうですね。自分も吃音持ちとして、うまく喋ろうと準備してしまいがちですが、準備しないでいきなりその場で話を振られて「え、俺?」という感じで喋り出すほうが、緊張感なく話すことができる。何事も、準備していいことはあまりないな、というのが体験的な理解ですね(笑)。というより、準備って情報量が少ないんだと思うんですよ。
──情報量が少ない?
白石 準備というのはたとえば、事前に本を読んだりデータを調べたりして、自分なりにいろいろと世界を解釈していくわけですよね。だけど実際の現場では、そこに漂っている雰囲気といった言語化できないものも含めて、もっと膨大な情報量があるじゃないですか。当たり前ですけど、頭の中より現実のほうがはるかに大きい。
──たしかにこのインタビューも、多少の準備はしつつも「これ以上やっても仕方ない」という感じで、この場に身を投じているところがあります。
白石 この場に対して、自分を「受動的にひらく」のがいいのでは、と思っているということなんです。それは吃音者にとって、ひとまず喋っていくにあたっての、秘訣でもあるんですよ。
──受動的にひらく、というのは普段あまり意識しない感覚です。受け身になることが可能性を広げる、ということですよね。
白石 たとえば、魅入られる能力がすごい人っているじゃないですか。誰かをすぐ好きになってしまうとか、いろんな外国語にどんどんのめり込むとか。それは自分のなかにあるものを発揮する力というよりは、外にあるものを自分のなかに受け入れていく、受け身の力だと思います。もちろん、あまりにも受動的に自分をひらきすぎると、実生活においてはバルネラブル(vulnerable:脆弱な)といわれるような領域に入ってくるのだけれども。私からすれば、感受性が豊かで受け身の能力が高い人が現実世界でなかなかうまくやっていけず、その一方で、鈍感で防御力が高く、外からの影響が少ない人が偉そうにしている世界はちょっと嫌ですね。
──「信(仮)」や「受動的にひらく」という話に通じるかもしれませんが、第一線の作家として活躍し、ADHD(注意欠如多動症)と診断されている柴崎友香さんの『あらゆることは今起こる』を編集されたときのエピソードはグッときました。帯のコピーに、「私の体の中には複数の時間が流れている」という柴崎さんの言葉を大々的に引用しておきながら、響きに惹かれただけでさほど体感的にはピンときておらず、後からだんだんわかってきた、と。

白石 めちゃくちゃいい言葉だなと思いながら、わからないままに帯にして本を出しているという……(笑)。でも、そういうものだと思うんです。たとえば編集者として著者の文章を直すということは、未知のことを既知の世界に収めてしまう作業ですよね。私自身、そうやっていっぱい直した文書や本があまり売れなかったというのも『ケアと編集』に書いた通りです。未知のものを既知に縮減してしまってはよくない。柴崎さんの言葉のように、未知ではあるけれども魅力的な言葉は、できるだけそのまま生かそうと思うんです。
──未知を均さず、そのまま生かす、と。
白石 既知のフィールドの外側にすこし未知の領域があるのではなく、未知のほうがとにかくバーッと広がっていて、ちょこっと既知の領域が存在している、という感じなんです。先ほど「問いの外に出る」という話をしましたが、世の中の問いというものは基本的に範囲が狭くて、既知の領域に実は収まっていることが多い。だからこそ、何か問題について考えるときには、私はその問いが載っている“皿”のほうがいつも気になるんです。
──問いが載っている皿、ですか。
白石 『ケアと編集』では「分母」という表現を用いていますが、与えられた問題設定や分母、すなわちここでいう皿が、私にとっては小さいと感じることが多いんです。世の中の皿のサイズはたいてい、中身がほとんど溢れ出そうなほどギリギリに小さい(笑)。でも〈ケアとひらく〉シリーズに登場してくださった方々の場合は、この問いが載っている皿が大きくて、私はとても魅力的に感じるんですよね。そして編集という行為はどこか、この皿を大きくしようとしているところがある。Aという皿とBという皿をつなげるという行為は、新たに別の大きなCの皿をつくる=文脈を変えるということなのだと思います。そこで開発された新たな文脈を、読者の方は読んでくださっているということなのではないか、と。
──なるほど。ここでひとつ、踏み込んだ質問をさせてください。べてるの家や向谷地さんと二人三脚で、またはある種の師弟関係のもとに歩んでこられた白石さんにあえてうかがいますが、べてるの家の周辺では2020年、その5年前の不祥事にかんするネット上の告発がありましたよね。その後に両者間で和解に至ったとのことですから、詳細をお尋ねしたいわけではないのですが、やはり気になるところではあります。

