膨張する世界の一端をつかまえたいとき、翻訳は大切な回路になる。しかし、何を、どのように訳せば、その一端をとらえたことになるのだろうか。折しも翻訳という営みは、AIの普及などに伴い、だんだんと時間をかけないものになりつつある。そんななか、世界のそこかしこで生まれる新しい文学との“出会い”を大切に、一文一文を丁寧に訳している人間もいる。 インタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」第9回のゲストは、アメリカ文学研究者・翻訳家の藤井光だ。翻訳の最前線で活躍し、以前から「アメリカ」の枠におさまらない英語圏文学を訳してきた藤井だが、近年訳出する作品はさらに多様になり、たとえばシンガポール発の情感豊かな短編集を日本語訳するようにもなっている。しかもその小説たちは、日本語で読む私たちの足元をも、そっと照らし出すような小説になっているという──。藤井が籍を置く東京大学人文社会系研究科・文学部の、国際色豊かな「現代文芸論研究室」を訪ねた(本文に登場する書名は、特筆なき場合は藤井訳)。
TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Kaori Nishida
──インタビューをお受けいただき、ありがとうございます。依頼時に、「『編集できない世界』はとても重要なコンセプト」だとお返事を頂戴しましたが、ご専門において、どのように「重要」だと思われたのでしょうか。
藤井 私がフィールドにしている現代アメリカ文学にせよ、あるいは英語圏の文学にせよ、その範囲のなかだけでもあまりに作品の量が膨大で、そして日々、変化が激しいんです。書き手の感覚も、その書き手をめぐる環境も目まぐるしく変わっていますし、そのうえで私が読める範囲、日本語に翻訳できる範囲や量は、ものすごく限定された、微々たるものになります。今回インタビュー依頼をいただいて、「編集できない世界」という言葉を目にしたとき、広がりゆく世界のなかで不安も抱きながら仕事に取り組んでいる自分の感覚に、どこか近しいものがあるのではないかと感じました。
──はい、近いところがあるように感じます。
藤井 振り返ってみると、「翻訳者としての自分」のとらえ方も、だんだんと変わってきたんです。かつて現代アメリカ文学の研究をはじめて、そこから徐々に翻訳の仕事が増えていったときには、自分の役目は「癖のあるフィルター」だと思っていました。何でも訳すというのではなく、自分のアンテナに引っかかった、思い入れのある作品のほうが、いい翻訳に仕上げられるというのは間違いありません。翻訳家は誰もがそれぞれの文脈のなかで仕事をしますし、私もそうしたフィルターのひとつであるとは現在も考えているのですが、ただその癖は無条件でもちつづけていいものかどうかというと、そうもいえないということを近年自覚したんです。
──どういうことでしょうか。
藤井 2018年ごろ、出版界でいろいろな出来事が重なったとき、自分の訳業を省みたことがあったんです。すると、女性作家の作品が2冊しかなく、他はすべて男性でした。エスニシティでいうと白人以外の作家も訳してはいたのですが、ジェンダー比率にかんしては、自分の癖というより、これは単に無意識のバイアスであると気づいたんですね。たしかに翻訳家はフィルターではありますが、しかし偏った回路は是正しないといけない。これから長い時間をかけて、将来的に数十年という訳業に達したとき、ジェンダー比がフィフティ・フィフティになっているよう、自分の癖を直している最中なんです。
──人気ミュージシャンのジャネール・モネイらにも支持される女性のSF作家、オクテイヴィア・E・バトラーの『血を分けた子ども』の訳出などは、そうした近年のお仕事のひとつですね。以前から多様な作品を訳されている印象がありましたが、まさに5年ほど前から枠がより広がっており、さらにその多彩さの裏には「アメリカ」や「英語」をめぐる問いも含まれている気がします。
