朝、目が覚めたらスターになっていたというほど極端ではないが、現代アートの世界では、あれよあれよとスター街道に躍り出ることがある。五木田智央は10年ほどで世界のアートシーンの最前線に立つことになった。それはまるで、無名だったストリートミュージシャンが突如、ファンに追いかけられるロックスターになったかのように。そのストーリーをふり返りながら、話を聞いた。
TEXT BY Yoshio Suzuki
PHOTO BY Mie Morimoto
「今思うと、あれが始まりだったなと思うんです」
五木田智央は最初にニューヨークの小さなギャラリーで参加したグループショーのことを話してくれた。テイラー・マッキメンズという自分より少し若いアーティストがキュレーションした展覧会に突然誘われたのだった。2005年のことだ。
子どもの頃から絵を描くのが得意だった彼は20歳くらいからグラフィックデザインの仕事を始めていたし、その後、売れっ子イラストレーターとして多忙な日々を送っていた。
「そもそもは絵を描いたりしてお金がもらえる生活ができるならなんでもいいって思っていたんです。デザインの仕事、向いてないかなってやめて、絵だけで行こうと思って、ドローイング描いてたら、絵の注文が来るようになりました。『イラストレーション』という雑誌が大きく特集してくれたりして、嬉しいなぁって思ったんですけど、でも、イラストだとクライアントの要望に応えないといけないのがだんだん苦痛になって、イラストレーターも嫌になってきて、行き詰まっていたというか。ちょうど彼女にもフラれたりして」
五木田が2000年に出版した作品集『ランジェリー・レスリング』を見たキュレーターのマッキメンズがニューヨークのグループショーに誘ってくれたのだ。彼はわざわざこのアトリエまで来てくれて、五木田は迷いなく二つ返事で引き受けた。そのときすでに、イラストとは違って好きに描いてた絵がたくさんたまってた。
「その絵をここにバーっと並べて、それを全部出そうってなりました。でも、旅費の予算はないんだって言われたから、いや、オレ、小金はあるから自腹で行くよって答えました。とにかく、小さいギャラリーでもなんでも、ニューヨークで展覧会ができるのが嬉しくて。そのとき、自分が面白いと思っていて描いたもの、描き溜めていたもの。それをギャラリーで見せることができた。参加したそれぞれの作家が自分で展示もやって」
ニューヨーク行きのチケットを買い、大小様々な作品を抱えて向かった。泊まる場所は昔、イラストレーター時代に知り合ったアメリカ人編集者の部屋に転がり込んだ。
そのときの作品の値段は小さいものだと100ドルくらいから、せいぜい何万円。飛行機代など考えると、もちろん赤字だ。しかし、展覧会が開くと、作品はバンバン売れるし、いろんなギャラリストが名刺を出してきて、明日、ウチに来ない? 話しよう、みたいに言ってくれた。そうこうしているうち、数日後に『ニューヨークタイムス』に大きく五木田の写真が出た。
「それはうれしかったですね。うぉーってなって、そうしたらまたさらにいろんなギャラリーが声をかけてくれて、ちょっと待ってという感じで、ギャラリー事情に詳しい知り合いに相談して、その中から3つ4つ選んでもらって、会いに行って、適当にノリで一人のギャラリストに決めたんです。それで、もう後戻りできない。作品をちゃんと作らなきゃっていう意識になりました」
日本人の画家で、2005年以降に世界デビューして、ここまで短期間にこれほどの成功を収めたということでは五木田の右に出る者はいない。アートワールドは常に新しい才能を求めているとはいうものの、その成功は本人もなかなか実感できないほどだった。
その後も、ニューヨークでいくつかのグループショーや個展を重ね、ロサンジェルスやミラノ、ブリュッセルでも個展を開催、日本ではタカ・イシイギャラリーの作家になった。そして、最初の展覧会から10年も経たないうちに、メアリー・ブーン、彼女はジャン=ミシェル・バスキアやジュリアン・シュナーベルを手がけたことでも有名な伝説のギャラリストだが、彼女から五木田の携帯に直々に1本の電話がかかってくることになる。
その経緯としてはこうだった。あるとき、メアリー・ブーンがアーティストKAWSの家を訪ねた。壁に飾ってあった五木田の絵を見て、彼女がKAWSに「これ、誰の絵?」と聞いたのだった。KAWSはこう答える。「知らないのかい? 日本人の画家だよ」。
その後、2014年にはメアリー・ブーン・ギャラリーで五木田は1回目の個展を開催、2016年の2回目の個展はギャラリーが最も力を入れる作家の展覧会を設定する9月に開催。その2回目の個展のときは送った作品12点すべてがたちまちソールドアウト。五木田がオープニングのために到着する前にだ。
五木田もKAWSのアトリエを訪ねたことがあり、そこには横尾忠則作品などが飾られていたという。五木田にとっても横尾は神にも近い存在だと言って憚らない。他に敬愛するのは日本人では、赤塚不二夫、湯村輝彦、大竹伸朗。さらに会話の中で上がった名前は、ポール・ゴーギャン、マルセル・デュシャン、パブロ・ピカソ、フランシス・ベーコンら。
そんな五木田は日本国内では、DIC川村記念美術館で2014年、東京オペラシティ アートギャラリーで2018年、大規模個展を開催、アーティストとしての彼の地位は不動のものになった。
さて、アーティスト五木田の成功のストーリーの舞台裏というか、本拠地となったのがこのアトリエである。東京都多摩地区東部、新宿や渋谷へのアクセスもいい土地。この建物はもともとは紙に糸を巻く作業をする工場だった。この場所は親の家の近くで、大家さんも知り合いだった。
「2001年くらいかな。今みたいに割と大きな絵を描いていたってわけではないんだけど、意味なくデカい部屋を借りたいなって漠然と考えていたんです。あるとき、ここの窓が空いていたのでこの隣に住んでいる大家さんに、『ここ空いてるの?』って聞いてみたんです。『空いてるなら借りたいんだけど』って言ったら、『何するの?』っていうから、『オレ、デザインやったり、絵を描いたりしてる』というと、『こんな広いところいるの?』って返されたけど、『とにかく借りたい』ってお願いして」
元工場のおおらかな空間を彼はのびのびと使っている。古道具屋やリサイクルショップで集めた家具やアナログ中心のオーディオ、何のためのものかよくわからないものも含めて、さまざまなオブジェやキャラクターグッズがある。資料となる古雑誌や大好きなプロレスのポスターも。これは得難いスペースだ。こんな場所を手に入れられた彼は幸せだろう。アトリエとしては、搬出できる絵のサイズがF200号(2590×1940cm)が最大なので、ここで描けるのはそこまでだそうだ。
取材に行ったときはちょうど、スイス、バーゼルで6月に開催される世界最大規模のアートフェアであるアートバーゼルに出品するF130号からF60号まで作品4点を描き終わったところだった。
さらに、毎日描いている絵、基本的には午前中1枚、午後1枚描くというシリーズも見せてくれた。これはアスリートに例えれば、筋トレみたいなもので、欠かすことのできない日課だそうだ。水彩用の紙にアクリル絵具で描いている。調子の良いときは1日数枚描けることもあれば、ノリの悪い日は1日1枚しか描けない。これは秋にタカ・イシイギャラリー ビューイングルームで展示する予定。これまで描いた絵を一斉に並べてくれた。
2004年ころ、ニューヨークの展覧会に誘うためにここを訪ねてくれたマッキメンズに絵を見せたときもそんな感じだったと想像させてくれた。
今日も自宅から自転車でアトリエに通い、きっと音楽を聴きながら、小さな絵や大きな絵を描いていることだろう。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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