白石 ネット上での反応を見ても、誤解が広まっていますので、触れることができる範囲でお話ししたいと思います。まず、べてるの家の性加害とされることがありますが、これはべてるの家とは別法人の、「べてぶくろ」という池袋にあったホームレス支援グループでの話です(現在は解散)。もちろん無関係ではありませんが。その活動に参加していた女性が、同じ町内会の男性から性被害を受けた。この加害者は支援グループとは別の、部外者の男性です。問題は、そのことをスタッフに訴えたのにきちんと対応できなかったことです。それで二次被害を与えてしまった、という話です。
──その二次被害にかんする謝罪があり、和解に至ったということなのですね。
白石 司法プロセス的にはそういうことです。若い管理者やスタッフたちは「性被害の訴えがあったらまずは100%真実として被害者の側に立って対応する」という原則を知らないで、さまざまな予断や憂慮をするなかで対応を誤ってしまった。その責任はあるし、それについては謝罪しています。
あと再発防止のための研修を原宿カウンセリングセンターの協力を得て行ったり、先方と文言のやりとりをしながら再発防止マニュアルを作ったりもしたようです。
──それらを含めた詳細な経緯を、支援側はなぜ説明しないのでしょうか。
白石 うーん。そもそも和解内容については守秘義務がありますし、被害者側の同意がなければ語れないことも多いと思います。それでも一般企業なら、自らの立場を守るためにも最低限の説明をすると思うのですが……。私もいちおう法学部出身なので心的事実と客観的事実は弁別すべきという立場ですが、詳細を語ることが二次被害どころか、結果として三次被害を与えてしまいかねないという判断なんでしょうね。多少経過を知っている立場からいわせてもらえば、私はむしろ、語らないことに彼らの支援職としての矜持を感じますね。
──うかがえる限りにおいて、事の顚末は理解しました。とはいえ、このインタビューでお話しくださったような、確たる近代的主体から逃れ去るありようだけでは、現実の世界は回っていませんよね。どこかでやはり、法的な責任を含めて引き受ける主体が必要とされるのだと、日々痛感します。そのあたりは、どのようにお感じになりますか。

白石 まったくその通りだと思います。國分功一郎さんが先に出した『中動態の世界』文庫版(新潮文庫)の補遺で書かれているように、一言でいえば、法体系の中と外の「両方ある」ということに尽きる。被害者と加害者が明確に存在する場合は、やはり法的な責任をとる主体が要請されるのは間違いありません。先の例でいえば性加害をした町内会の男性は厳しく責任を追及されるべきだと思います。
──おっしゃられたことへの反応もまたさまざまにあるだろうとは思いますが、正面からうかがえてよかったです。白石さんへの疑問ということでいえばもうひとつ、前提をひっくり返すようですが、実はケアと編集は似ていないところがあるのではないか、と思うのですが……
白石 それはぜひ聞きたいです。どういうことですか?
──『ケアと編集』で書かれているのは、とにかく「現在志向」のプロセスのなかで問題をやり過ごすことによって、むしろ豊かになっていく世界です。でも何かを編集するときは、実際には原稿の締め切りを設定したり、原稿がきたら目次を立てたり帯を巻いたりして、最後は本のかたちとしてプロセスに一区切りをつけて世に出していきますよね。やはりケアと編集は似ていない気が……
白石 たしかに「商品」という目的を達成するために、あれこれ策略を凝らして本を作っている。まさに『ケアと編集』で否定的に描いた目的志向、未来志向の成果物として本がある。しかし、〈ケアをひらく〉シリーズも『ケアと編集』も、一冊一冊の本のなかで書かれていることはひたすらプロセスについてです。プロセスに着目すれば無理に「変える」のではなく「変わる」ことが可能になる。プロセスの只中に浸っていると、気づいたら自分が変わっていたという体験について書いているんですね。商品としての本の外見は確たるものではあるけれど、中身は流動的なプロセスにかんする記述が詰まっていると、私は思っています。
──プロセスの思考が忍ばせてある、と。そのうえで、やはり「言葉」が重要なのでしょうか。精神科医・中井久夫さんのビジョンに触れながら、白石さんが「“現実”という名の荒馬を、『ドードー』と声を掛けながら手綱を引き、なだめ、落ち着かせ、諦めと安心を同時に与えるのが言語」と書いていらっしゃるのが印象的でした。
白石 言葉がなかったら、世界の複雑さをそのままに受け止めてしまって、その“被曝量”に多くの人は耐えられないと思います。……うまく話がつながるかわからないのですが、今回一冊の本を自分で書いていて思ったのは、「この言葉を解読してくれる人がいる」ということのすごさだったんです。わざわざこんな面倒くさい、自分でもよくわからないで書いているところさえある本を読んでくれる人が、この世界には存在している。それは文化の厚さということでもあるかもしれません。この本が分子だとしたら、分母としての読者の方々の存在という、圧倒的な豊かさを感じます。そう、だからこの本は、勝手に先に「信(仮)」を差し出したということかもしれません。


宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。
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