藤井 これもまた私のなかで変遷があると感じます。当初は、アメリカ作家がアメリカをどう引き受けるか模索する小説、具体的にはポール・オースターを研究し、そこから徐々にデニス・ジョンソンといったアメリカの作家たちの翻訳を手がけるようになっていきました。その後、外からアメリカにやってきて、英語で書く作家たちの層がとても厚くなっていることに気づき、そうした書き手たちの作品を訳していくことになりました。メキシコ生まれで英語が第2言語であるサルバトール・プラセンシアの『紙の民』。レバノンのベイルート生まれでカナダで生活し、英語で執筆しているラウィ・ハージの『デニーロ・ゲーム』。ベオグラードから各地を転々とし、アメリカに移住してきたテア・オブレヒトの『タイガーズ・ワイフ』……こうした作品を2010年代前半に日本語に訳したのが、ひとつの転換点になりました。
──どんな発見があったのでしょうか。
藤井 両親に連れられて幼いころに移住した作家が多いので、アメリカに移民してきた苦労などを書くのではないかという思い込みが私にはあったのですが、むしろアメリカは作中にほとんど登場しないということさえあるんです。母国らしき土地がおぼろげな、まるで幻想の風景のようなかたちで舞台にされていることもあり、読んでいて新鮮な感覚を抱いたんですね。作家たちはなんらかのかたちでアメリカという土地を経験し、場合によっては教育過程で英語を学んでいるけれど、それはあくまで偶然であって、だからこそ彼らは特にアメリカ作家の看板を背負うこともない、という感じなんです。
──アメリカを背負わずに英語で書く、と。
藤井 そうした作家を追いかけるうちに、今度はアメリカの外で、英語を用いて書くような作家にも出会っていくんです。たとえばアルフィアン・サアットはシンガポールを拠点としつづけており、シンガポール社会における英語教育を受け、主に英語とマレー語で作品を書いている。このように、アメリカの外で生まれた作家の英語作品に出会う機会が、近年だんだんと増えてきています。いや、元からいた人たちを、ようやく私が視界にとらえることができている、ということかもしれません。
──サアットの『マレー素描集』は、ほんの数ページの、とても読みやすい作品が連なることで、シンガポールに生きる人々の情感や、社会に走る細かなひび割れといったものが浮かび上がる、見事な短編集ですね。国を出ていった息子をカラオケの画面のなかで見つけた父親や、クアラルンプールのナイトライフのなかで何かを探している若い女性たちなど……。
藤井 サアットは小説家・詩人・翻訳家であると共に劇作家として活躍しており、多くの戯曲を書いてきているのですが、『マレー素描集』の各短編の舞台や場面も、たとえば部屋のなかや街角というように、非常に限定的です。そのシンプルな背景のなか、作品ごとにいろんな人物が入れ代わり立ち代わり登場し、どのキャラクターも生き生きとしている。そしてとても複雑で、容易に解決できない問題の絡み合いが描かれていきます。私が特に心をつかまれたのは、2つめの短編である「ふれあわない手」、原題はLosing Touchという作品でした。
──シンガポールの「マレー人ムスリム学生優等生表彰式」で賞状をもらう際に緊張した「私」は、大統領との握手を忘れてしまう。「一夜にしてマレー人の社会的孤立の象徴」になってしまった私は大統領に釈明の手紙を出そうとしますが、郵便ポストの前で「シンガポール」/「その他の国」というふたつの投函口を見て考え込む、という短編です。華人が人口の大半を占めるシンガポール社会での、マレー系住民のふとした瞬間が描かれます。
藤井 多文化社会であるシンガポールのなかで、サアットを含めたマレー系住民はマイノリティであるわけですが、そうしたマイノリティとマジョリティの関係性はもちろんのこと、他の短編ではマイノリティのなかでも運命がわかれてしまう人たちのことなども描いています。そしてこれも印象的なのですが、サアットはそうした物事を英語で書いている自分自身、つまりは「マレー語を話すマレー人について英語で書いている自分」のような存在のことも書いているんです。
──現在のシンガポールでは標準中国語・タミル語・マレー語・英語が話されるなか、中華系の英語話者がマジョリティということですが、描き込まれるのは、そうした社会で教育された英語で執筆しているマレー系住民としての作者の姿、ということでしょうか。
