WORDS TO WEAR

だれのものかわからない場所——連載|鈴木涼美「今日はこの言葉を纏う」03

だれが渡って、どこに行くんだろうね。
——赤坂憲雄・藤原辰史『言葉をもみほぐす』より

TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki

先日、新刊の著者インタビューを受けた際にどこで仕事していることが多いですかと聞かれて、そういえば以前に比べて自宅の仕事机の上で書くことが圧倒的に増えたなぁとちょっと反省した。いくつも書籍などの資料が必要な場合は自宅が便利だけど、パソコンさえあればどこでもできるのが書き物の仕事の良いところで、疫病禍前はかなり意識的に書く場所を変えて色々なところで仕事をするようにしていた。もう少し場に縛られていた新聞記者時代に、空港のロビーから公園のベンチまで急いで変な場所で書かざるを得ないからおのずとできた習慣かもしれないが、フリーになってからはさらに色々で、歌舞伎町の喫茶店なんかでゲラをチェックしていた時には横で怪しげな男が面接をしていたし、バルセロナのオープンテラスでキーボードを叩いていたら横に座った仏国の夫婦が漢字に興味を持ち出してそれぞれの名前を漢字で書いてくれと頼まれた。ちなみに夫の方は忘れたが妻の方の名前がZoeだったので、取り急ぎメモ帳に「象恵」と書いたのだけど、エレファントの象という字だともし後に知ったら怒っただろうか。私は往々にしていい加減なので、以前六本木のカレーうどん屋で豪州から来た男たちにミョウガやらヤマイモやらを「これは何?」と聞かれて、そんなものの英語名は全く思いつかないので「えーと、マウンテン・ポテトだ」と答えたが後で調べたらYamとむしろ日本語でヤマイモと答えた方が近しいような単語が該当するようだった。

そんなわけでプルーストのように閉め切った密室で書き続けられるわけではないし、もともとちょっと落ち着きがない私は、自宅で書いたものより喫茶店や飛行機の中や旅行先のホテルで書いたものの方が多いくらいで、だから立派な書斎のある家を建てたいとか、机の向こうにある窓からの眺めにこだわった物件に住みたいとかいう願望はあんまり強くない。現に今この原稿を書いている私の部屋の机の前にも一応窓があるが、見えるのはマンションのゴミ集積場の屋根と、隣の古いマンションの壁、あと車通りの多い通りがほんの少しだけ。でも疫病禍を経てすっかり出不精になってしまい、だから最近書くスピードが落ちたのかなとも思った。今の仕事場はもっぱら自宅と、自宅から徒歩三分ほどで着く区立図書館くらいだ。図書館で本を借りることもあるが、滞在時間のほとんどは自習机を借りてそこで資料を読んだり原稿を書いたりしている。自習机を使っている人は老若男女様々で、資格の勉強をしているっぽい同年代の人もいるが、多いのはやはり受験生とセミリタイアくらいかなという白髪の紳士たちだろうか。仕事に飽きるとつい行儀悪く人が何の勉強をしているのか覗いてしまうのだけど、ジジェクを読んでいる人もいればクロスワードを延々とやっている人もいて割と面白い。

昔から公立図書館が好きで、学部生や院生だったころも大学内の立派な図書館より近所の図書館で課題や論文を書いていることが多かった。資料を探すなら東大の図書館や国立国会図書館や大宅壮一文庫に行くだろうし、慶応の図書館は圧倒的に使い勝手が良い。でも別に大抵は難しい資料を探しているわけではなく、自習机でぼーっとしているわけだし、私クラスの不勉強な人間はどんなに小さな自治体の図書館でも読んだことのない本は山ほどある。実家の近くの市立図書館は小さくて、自習室のデスクも早くにいかないと休日は埋まってしまって使えないことが多かったが、良い司書さんがいて空いている時には母も私もよく使った。ただ、家からはバスで駅まで行ってさらに十分ほど歩くので、子どもの頃に最も本を借りたのは近所のメダカ文庫という貸本屋だった。駄菓子屋くらいのスペースで、ちいさなおばあちゃんが一人でやっているところ。両親の仕事柄、家には絵本や難しい本が山ほどあったのだけど、ちょうど小学生が好きそうな『かいけつゾロリ』や『ズッコケ三人組』、それからコバルト文庫のような少女小説は逆に全く持っていなかったのでよく通った。本は古いし似たようなものが多くて巻数が抜けているシリーズもあったけれど、親の意見の入らない気楽な読書はメダカ文庫から始まった。

記者時代に地方自治の記事をよく書いていた。地域経済が疲弊する過疎地域に、都心の住宅街よりも立派な図書館や児童館があるというのは日本でよく見る光景である。大きな施設ではなく教育を充実させる方法はあるし、子どもなんて立派な図書館があったってメダカ文庫の方が使い勝手が良い場合もあるのだ、と思ってハコモノ行政を苦々しく思っていた。ただ、今の自宅の目の前の区立図書館のありがたみは確かにあって、うちの地元の子どもたちにもいつか立派な図書館をと思った誰かの思いも、当初は濁りのないものだった可能性もちょっとは頭をよぎる。実際、東京から来た新聞記者にとっては原稿を書く場所にちょうど良かった。それでもガラガラの図書館はやはり地元の人の生活とずれたものにしか見えず、確か中国地方に行ったときにガラガラの図書館で時折壁に突進している元気な男の子の双子がいて、せめて二人が生涯大事にできるような言葉とここで出会えたらいいね、とだけ思った。

『性食考』など民俗学者の赤坂憲雄の著作が私は好きなのだけど、先日、書評家の石井千湖さんの紹介動画を見ていたら、『ナチスのキッチン』などが有名な歴史研究者である藤原辰史との往復書簡があるのを知った。石井さんも紹介していた冒頭の言葉は書簡の中で赤坂さんが繰り返し綴っているものである。震災で津波の大きな被害に遭った後、いつの間にか巨大な防潮堤と巨大な橋ができていた東北の地で、かつてそこに暮らした女性がこぼした言葉。書簡では続けてこう綴られる。「あの鉄の橋の向こうには、人が暮らすことはない、村はもはや存在しないのです」。立派すぎる図書館と並べるわけではない。でも地元の生活から切り離されたところにある大きな力で勝手に土地の形が変わっていく不気味さに怯み、しかしその不気味さの中で生きざるを得ない人の声を大切に拾っている人の存在にはとても逞しい気持ちにもなって、少しだけでも地方を回っていたときのことを思い出したのだ。

 

profile

鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。5年半勤務した日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。6/29に小説『浮き身』(新潮社)が刊行されたばかり。