I AM WHAT I WRITE

「僕は言葉だ」——片岡義男の新刊『あとがき』を読んで考えたこと|若林 恵

作家・片岡義男の新刊『あとがき』が刊行された。1974年の小説家デビューから現在までに発表された単行本・文庫本の〈あとがき〉150点あまりを収録する、文字通り作家活動の集大成ともいえるこの一冊が、2019年のはじまりに私たちに呼び覚ますものとは何か——。「WIRED」日本版 前編集長の若林 恵が読み解く。

TEXT BY kei wakabayashi

片岡義男なんて。と、随分ながいこと思っていた。キザなタイトルのついた、古めかしい通俗小説。そんなもんいまさら。と、意識的に思っていたわけでもない。ただなんとなくずっと素通りしていた。

風向きが変わったのは『音楽を聴く』という本を新刊書店で見かけたときからだ。音楽好きを自認する自分としては気になるタイトルだった。世の音楽本に面白いものはたくさんあれど、音楽を聴いていいなと思う、その体験の真実を言語化したものはなかなか見当たらない。片岡さんの本は、その欠如に応えてくれるように思えた。

けれども白状すると、まったく歯が立たなかった。片岡さんはおそろしく遠いところからことを語りはじめ、どこに向かうとも明かさぬまま、じりじりと言葉を重ねていく。サビを早く聴きたいという願いは延々と宙吊りにされる。言葉そのものになんら難しいところはない。にもかかわらず、早々に音をあげてしまった

自分の言葉だけを使って思考を展開するというのは、なんてまどろこしく、ややこしいのだろう。言葉の平明さとは裏腹の、鈍重さ、執拗さ。キザなタイトルの小説を書くライトな作家どころではない。片岡義男は、そのときから得体の知れない怖い存在となった。そして同時に強く憧れもした。

自分の言葉だけを使って自分の思考を支える。あるいは、自分の思考だけを使って、自分の言葉を支える。というのは簡単にできることではない。説得力をもたせようと思えばなおさらだ。自信のない書き手は都合のいい引用のひとつでも放り込んで、その威光のもとやっと論旨のようなものを組み上げる。人のふんどしで書いた文章。そこには借り物の言葉と思考しかない。

それは一方でいたしかたのないことでもある。言葉というものは、どこまでいっても自分のものではない。それは、ずっとそこにあってみんなが自由にシェアするものだ。言葉にオーナーは存在しない。みんなが借り手。片岡さんにならえば、「言葉そのものは使い回しの最たるもの」だ。

だから本当は、自分の言葉、なんていうものは存在しない。借り手にできることといえば、せいぜいそれを厳密に選択することくらいだ。しかし、その選択こそが重大事なのだ。ここで紹介することになっている『あとがき』というあとがきばかりを集めた本のなかで、片岡さんはこう書いている。

「描くために選ぶ言葉とその使い方が、ストーリーそのものを最初から規定している」

英語は日本語と比べると、その選択の幅が狭い言語なのだと、片岡さんはこの原稿を書くために行われたインタビューで語ってくださった。コンビニエンスストアと言いたかったらコンビニエンスストアと言うしかない。日本語のようにコンビニと略すことはできない。そんな不自由さのなかで、英語は、それぞれの単語のなかを、多様な「私」や「僕」が絶えず出入りして新しい景色や実感を織り込んでいくことで更新されていく。それぞれの言葉が、幅ではなく、深みと厚みを獲得していく。片岡さんの言葉との向き合い方には、どこか、この英語の不自由さを引き受けるに似た感覚があるのかもしれない。

「もっとも必要なのは、使う言葉とその使い方のなかに、自分自身の身体をとおし確認した、実感や共感だ」と、片岡さんは書く。シンプルでありきたりの素材ながらも、強い実感を宿したものだけでつくりあげられた構造物は確固として揺るがない。D.I.Y.で作られた家を思わせる無骨な合理性。それはきっと片岡義男という人そのものについても当てはまる。

「先見日記」という名のウェブサイトに書かれた片岡さんの連載がいまもアーカイブとして残っている。そのなかに、「物を作らなくなった日本」と題されたエッセイがある。日本のモノづくりを話題にした時事評は、途中まで非常にわかりやすい。高度経済成長を経てどんどん物をつくらなくなっていった日本と日本人。ところが半分をすぎた辺りで突然転調する。

「作らなくなったもののきわめつきは、自分ではないか」。えっ?と思うのも束の間、こう畳み掛ける。「自分は自分自身で手間をかけて、いろんな方向から模索しながら少しずつ作っていくものだが、自分探しというような言葉は、なんの根拠もないままにあそこかここかと探していると、そこに理想的な自分があるはず、というイメージをもたらす。作らない人はイメージを頼りに生きるほかない。だからいまじつに多くの人たちがそうしている」

そして文章は、こう締めくくられる。

「なけなしの感性に引っかかってくる貧弱なイメージを、多くの人たちが夢と呼んでいる。作らないことの連鎖がもたらす決定的な衰弱が、社会の深層に向けてどこまでもつらなっている様子は、戦慄すべき次元に達しているのではないか」

片岡さんの文章のなかでは「厳しく言葉を選ぶこと」と「自分を作っていくこと」が同じ出来事として存在している。言葉も、自分も、あるところまでは、なすすべなくただ受け取り、そのなかをただ生きるしかないものとしてある。けれども、だからといってそれで終わるものでもない。作ることで、あてにならないイメージを頼りにした頼りない人生を拒むことができる。

片岡さんは、文章を作ることで、絶えずそうやって自分を作り続けてきた。その証拠であることがこの『あとがき』という本の真価だ。150冊の本がいかに作られたかを明かすそれぞれのあとがきは、文章を作り、論理を作り、ストーリーを作り、小説を作り、本を作ることのすべてが自分を作ることにつながる、ということについての思索にあてられる。

「すべては言葉ですから」。インタビューが終わる間際、片岡さんは身を乗り出してそう語った。自分は「僕」という言葉にほかならない。絶えず自分で自分を作っていくことで、「僕」という言葉は、それに見合った深みと充実を得ることができる。

※初出=プリント版2019年1月1日号

片岡義男|Yoshio Kataoka 1939年東京都生まれ。文筆家。74年「白い波の荒野へ」で小説家としてデビュー。小説、評論、エッセイ、翻訳などの執筆活動のほかに写真家としても活躍する。著書に『10セントの意識革命』『スローなブギにしてくれ』『メイン・テーマ』『日本語の外へ』ほか多数。現在「片岡義男.com」にて全著作の電子化が進められている。

片岡義男の最新刊『あとがき』(晶文社) 「ぼくは〈あとがき〉を書くのが大好き。〈あとがき〉を考えると次回作への期待とアイディアでいっぱいになる」——1974年刊行の『ぼくはプレスリーが大好き』から2018年の新刊『珈琲が呼ぶ』まで、単行本・文庫にある〈あとがき〉150点あまりを刊行順にすべて収録。

profile

若林 恵|Kei Wakabayashi
編集者。1971年生まれ。ロンドン、ニューヨークで幼少期を過ごす。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業後、平凡社入社、「月刊太陽」編集部所属。2000年にフリー編集者として独立。以後、雑誌、書籍、展覧会の図録などの編集を多数手がける。音楽ジャーナリストとしても活動。2012年に「WIRED」日本版編集長就任、2017年退任。2018年、黒鳥社(blkswn publishers)設立。著書『さよなら未来』(岩波書店)。責任編集をした新刊『NEXT GENERATION BANK 次世代銀行は世界をこう変える』(制作・発行|黒鳥社、発売|日本経済新聞出版)が話題に!

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