藤井 そうですね。たとえば「ポンティアナクのお話」という短編では、精神科の実習生だった「彼」と、ある女性患者の出会いが描かれます。患者は彼女自身が「ポンティアナク」というマレーの神話に出てくる幽霊になってしまったと思い込んでいるのですが、それを見守る「彼」は実は作家としての顔ももっていて、この女性の症状は作品に使えると感じる。作品のラストは「想像力の貧窮ぶりと不誠実さにおいて、彼は初めて、書くという行為はどう見ても吸血鬼のようなものだと認める作家になるだろう」という一文で終わるのですが、実はサアット自身がシンガポール国立大学医学部を中退した人なんです。
──なるほど……。
藤井 エリート中のエリートのコースを歩んでから作家になり、マレー語も英語も操ることが出来る作家の分身が作中に登場する。そんなサアットは、シンガポール社会のマイノリティについて書くことで、国際的な名声をも獲得していく。その営みは自分が描いている対象からの搾取のもとに成り立ってしまっているのではないか、という問いが作品に織り込まれているんですね。
──そうした問いはやがて、本書を「いい話」だと感じて受容する、私たち読者も巻き込んでいきます。藤井さんは、共著『現代アメリカ文学ポップコーン大盛』(書肆侃侃房、2020年)で『マレー素描集』についてこう書いています。「いかにもリーダブルな物語を巧みに提示しつつ、その物語を共有する『共犯者』という位置をあぶり出すこと。その問いに一度触れてしまえば、書き手も読み手も無傷ではいられない。だからこそ、この素描集は身に沁みるのだ」と。
藤井 そもそも本書は2012年にシンガポールで刊行された後、2018年にアメリカで刊行されたことで、アメリカ文学をフィールドにしている私も本の存在自体に気づき、手に取ることができたという経緯があります。そのうえで言葉を選ばずにいえば、私たちがグッド・ストーリーだなあと思って『マレー素描集』を読んでいても、ふと気づくと、まるで他人の生活をだしにして、いい時間を過ごしているような感覚にもなりうる、ということなんですね。それでもやっぱり私もグッド・ストーリーというのは読みたいものですし、だからこそ改めて、「自分が何をグッドだと感じるか」ということの問い直しは、つづけていきたいなと思います。
──他にもさまざまな作家の作品を手がけていますね。
藤井 語りの視点ということについては、他の作家、特に移民作家が英語で英語圏以外の土地を書いたものを読むと、読者である自分にも問いが向けられていると感じるときがあります。英語によって何をしているのか、という問いを書き手が抱えていて、それが作品の大きな枠組みにまで反映されていることがあるんですね。たとえばパキスタン生まれのモーサン・ハミットによる『西への出口』(新潮クレスト・ブックス、2019年)は、内戦がひどくなってきた中東と思しき土地から男女が脱出していく話です。語りの視点は基本的に三人称なんですが、時折、カメラやドローンで眺めているような視点だと感じる場面が出てくる。移動する人々を見つめて寄り添う読者の視線と、移民や難民を監視する視線が一致させられてしまうときがあるわけなんです。
──思わず我に返りますね。
藤井 あるいはペルー・リマに生まれ3歳で渡米したダニエル・アラルコンの『夜、僕らは輪になって歩く』(新潮クレスト・ブックス、2016年)は、21世紀、内戦後のペルーらしき架空の国のなかを巡る小劇団がいて、彼らが経験した事件を「僕」が後から追いかけて書いていくという構造になっているのですが、しかし「僕」は何の権利があってそんなことをしているのか、という問いが後半になってせり出してきます。作者のアラルコンは当初、この小説を劇団の人物の視点で書いて完成させていたのですが、読み直した結果、ほぼすべてといっていい原稿を捨て、「僕」の視点で書き直したといいます。書こうとしているストーリーは間違っていない、でも語りの視点がおかしい、と。ペルーについて英語で書くということがもたらすもの、可能にするもの、奪われているものに、作家はものすごく敏感なのだと思いますし、ある意味で「編集」的な視座で、描きゆく出来事に接している面もあるのかなと思います。
──中国に生まれ幼少期に渡米したリン・マーが、コロナ禍前に書いたパンデミック小説『断絶』(白水社エクス・リブリス、2021年)は、もはや書かれている対象が読者であるような感覚になりますね。ニューヨーク・マンハッタンにいる主人公の女性は、グローバルな下請け構造のもとで聖書をつくる出版制作会社に勤めている。一方で、世の人々はそれまでの生活習慣を繰り返しながら死に至る奇病「シェン熱」におかされ、ゾンビ化していきます。
