Visit Masato Kobayashi's Atelier

画家・小林正人〈この星のアトリエで今日も描く〉——鈴木芳雄の「アトリエ探訪」❿

30代でサンパウロビエンナーレ日本代表。それを機に伝説のキュレーター、ヤン・フートによりベルギー、ゲントに招かれる。およそ10年、かの地で活躍した画家が日本でアトリエを構えた場所は先祖が住んだ地であり、妻の出身地に近い広島県福山市だった。近頃、大部な作品集を出版し、その記念の個展も開催されているその画家、小林正人のアトリエを訪ねた。

TEXT BY Yoshio Suzuki
PHOTO BY Mie Morimoto
courtesy of SHUGOARTS, HeHe

「外から帰ってきてドアを開けて必ずアトリエの(描き掛けの)絵を一瞬見る。その瞬間が勝負。自分がそれまでやってたこと、それはどうなんだって。一つの絵を長く見てると客観性が薄れてくるから、リセットして、どうなんだって、ってことを毎日やる」

画家、小林正人はそんな話もしてくれた。

外に出かけて戻ってきたときもそうだが、庭の切り株に座って、スケッチをするときも同様だ。アトリエの中が見えないそういう場所にいて、そこで呼吸すれば無になれる。ただ風に吹かれているだけ。屋内に戻ると絵がぱっと見える。その瞬間がすべてだ。勝負は絵が見える前から始まって、描いている間はもちろん、描いたあとというつながった時間の中にある。必然的に同時に複数を描くことは、彼にはできない。

「たとえば馬の絵を描いている。綺麗に出来ている鼻のところに仕上げにグシャグシャって絵の具の塊をくっつける。失敗したらアウト! これだけは練習出来ないし経験も役に立たない。そんな時は月の力を借りることもあるよ。2階にいて、満月、今だ! って、下に降りて、パッとやって決まる。出来たってわかったら直ぐ絵の具が流れたり消えないように床に平置きにして乾かすんだ」

アトリエの内部に立ってみる。天井は高い。アトリエ全体を見下ろせる中二階のような場所もある。そこから眺めることで展示のプランも立てやすいというわけだ。

大きな馬の絵、それから大小さまざまの馬の絵が制作されていた。馬は絵筆を咥えている。ということは馬もまた、この部屋(アトリエ)に住んでいるのだろうか。あるいは馬自身が画家なのだろうか。それとも、馬は小林の自画像なのだろうか。

「画家が人間だと都合が悪くなって、どうもうまくいかなくなってきたときがあって。どろどろしてくるんだ。ピカソじゃないけど、画家とモデルの関係ってね。モデルは女神じゃないんだよ。人間だとやりにくくなったときに急に馬を描くことにしたんだ。悲しい話なのかもしれない」

1985年から現在に至るまでの約40年間の画業を、320ページ超でまとめた初めての作品集『小林正人 MK』(HeHe刊)が先ごろ出版された。1984年、東京藝術大学を卒業し、国立にアトリエを構えた。96年、拠点をベルギー、ゲントに置き活動、2007年に帰国、広島県福山市、鞆の浦の瀬戸内海を一望する場所にアトリエを建てた。

『小林正人 MK』は、東京、国立時代(1985-1996)、ベルギー、ゲント時代(1996-2007)、広島、鞆の浦時代(2007-)と、3章立てで、各時代の作品、展示風景やスタジオ風景、作家の言葉、解説により、作品から拡がる小林正人の世界を読み解く構成となっている。これまで彼の作品集がなかったのは不思議だが、画家としてポートフォリオを自ら作ったこともないと本人が言うくらいなので、展覧会カタログ以外の作品集はなく、本書は待望の1冊となった。

また、作品集の出版を記念して、六本木のギャラリー、シュウゴアーツで個展「画家の肖像——『MK』出版記念展」が開催されている。これらを機に、今回、彼のアトリエを訪問することとなった。

この土地はもともと小林の祖父の所有だった。それを受け継いだ父親もずっと東京住まい。小林はベルギーのゲントにいたが、結婚した相手が岡山出身ということを聞いた父親が、福山市にこういう土地があるのだが見に行ってみればという話になったのだという。

「ここに初めて来たとき、『となりのトトロ』に出てくる家みたいなのが残ってたんだよ。ここは瀬戸内海も目の前で平らな土地だったのでアトリエを建てやすいと思ったんだ。それで、帰ることに決めた。自分で最初から探せるような土地じゃないよね」

