WORDS TO WEAR

いつでも行ける店はない——連載|鈴木涼美「今日はこの言葉を纏う」18

飲食店は料理や酒を出して利益を得ているだけの存在ではない。店主はそれぞれ、こんなものを世の中に提供したいという志をもって開業し、それが支持されて繁盛店にもなり、何代も続く老舗にもなる。
——福田和也『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』より

TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki

すごく好きだったのになくなっちゃって残念、いつでも入れたし便利だったよね、と割と近くに住む友人と喋ったものの、実は二人ともその店に二年以上行っていないことに気づいた。その店とは明治通りから住宅街に入ってさらに奥まった路地の先にあった中華料理屋で、何を食べても割と美味しく、予約なしでもほぼ確実に入店できる良い店だった。コロナ禍からしばらくして突然閉店し、いつのまにか建物も壊されてしまった。近所にあるそのような店だから、いつでも行けると思ってあえて選ばないことが多かった。

最後に行ったのはたしか近くでアパレル関係の店を運営している先輩と、そのショップの展示会か何かの帰りに、適当な店でいいかと言ってやはり予約もせずに四人で押し掛けたときだった。別にどうしても行きたいと誰かが熱烈に希望したわけでもなく、あそこならきっと入れるよね、という感じで自然と決まった。パクチーがひとパック以上どっさり乗ったピータン豆腐や唐揚げや担々麺を適当に頼み、だらだらと喋りながら閉店時間間際まで居座ったのは覚えている。客入りはまばらで、六人が余裕で座れるくらいの大きなテーブルを使わせてくれた。

なくなってから、こういう時あの店があればよかったと思うことが増えた。実際、店がなくなってから一緒に暮すようになった夫に何度か口に出して、「好きで便利な店だったのに、なくなっちゃったのよ」「あの店があったら今日とか行きたかったのに」とあの中華屋のことを伝えた気がする。勝手なものだと思う。好きだ便利だなくならないでと思いながら、少なくとも二年以上、あの店に入らなかったわけだし、客の入りや売り上げを気にしたこともなかったのだから。

思えば似たようなことは学生時代に暮した横浜市中区の裏通りにあるステーキ・ハウスでもあった。ステーキ・ハウスといってもカウンターしかない洋食屋で、私は結局一度もステーキを食べたことはなく、お昼に提供されるカキフライとハンバーグを一回ずつ食べただけだった。普段は白っぽいクリーム系のソースがあまり好きではないのだが、その店の別添のタルタルソースがとても美味しかったので何人かにすすめたことはあるし、地元のお気に入りの店と自分では思っていた。

それでも若い私にとって行きつけの店を作ることの尊さみたいなものはあまり実感がなく、新しくできた店に行ってみるとか、まだ行ったことのない店を開拓するとか、そういうことの方が魅力的に思えた。結局、二回しか行かないうちに店主の体調の都合で長い休業、そして閉店となってしまった。なくなってから、タルタルソースが食べたいと何度か思ったし、今でも覚えているくらいは気に入っていた。それでも実際には二回しか足を運ばなかった。誰も行かなければ飲食店はなくなる。自分が行かなくても誰か行く、と全員が思えば苦境に立たされる。そういう当たり前のことは、飲食店が立ち並ぶ都心でなかなか意識しにくい。

文芸評論家の福田和也氏が亡くなった。私にとっては、大学時代に文章を書くとは本来的にどういう事態かというのを直接教わった恩師でもあった。大学を抜け出した先にしか興味が持てなかった私が、ひとたび大学に戻り、本を読んで日本語を紡ぐ日常を築く土台を作ってくれた先生だ。長年体調を崩されていたようで、昨年刊行されたコロナ禍に贔屓の店を訪ねまわる短い本『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』の表紙には、一時期のふくよかな姿からは想像し難い、すっかりスリムになった師の姿があった。「靖国神社よりもキッチン南海を守る」と公言し続けた保守思想家はその本の中で、「毎日、とは言わないまでも日常に通う店、つまりは自分の生活スタイルを保持すること、そのために失われやすいものに対して、鋭敏に、かつ能動的に活動する精神」を説いている。美食家としても有名だった。

 

profile

鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)『浮き身』(新潮社)『トラディション』(講談社)、「源氏物語」を題材とした書簡形式の小説『YUKARI』(徳間書店)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に、『不倫論: この生きづらい世界で愛について考えるために』(平凡社)。