揺らぐ風景、にじむ画面。その絵画は目の前の世界の描写ではなくて、脳内に仕舞われた記憶の可視化、あるいは組み立てられたストーリーの構築なのではないかと思える。これまでも、具象と抽象を行き来したり、ミクロとマクロの視野で戯れ、カラーフィールドペインティングへの新たな挑戦を見せてくれた丸山直文。最新の個展に向けて制作中のアトリエを訪ね、話をしてきた。
TEXT BY Yoshio Suzuki
PHOTO BY Mie Morimoto
ART WORKS © Naofumi Maruyama
Courtesy of SHUGOARTS
一般的に日本画家の画室は絵具の跳ねなどなくたいていさっぱりとした感じがする。洋画家のアトリエは概して、絵具が飛び跳ね、壁や床を染めていることが多い。アクリル絵具で描く丸山直文のアトリエに入ったとき、思い込みは外れ、その清潔さにやや戸惑った。
「床で描くというのもありますかね。油彩の人って、壁に掛けて3、4点とか並行して描いたりするでしょ。僕は一点しか描けないので、それもあるかもしれないですね」
キャンバスの上に水を張り、絵具は水を通ってキャンバスに届く。描かれた風景はまるで水面に映ったように揺らいでいるようにも見えるし、にじんでいるためにそれは目の前に広がる景色ではなく、目を閉じると現れる記憶の中の情景として伝えられるのではないか。
すべてを画家の制御の下に置かず、微妙に水に委ねることで伝えすぎない、あるいは少し曖昧なニュアンスを含め伝えること。実際に存在していて、見た者の網膜に投影された上で脳に送られた風景なのか、それとも、実はその風景をそのときそこで見た者はいなくて、記憶、それも実存の土地なのか、誰かが撮った写真なのか、さらには架空のものなのかその区別も朧げな、すでに脳にしまってあったもの、つまり眼の出番はなく脳内だけで行き来した情報だったのかわからないままだ。
「ある種の偶然性に委ねているというか、ある意味、画材との対話ですね。自分が描いているけれども、すべてはコントロールできないのでそれに対して応答しているみたいな感じです。職人的な話になってしまいますけど、水との折り合いをどうするかということ。どれくらい濡らすのか。濡らさないのか。それによって色のつき方も違ってきたりします。やっているうちに不可抗力的なものが、だいぶコントロールできるようになってきてしまって、またどうやってそれを崩していくか、偶然に委ねるかという課題も出てきます。水って形があって無いようなものなので、そこでどういうふうに関わればいいのか。前はこれをやってみたから、今度はこれをやってみようとかを繰り返しています」
水を使った独自の手法で、モチーフとしても水を描いている。水で描き、水を描く。展覧会タイトルも「水を蹴る」となっている。
「前回の個展くらいから意識的に水辺を描こうと思ってきたんです。水を使うことが描く際の一つの手法だと考えていたんですが、ふりかえって生活の中にある水のことを考えたりもして、なぜ水の上に描くのだろうと。キャンバスの上に描いているという感覚よりも、水の上に描いている感覚がある。その描き方だと、ずれが生じるとか、壊れていく方に向かうとか、違うものになっていくとか、そういうことを意識しだしていったんですね。それで、モチーフにも近づけたということもあります」
アトリエは都心から離れた町の住宅街の中に住居兼用として13年ほど前に建てた。500号くらいの絵(長辺3メートル以上)も出し入れできる。住宅の一部なので活動の時間も自由にできる。
「午前3時に起きて、夜の9時とか10時に眠ります。以前、アトリエと住居が別だったときは夜中の2時頃まで仕事して帰宅してきてという感じだったんですけど」
住宅街の深夜から朝、静謐の時間。おそらく今日も集中して筆を動かしている。画家が与える絵具に対しての水がもたらす効果。彼に言わせればそれは画材との応酬なのだが、そうして生み出された絵が静かに増えていく。絵の前に立つと水が描かれた理由がわかる気がした。画家は実はこの場所の音(の無さ)と澄んだ空気を描きたかったのではないだろうか。展覧会会場で確かめてほしい。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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