WORDS TO WEAR

引き延ばした先にあったもの——連載|鈴木涼美「今日はこの言葉を纏う」17

「その時救われる」って残酷なんだぜ
いっそ早めに沈めてもらった方が傷が浅くて済む
——おかざき真里『かしましめし』より

TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki

西新宿と北新宿を隔てる、税務署のある通りを歩くのは未だにあまり気が進まない。職安の方からガードをくぐると派手なホスト看板があり、米国の有名な宗教団体のビルがあり、車屋やコンビニがあり、私がかつて三年ほど暮らしたマンションがある。そこで嫌な出来事があったとか、傷つけられたとか、トラウマになったとか、そういったことは大したことではない。今まで住んでいた十五カ所以上の家それぞれにそれなりに嫌な思い出はあるし、それなりの傷やトラウマもあるし、良い思い出もある。そんなことはどうでもよくて、そのマンションに暮していた時の自分の愚かさを、未だに直視できないでいるのだ。

思えば変な作りの部屋だった。日本の住宅なのに玄関土間がなく、入口からいきなりめちゃくちゃ冷たい石の床の廊下が三方に伸びている。風呂場に続く廊下には同じ冷たい石張りの洗面所があり、一方はトイレの扉と物置に、最後の一方はリビングダイニングに繋がる。リビングは玄関や廊下と打って変わって床暖房で暖かかったが、三角形に近い、歪な台形をしていて、テレビやソファや本棚を平行に置くことができなかった。その左奥にあるベッドルームは対照的に真四角で、ダブルベッド一つ入れると他にあまりものが置けない。だから眠るときとクロゼットから服を選ぶときを除くと、家にいるほぼすべての時間を、使い勝手の悪い三角リビングで過ごした。

引っ越しの初期費用を出したのは男だったが、結局毎月の家賃はほぼすべて私が支払っていた。今思えば、私と暮らし始めた直後に別の女ができて、その女と過ごす部屋の家賃を払い始めたから、こちらにはできるだけお金を割きたくなかったのだ。家に帰るのが極端に遅く、時には丸一日帰らないことがあっても、それが一緒に住み始めて比較的すぐだったので、もともと不規則な生活なのだと私は変に納得して疑ったり不安になったりするきっかけを失っていた。付き合って一年、別々に暮らしていたときの方が時間や話題や楽しみを共有していた気がしたが、住処を一緒にしたことによって関係がマンネリ化しただけだと思いたかった。一緒に住んでいるという安心感が、本来若くて不安定なはずの私の敏感さを鈍らせた。

酩酊状態で突然帰ってきた彼に、これ、頼まれていたやつ、と言われて、頼んだ覚えの全くない冷えピタとファミチキを手渡されたこともあった。その頃には週の半分くらいしか家には帰って来なくなっていた男が、予告なしに私と暮らしているはずの家に帰ってきたことが重要で、他のことが些末なことのように思えて、別にいらないチキンを齧って冷えピタを貼って、何も気づかないふりをし続けた。どうやらあそこの店の女の子と住んでるっぽいよ、というような話はすでに散々聞いていた。でもそういう話を聞いた日に限って彼が早く帰って来たり、翌日どこかに出かけたりして小さく満たされることが多かった。小さく満たされることで延命され続けた関係は、結局彼がその新しい方の女と上手くいかなくなって再び私とほとんどの日を暮らすようになり、さらに月日が経って私の方に不都合ができるまで三年も続いた。

私よりさらに五歳以上若い女に入れあげた男に、あるいはほかにも遊んだり寝たりするような女がいるような男に、信頼も愛情も残っていなかったのに、結局私のところに戻ってきたという事実や、なんだかんだ長く付き合っているのは私だったという事実が必要な気がして、小さく救われながら、根本的なところは何も救われずにある日家を捨てることを決めた。彼もだらしないが、私が愚かだった。あれほど相手のことを見ず、自分の小さな自尊心を決定的なところで傷つけないためだけに続けた恋愛はなかった。恋愛と言ったって恋でも愛でもなく、誰かに盗られた女のまま終わりたくない私の、私による、私のための嘘っぱちの部屋だった。

今私が暮らす部屋は、当時住んだ変な作りのデザイナーズマンションに比べるととても庶民的で慎ましく、古びた造りで、マンション名もよく見るとダサい。ただ、少なくとも今は失うことが自尊心を傷つけるからというような拗れた理由ではなく、もっと単純な理由で選んだ人と暮らしているから、蓋をし続けたあの家やあの家のある通りのことを少しくらいなら思い出せるようになった。

おかざき真里作品には現代の都会で溺れそうになりながら、なんとか溺れないで生きている私たちの、聞きたいけれど聞きたくない心の声、聞きたくないけど聞かなくてはいけない残酷な真実が詰まっている。何かしらの喪失と傷を持ち寄った男女三人が美味しいご飯にすがりながら暮らす部屋を描いた『かしましめし』の、三人の恩師の言葉を読むと、当時の、焦点の合わない自分の気分を思い出して、少しいたたまれない気持ちになる。

 

profile

鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)、『浮き身』(新潮社)、『トラディション』(講談社)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)、『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)、『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に、「源氏物語」を題材とした書簡形式の小説『YUKARI』(徳間書店)。