少女たちは、少女だからといって、決して無力なんかではないのだと、信じたかった。——小林エリカ『女の子たち風船爆弾をつくる』より
TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki
あの頃、佃大橋を渡ったあちら側には今のあのあたりを知る人からすればあまり何もなかった。大きな商店街といくつかのマンション、それから大量の倉庫。タワーマンション群も綺麗な遊歩道も大きなスーパーもなかった街は、それでもそこで生まれた小さな私にとってはとても大きく、何でも必要なものはあるように思えた。橋を渡ればさらに広い世界があるのは知っていたけど、マンション周辺だけでも十分に道に迷うことも途方に暮れることもできた。
マンションの向かいにピカピカのLAWSONができたとき、同じマンションの子どもたちは皆んなとても興奮して、しばらく毎日そこへ通って、パナップやパピコを選んでは母親にねだる日々を送ることになった。それまで私たちが好きだったのは商店街のお肉屋さんのコロッケや骨付きチキン、リアカーの大学芋、パンダの絵がついた蒸しパンを置いているベーカリー、文房具屋の店先にある匂い玉やねりケシの箱。コンビニのキラキラを知った後にはどれも少し退屈で、くすんで見えた。
保育園は商店街の先にあったけれど、年中さんの年からマンションの皆んなは橋を渡って大きな病院の近くにある小さな聖堂のある幼稚園に通うようになり、半年遅れて私もそうした。日常の世界が少し広がって、でもかわるがわる誰かの母親の車で送られる幼稚園は橋の向こうというよりはマンションの続きのようで、先生も裾の広がった園服も好きだったけれど、自由に遊べる場所ではなかった。
幼稚園のクラスでは三人の目立つ男の子たちが提案する遊びが正義で、別にそれぞれのグループで好きに遊んでいる時間もあるのだけど、小学生みたいに身長が高く、声も大きい彼らに砂山を壊されたり場所や遊具を奪われたりすればそのままその遊びは終了するのだった。クラスの女の子たちは大抵、その三人のうちの誰かを「好きな人」にして、お嫁さんになることを夢想した。私は三人の中では一番背が低くて運動神経の良い、市場の近くに住んでいる男の子が好きだった。誕生会に招待すると、うさこちゃんのイラストの入ったタオルを綺麗な包装紙にくるんで持ってきてくれた。
女の子と男の子は幼稚園ではそのようでも、毎日帰るマンションのなかでは少し様相が違う。マンションの子どもは女の子が多くて、さらに聖堂のある幼稚園に通う子どもとなるとさらにその割合は片方に極端によっていた。とりわけ仲の良かった五人組は全員女の子で、そこに時々、三つ年上の小学生のおねえちゃんのいる、色の白い男の子が混ざって遊んだ。LAWSONに行くか商店街まで出るかを決めるのも、マンション四階にある小さな公園で遊ぶかマンションを出たところにあるブランコと鉄棒のある薄暗い公園で遊ぶか決めるのも、五人のうちの誰かで、色白の男の子は反対せずに付いてきた。
どうしてあんなことをしたのか、ある日の午後、五人の中でもとりわけ仲の良かった私ともう一人のいつも高い洋服を着ている女の子は、マンションのそれぞれのおうちのポストにささった夕刊をすべて抜き取り、それを四階の公園に向かってひらひらと落とすという遊びを企てた。コの字型のマンションは全てのお部屋の入り口が四階の公園に面している構造で、十三階から順番に、くるくる回りながら落としていって、私の住む六階に降りてきたあたりで母に捕まった。うちの母は、娘に高いお洋服を着せて、自分はさらに高いお洋服を着ている美人と協力して一軒一軒どこの新聞をとっているか聞いて、四階から拾い上げたそれらを配って歩き、私たちもその横で深々と頭を下げて回らないといけなかった。
でもあんな遊びは幼稚園の権力者たちにも、きっと橋を渡った先に住む小学生の男子たちにもできない。私たちはマンションの中では最強で、だから私たちの未来が、三人の目立つ男の子たちの未来に比べて、暗いとも不自由だともつゆほども思わずに生きてこられた。ただ、三人の男の子たちに夢中だった時のような恋心からはなかなか自由になれず、その不自由は時々ふるえるほど嬉しくて、やはり時々ふるえるほど苦しかった。
戦前から戦中、戦後を生きた女の子たちのたくさんの記録や実際の声から紡ぎ上げた小林エリカさん『女の子たち風船爆弾をつくる』は、今よりずっと男の子に求められるものと女の子に求められるものが違う時代の物語だ。戦争は男たちの始めたものであっても、その中を生きた女の子たちはそれぞれがやはり戦争の物語の主人公で、言葉が反復していく著者の文章によって、彼女たちの音、彼女たちの匂い、彼女たちの願いがカラフルに立ち上がっていくようだった。
鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)、『浮き身』(新潮社)、『トラディション』(講談社)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に、「源氏物語」を題材とした書簡形式の小説『YUKARI』(徳間書店)。
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