藤井 グローバル化された不均衡な収奪構造のなかで生きているということを、書き手たち自身が、まず受け入れざるをえないということなのだと思います。その構造に対して抵抗する、外にいる自分というものを、確保できない。『断絶』のなかにも印象的なシーンがありますよね。まだ世界が「シェン熱」の流行にみまわれる前、もう仕事を辞めようと退職願いを出した主人公がふらっとアパレルの下着売り場にいくと、そこで売られているものは「中国製」「バングラデシュ製」「パキスタン製」……。「どこに行ったとしても、この世界の現実から逃れられはしない」と、彼女は勤めに戻っていきます。ものすごく身につまされる話ですよね。辞めますといって外に出られるかというと、外がない。ゾンビ化した人間も、システムが壊れてなお、同じことを繰り返している。
──そうした外部のないシステムのなかで、英語で書く、ということは何を意味しているのでしょうか。書き手たちはむしろ、ハッキング的に問いを忍びこませているような感覚も抱きますが。
藤井 参考になるのが、ローレンス・ヴェヌティ『翻訳のスキャンダル:差異の倫理にむけて』(秋草俊一郎、柳田麻里・訳、フィルムアート社、2022年)という本です。そこでは「現地語の語彙や構文の痕跡がうかがえる」「トランスリンガリズム」に触れている個所があるのですが、これは植民地において支配的な言語に対する抵抗といえるものです。イギリス領だったナイジェリアでは、ヨルバ語の要素が織り込まれたエイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』という名作が書かれたのですが、この作品においては「借用語は英語を見慣れないかたちに変えてしまう」。文法としてはおかしくても、それは植民地支配において正しい英文法を浸透させることに対する抵抗になっていた、ということです。こういう試みは英語圏に限らずフランス語圏の植民地でもおこなわれましたし、支配的な言語を変形させ、ノイズ化していく手法は長くありました。その流れが近年、すこし変わったかなと私は感じています。
──どういうことでしょうか。
藤井 21世紀の英語圏文学の書き手の場合、非文法的といいますか、そこまで英語を崩すような書き方はあまりしないんです。非英語圏の作家を翻訳しているというと「英語が特徴的なんですか?」とよく質問されるんですが、特に英語として引っかかるところがないことが多い。もちろん書き手がアメリカでの英語教育を受けているというケースもよくあるのですが、読者としてはわりとすんなり読んでしまうんですね。その代わり、先ほど申し上げたような、小説の構造自体に何か違和感が生じるような方向に、いまの書き手の関心は移りつつあるのかもしれません。
──そうした流れのなかで、読むだけではなく、翻訳しているということは、藤井さんにとってどんな意味があるのでしょうか。
藤井 ここまで触れてきたような批評性豊かな小説は、その批評性が、翻訳するうちにわかるということがあります。いや、最初に読んだときに何かが自分の心に刺さっているのですが、そのときには何が刺さっているのかよくわからず、訳していると改めて気づくとでもいいますか。
──一文ずつ取り組んでいくと、ようやくわかるということですか。
藤井 そうかもしれません。文章が描いている出来事があり、それをどの視点で語っているかということを、ひとつのセンテンスごと、出来事に対する語りの距離感を確かめながら訳していくという作業になるんです。すこしテクニカルな話になりますが、翻訳家の鴻巣友季子さんは『謎とき『風と共に去りぬ』:矛盾と葛藤にみちた世界文学』(新潮選書、2018年)のなかで「自由間接話法」という話法を解説しつつ、「『なにが書かれているのか』ではなく『どう描かれているか』」が大切だと説いていらっしゃいます。私としても、先ほどハミット『西への出口』に触れたように痛感させられる話なんです。
──訳していくうえで、「視点」をどう表現するか、ということですね。
