WORDS TO WEAR

聖母はお預け——連載|鈴木涼美「今日はこの言葉を纏う」20

ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を生んだ。そして、その子を布にくるんで、飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
——ルカの福音書

TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki

築地には未だに堂々とした記念碑がある。大正十三年にパリ外国宣教会の宣教師によって開園した聖ヨゼフ幼稚園は、二〇〇七年にその歴史に幕を下すまで約八〇年間、その地で唯一の私立幼稚園として「なんかちょっと良い教育受けさせたい」とか思う親たちと、まだ自我を持たない幼児たちのために、聖歌やらキリスト教的な規範やらを教えていた。園舎の横にある聖堂は今も残っているはずだが、かつては卒園式などの式典が行われた場所で、正面のステンドグラスが名物だった。

私がそこに通ったのは小学校に入る前の一年半くらいの短い期間で、そもそも三十五年も前なのだから当然断片的な記憶しかないのだけど、人生最初のある程度まとまった記憶というのもそのあたりで、たとえばその前に通っていた区立の月島保育園についての記憶は断片的どころかほとんどない。写真を見たことはあるし、後になって母と歩きながら「ここに一年ほど通っていたわよ」と教えられた大きなモザイク看板は覚えているけれども、そこで動いている自分という具体的なイメージは一切ない。

幼稚園に移ったのは母の仕事が一段落したことと、同じマンションに住む仲良しの友人たちの多くがそこに通っていたがために私が通いたがったかららしい。確かに友人の中でもその後何年も付き合いのあった一人の女の子は、私の最初の親友と言ってよく、やはりヨゼフに通っていた。佃大橋を渡って聖路加国際病院のほうへ行くのは結構な道のりで、気候の良い時期、稀にみんなで歩こう、とならない限りはその親友の親とうちの親と、あとはもう一人仲の良かった男児の親が当番制で車で送り迎えをした。男児は恰幅の良い母親のことを「ハハ」と呼ぶ、ほとんど泣かない気丈なヤツだった。

キリスト教がらみの幼稚園の多くがそうだと思うのだけど、やはり年度も後半となると年の瀬に上演する聖母劇の練習に多くの時間が割かれる。その幼稚園では年長クラスの一年を通して最も大きなイベントがその聖母劇で、肌寒い季節になると配役から衣装や大道具づくり、そして劇の練習と歌の練習で毎日が過ぎて行った。園のクリスマス会が発表の場。ミュージカル仕立ての聖母劇は、慎ましい暮らしをしていたマリアのもとに大天使ガブリエルが神の子が生まれることを告げにやってくるところで幕が開く。ヨゼフとともにベトレヘムに向かい、すべての宿屋に宿泊を断られて厩で出産、三人の博士や羊飼いに連絡がいき、最後にみんなでグローリアと歌って幕が閉じる。

園児たちにとって重要なことは当然誰がどんな役をやるかなのだけど、正直このストーリーで美味しい役どころなんてマリアとガブリエルくらいしかない。他の端役との格差があまりに激しいので今の私だったら宿屋の亭主と妻のひと悶着とか、三人の博士の日常とか羊飼いたちの恋とか、色々サイドストーリーを考えてバランスをとると思うのだけど、生真面目な先生たちに聖母劇をいじるような発想はなく、その代わりにあったのが、「博士たちにイエスの誕生を告げるお星さま」や「ガブリエルのまわりできらきら光るオーラ」など生物ではない役柄だった。

全女子の「やりたい」がマリアやガブリエルに集中するかと思いきや、子どもの考えることというのは大人の想像とは別のところに向くので、貧乏くさい格好をさせられるマリア役や、天使だけど実は男とクラスで噂されていたガブリエル役に立候補したのはそれぞれ三人くらい。意外と人気があったのは、「泊めてください」に対して「だめだめ」と言う宿屋のおかみさんたちの役で、なるほどマリア役より良い服を着られるし、いじめられるマリアとヨゼフに対して上から目線の宿屋になりたいと思う園児がいてもおかしくないのだ。

私も慎ましく暮らし、苦労していじめられて母になる、というマリア役には何の魅力も感じられなかった。私は「お星さま」役に立候補したもののくじ引きで負けて、ちょうどその頃短く切った髪がそれっぽいという理由で男子たちと一緒に羊飼い役にまわされた。いいしらせを聞いてかけつける羊飼いたちは衣装は地味だけれどももこもこの綿でつくった羊を連れていて可愛いのでそんなに嫌じゃなかった。髪を結んだ、苦労している母の役よりはよかった。その頃から母というものに距離を感じていたような気もする。

 

profile

鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)『浮き身』(新潮社)『トラディション』(講談社)、「源氏物語」を題材とした書簡形式の小説『YUKARI』(徳間書店)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に、『不倫論: この生きづらい世界で愛について考えるために』(平凡社)。