あいかわらずくつ下の先っぽたるませて歩いてるし エビ天は最後まで大切にとっておく 友達は1人だし ホントは男のことなんて実際どうでもいいと思ってる
——安野モヨコ『後ハッピーマニア』より
TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki
大学のあった湘南台という駅は、横浜市営地下鉄、相模鉄道、小田急線、と私鉄が三路線も集まるとはいえ、駅前を離れればひたすら続く住宅街が退屈な郊外の街だった。駅前と言っても何か特徴的なものや賑わいがあるわけでもなく、いくつかの居酒屋とコーヒーショップが集まるだけの素っ気ないもので、駅の階段を上ったところにあった大きな書店はそこに奥行きを与えていたものの、それも私が四回生になる頃には大きなパチンコ屋に変わってしまった。大学生が必要とするのはフィクションや思想よりパチンコ玉でしょと言われている気がして悲しかった。なんどか打ちに入ったけれど、お札を吸われて終わった。
多くの同級生たちはその駅を何もなかった、と記憶している気がする。記憶の中の駅前の光景にはたしかに大したものは何もなかったのだけど、でも実際は二十歳前後の私にとって、最も必要なものがすべてあった場所でもあった。大学から乗るバスを降りて駅を跨ぎ、少し歩いくと友人が借りている部屋があり、そこは私たちのたまり場と化していて、予定のない日は勝手に上がり込んで適当な野菜炒めを作ってみんなで食べたり、なぜか置いてあったアフリカの太鼓を叩いてストレス発散をしたりした。地下鉄の駅を上がったところにある居酒屋ではほぼすべての打ち上げや歓迎会などの飲み会が開かれた。
一軒だけあったカラオケは、駅前のロータリーから大通りへ出る途中の雑居ビルの四階で、部屋によってはマイクの調子が悪く、フードは全て冷凍食品で、すべてのソファのカバーがどこかしら切れていた。店員は愛想が良いとは言えなくて、ドリンクが出てくるのも遅いが、三時間パックや六時間パックにいくらかプラス料金を払うと持ち込みができた。私たちにはそれで十分だった。下のコンビニで缶酎ハイとお菓子を買い漁って、それをかついでから四階へ上がった。そもそも六時間も部屋を占領し、それを延長して朝までいてもとてつもなく安いのだ。
曲を入れるのは入室してかなり時間が経ってから。まずは乾杯して誰かの彼氏の悪口あたりでおしゃべりが始まると、あとは音楽を鳴らしていない部屋が静まり返ることは一切なかった。三時間おしゃべりして二時間歌って、さらに一時間、バイト先の上司の不倫事情や彼氏の元カノの悪口を肴に飲んでも物足りなかった。私たちはそれぞれ学校ではそれなりに勉強をして、学校の外では華やかな自分の世界に接続されていた。何もそんな破れたカーペット生地のソファに座らなくとも、最新のデンモクが使える都心のカラオケに行くこともできたし、歓楽街で男のいる店にも飲みに行けた。有名な人を紹介してくれるおじさんとの食事に付き合ってもいいし、ホステスの真似事で儲けてもいい。いい車に乗った男の味比べも、彼氏にクリスマスにもらうマルチカラーのバッグを選ぶのも楽しかった。
それなのになぜか、そのカラオケにいる時間は、この時間さえあれば別にほかのことはどうでも良いことのように思えた。彼が別のキャバクラ嬢に入れあげているらしいことも、仲良しのホストに隠し子がいるらしいことも、浮気性の男が最近冷たくなったことも、まだ一つもエルメスのバッグをもらったことがないことも、全てどうでもよかった。むしろ、外の世界でいちいち男とご飯を食べたり、映画見て家によってセックスしたり、好きになって束縛して嫌いになって別れたり、そういう全てが、この場でのおしゃべりのためにあるような気すらした。男なんて実はどうでもよくて、女友達に話す愚痴と悪口、自慢のためにいるようなものだった。だからあのマイクがしょっちゅうキーンとなるカラオケが、そしてそんな店しかないあの駅前が、人生において少なくとも一時期最重要拠点だった。
『後ハッピーマニア』は安野モヨコ不朽の名作『ハッピー・マニア』のその後のお話で、アラフィフになった主人公たちの不倫、結婚、離婚事情などが、きれいごと抜きで描かれる。あらゆる「その後」が詰まった作品だが、男と女が次々に関係を変えていくのに対して、主人公と親友のほとんど変わらぬ関係は、やはりどんどん変わっていく世界の中で生きている女としてとても心強いものだ。「人間歳とったくらいじゃそう簡単にかわんないよね」という言葉に続く会話に、重要だと思っているものと副次的なものだと思っているものは実際は逆であることも多いんだよな、と妙に頷いてしまった。
鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)、『浮き身』(新潮社)、『トラディション』(講談社)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。最新刊に、「源氏物語」を題材とした書簡形式の小説『YUKARI』(徳間書店)。
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