藤井 たとえば三人称の語りひとつとっても、登場人物の頭のすぐ後ろぐらい、ほとんど一体化するような視点の位置の場合は、訳文では主語を省略して、より密着した、一人称っぽいトーンにしていくこともできます。一方で、人物の頭上、遥か高い視点から冷たく見下ろしている語りもあって、一作品のなかでそれらの視点が何往復もすることだってある。突き放した視点なのに私がぼんやりしていて一人称に近い視点で訳してしまったら、作品に込められていた批評性は失われてしまいます。いつも「これで距離感はあっているだろうか」と気にしたり、「何か見落としていないかな」と心配したりしながら訳していますし、そうした細かな陰影が積み重なっているからこそ自分の心に刺さったんだな、と訳し終わって気づくという経験が、よくありますね。
──なるほど。そもそも「編集できない」世界において、翻訳する作品はどのように選び、向き合っていくものなのでしょうか。『現代アメリカ文学ポップコーン大盛』のあとがきで藤井さんが「どうやら、僕には熱狂する力が欠けているようです」と書いているのも気になります。
藤井 何かに熱狂するというのはたぶん、没入して無条件に肯定する、対象との距離感がない状態なのかなと思います。そうした熱狂する力の欠如は、私の性格による部分が大きいですね……。たとえば私は長らくいろんなテニス・プレーヤーを応援してきているのですが、その選手にも熱狂していないんです。最近だとカナダのデニス・シャポバロフという人を応援していて、ときどきものすごくかっこいいショットを決める姿に魅かれているのですが、これがなんといいますか、安定性も何もない選手でして(笑)。うまくいけば世界ランクの上位にも入ることができる人なんですが、私はそうしたいいところもわるいところも含めつつ、「ああ、今日はここが調子悪かったから負けたんだろうな」「次はクリアしてくれるだろうか」と冷静に分析しながら考えるたちなんです。
──そうなんですね(笑)
藤井 そのうえで文学に話を戻しますと、ものすごくいい小説に出会って、時間も気にせず、それこそ夢中になって最後まで読んでしまうという経験は、いまでもしょっちゅうあります。でもそれは、単に主人公がどうなっていくんだろうとハラハラするように、完全に作品に没入したからというわけではない気がします。出来事とそれを語る文体、つまりストーリーをどの視点からどんな文章で書いているかということが、私のなかで二本柱になっていて、そのふたつの要素が最終的にどういう地点に到達するのかがどうしようもなく気になって読んでいる。すごくいい話だ、と衝撃を受けたときも、こうしたふたつの要素が私を同時に揺さぶっているからこそ“刺さる”んだろうと思うんです。
──その揺さぶりが、作品を訳すことへとつながっていく。
藤井 そういう二本の柱で揺さぶってくるタイプの小説がだんだんと生まれ、流れをかたちづくりつつあるとはいえ、とらえきれないほど膨大な文学作品のなかで考えれば、数としてそんなに多くはないかもしれません。自分の場合、そうした作品に偶然出会うと、引き込まれつつも、日本語でどう表現できるんだろうと考えはじめる。魅了されながら、どこか別の視点で眺めているところがあります。
──そうしたどこか冷静な出会いを経て、じっくりと一文一文、訳していくわけなんですね。
藤井 だいたいの小説は半年ぐらいの時間をかけて翻訳しているのですが、かつて読者としてその本に触れはじめたときと、訳者として触れおわったときに、「自分自身がすこし違うものになっている」ということはありえるんじゃないかと思います。
──自分が、すこし違うものになっている?
藤井 現代文学に接していると、最初と最後で、見えてくるものが違うということがよくあります。それを翻訳することで、さらに異なる視点に導かれたり、これまでとは異なる出来事への接し方を体感したりすることがあって、そうした経験が自分の血肉になっていくんですね。時間をかけて現代文学に接していくことで、自分がちょっとずつ変わるということはあります。そもそも自分は同じパターンの再生産に抵抗があって、絶えず何か、違うものを見ておきたいと感じるんです。だからこそ、なるべくいろんな作家の、さまざまな小説の視点に、一定期間の翻訳を通じて付き合うところがある。作家や作品を変えながら翻訳を積み重ねていくことは、数年単位で自分自身のフィルターを問い直すということにも、つながってくるのかなと思っているところです。
宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。
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