1996年にそれまでの活動拠点だった国立からゲントに移った。2006年に現在のこのアトリエを建て始め、2007年に完成し、帰国した。高台にある平地に建てた海の見えるアトリエ。

「ボックスの上にボックスを重ねているだけのミニマルな建築だよね。アトリエの上にリヴィングをのせて、テラスがせり出してる。海との間には民家があって、最初、建築家はそれが視界に入らないようにすることも考えてたの。でも、リゾートホテルじゃないんだからさ、そんな必要ないんだよ。むしろ民家の中にあるかも知れない絵をイメージして展示を構想できるしさ。こういうのがいいと思った。テラスの一部はガラス無しでせり出している」

瀬戸内海は静かで鏡のようで空の色が映り込む。その色は刻々と変わっていく。満月の夜、海はまるで野球のグランドのようになるのだという。月は人間の生理に訴えてくるものだ。

10年間のヨーロッパでの活動を通して、小林は目の前に広がるすべてを「この星の景色」として捉える感覚を得たということを話している。「この星の景色をこの星の絵の具で描く」ということ。全3巻のうち[中]まで出版されている自伝小説のタイトルも『この星の絵の具』という。その[中]巻『この星の絵の具[中]ダーフハース通り52』にこんなシーンがある。

〈ある朝のことだった。東の窓から床に差してきた日差しが画のロールを超えて少しずつ画の中へ伸びていくのを俺はぼんやり眺めていた。やがて太陽の光は黄色い画面に当たって黄色をもっと明るくした。画の反射光が波のようにキャンバスの木枠(ビーム)の外に出ていく……枠を超えて、足跡だらけの床に揺らいで光のプールをつくってた。なんていうこともなく、ふと、“この星”じゃないかな、と思った。
 そう思った瞬間画が動いた。
 画の中だけじゃない、空気も動いた、床も壁もドアも寝室の入り口も、全部! 景色が一分前とは違って見える。
 何が違うんだろう。分節のネジがとんだ。
 どこからどこまでが画でもいいと思った。
 ここは“この星”だ。〉

敷地の中に妙見様の神社が祀られている。妙見信仰は北極星または北斗七星を神格化した妙見菩薩を信仰するもので、その起源は中央アジアの遊牧民の北極星信仰にさかのぼる。妙見は、天空から人を見守り、方角を示し、人の運命を司る神である。北極星は遊牧民に自分たちのいる位置を教えてくれる。転じて日本では北極星や北斗七星を妙見様と崇め、実際に航海の案内の役割をしてくれたというわけだ。そして、そもそも遊牧民の信仰から始まったこともあり、馬の神でもある。武士にとっては武運長久の守護神、庶民には海上安全、商売繁盛の神。

この漁師町の海を見下ろす高台の敷地の一角で信仰を集める妙見神社、そこに建てたアトリエの中で馬の絵を描く小林。太陽と月と北極星に守られ、「この星」(地球)で描く画家だ。

小林正人|画家の肖像 —『MK』出版記念展


開催中=〜2025年1月25日まで
会場=シュウゴアーツ
開廊時間=11:00〜18:00


小林正人|Masato Kobayashi
1957年東京生まれ。96年サンパウロ・ビエンナーレ日本代表。97年ヤン・フート氏に招かれ渡欧、以降ベルギー・ゲントを拠点に各地で現地制作を行う。2007年に帰国、福山市・鞆の浦を拠点に制作を続ける。絵の具をチューブから直接手にとり、キャンバスの布地を片手で支えながら擦り込むようにして色をのせ、同時に木枠に張りながら絵画を立ち上げていくという、まったく独自の手法を用いて、絵画の在り方を探究し続ける。主な個展に「自由について」シュウゴアーツ(東京、2023)、「この星の家族」シュウゴアーツ(東京、2021)、「画家とモデル」シュウゴアーツ(東京、2019)、「ART TODAY 2012 弁明の絵画と小林正人」セゾン現代美術館(長野、2012)、「この星の絵の具」高梁市成羽美術館(岡山、2009)、「STARRY PAINT」テンスタコンストハーレ(スウェーデン、2004)、「A Son of Painting」S.M.A.K./ゲント市立現代美術館(ゲント、2001)、「小林正人展」宮城県美術館(宮城、2000)など。著作に『この星の絵の具[上]⼀橋⼤学の⽊の下で』(アートダイバー、2018)、『この星の絵の具[中]ダーフハース通り52』(アートダイバー、2020)

profile

鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。