A Line Through the Beating Heart of Tokyo
建築家・重松象平が東京の未来を促す、 ステーションタワーという名の〈結節点〉
世界各地で手がけた数々のプロジェクトを通じ、都市のいまだ見えざる座標軸を切り拓いてきた重松象平。虎ノ門ヒルズ ステーションタワーの設計にあたり、東京、そして日本に、何をもたらすべく挑んだのか。代表を務めるOMA New Yorkのオフィスで話を聞いた。
PHOTO BY NICHOLAS CALCOTT
TEXT BY Mika Yoshida & David G. Imber
EDIT BY KAZUMI YAMAMOTO
illustration by Adrian Johnson
虎ノ門ヒルズ ステーションタワーを見上げた時、まず強烈なインパクトを覚えるのはそのねじれたフォルムだ。だがもちろん、私たちの目を躍動感で楽しませる為だけにこの超高層タワーがゆるやかなツイストを描いているのではない。
設計を手がけた建築家・重松象平は、常々こんな思いを抱いていた。世の中の高層ビルは、どの方向からも同じように見えるものばかりじゃないだろうか……?
都市の軸線を可視化する
「異なる方向からでは見え方が違ってくるといった、都市に対してダイナミックに関われるような形態はないかと常日頃から考えていました。この虎ノ門ヒルズ ステーションタワーは、上が細くなっている台形と、まったく同じものを180度回転させた台形とを繋ぐというプレイフル(遊び心)なやり方で、ねじれた形状になっています。ねじれる事により、建物の内側を貫く”軸線”が色々な方向から見えるのも特長です」
日本には社寺の「参道」や「商店街」はあるが、西洋の街における「軸線」の概念はあまりない、と重松は指摘する。新橋と虎ノ門を結ぶ新虎通りは、築地方面から赤坂方面へとつながっていく東京の玄関口となる稀有な「軸線」だ。官公庁やビジネス、カルチャーや商業など幅広い産業の中枢が広がる新たな軸線の一端を虎ノ門ヒルズが担う、と語る。ジャンクション、そして「結節点」にある虎ノ門ヒルズに、重松は「つなげるためのタワー」を提唱した。エリアとエリア、古い東京と新しい東京、緑とアクティビティ、パブリックとプライベートなど様々なものをつなぎ、街を活性化させるタワーなのである。
「新虎通りのアクティビティをブリッジ上に延ばし、そして2つのバー(台形)の真ん中に各プログラム、リテール、ホテルやオフィスなどの中でも特別な機能が集まる『アクティビティ・バンド』を入れましょうと。ブリッジとほぼ同じ幅のアクティビティ・バンド=軸線がタワーの頂点まで昇って、ラッピングするようにまた下へと降りてくる。軸線が真ん中を通って行く建物はよくありますが、建物自体が三次元的にそれを表現しているのはなかなか無い。ねじれている事によって、この軸線を色々なところから見ることができるんです」
タワーどうしのコミュニティ
虎ノ門ヒルズ ステーションタワーは、地上部分で森タワーやビジネスタワー等はもちろん、そのまま街へシームレスにつながっていく。また、最上階のギャラリーはすべて巨大なガラス窓により外が見える。つまり、外と中とがつながりあう。ビル最上階によくある機能があまりない只の「展望台」とは大きく異なります、と重松は言う。
「ブリッジではネイバーフッド・レベルでつながっているのに加え、地下鉄の駅があることで、ステーションタワーははるか広域ともつながります。駅直結の強さですね。これまで東京メトロは駅前広場的なものを持つことが叶いませんでした。というのも駅を降りればすぐ隣に別の所有者の土地があるからです。この虎ノ門ヒルズの場合は駅の両側の街区の再開発と一体で整備することができたため、双方にアトリウムがある。そしてプラットフォームにいる時点で目的地を目で捉えられる。駅前広場自体が東京の地下鉄駅では珍しいのですが、その上、周囲を見わたせるというのも大きな特長です」
立体的に都市の体験を作ることを提唱した重松。日本、特に東京の人々は香港以上に都市を立体的に動くリテラシーに長けている、と語る。
最上階と足元に、公共性を
「私はよく『BENTO BOX』に喩えるのですが、一般に建築家は『弁当箱』を設計させられます。中身はもちろんディベロッパーなどが決めます。ただ、弁当の中味がすでに決定していたら、箱をいかに頑張って設計したところでそれによって中での経験が根本的に変わることはない。私は中身から提案したかったので、この虎ノ門を象徴するものを打ち出しました。地理的にビジネスの中枢や官公庁にも近いですし、たとえばTEDトークなどを東京でやる際は必ずここで、と言われるような象徴的な施設を作りませんかと提案したんです」
それが高層部の複合施設「TOKYO NODE」の基となった。ビジネスやアート、テクノロジー、エンターテインメントなど領域を超えた情報発信拠点である。
「テナントの大半をオフィスが占めるので『プライベート』なタワーですが、上に『TOKYO NODE』、下には『駅前広場』、Tデッキ、『食』が入るなど、上と下に高い公共性をもたらす事で、全体の活性化を図るという発想です。
緑とアクティビティがラップして、屋上部分にもガーデンがあり、皇居を見下ろせるインフィニティ・プールがある。仏版ミシュランの三ツ星を獲得した小林圭シェフのレストランもできる。昔の日本のデパートとは雰囲気はまったく違いますが、構成は似てますね。私たち世代が子供の頃、デパートに行くのは大きな楽しみで、屋上で仮面ライダーショーを見たり、大人にはビヤガーデンもありました。今ではデパート屋上での楽しい体験というのは無くなってきましたが、復活してほしいですね。ルーフトップのポテンシャルは、東京ではまだ充分に追求されていないと思っています」
タワーの核を、パブリックに開放する挑戦
重松にとって重要な事がもうひとつ。タワーの中でもっとも肝要な場所を「パブリック」にするという試みだ。
「超高層ビルの歴史はまだ120年そこそこ。人の働き方や住まい方、テクノロジーの発達によって今後どんどん変わって進化していくべきだと思います。なのでここには何があるはずという既成概念をなるべく疑ってデザインする必要がある。たとえばステーションタワーの『コア』。スカイロビーまでは中央コアが通り、そこから下は二つに分かれているサイドコア。これはつまり、超高層ビルの根幹であるコア部分を公共的なスペースに明け渡して、公園がタワーの中央を通っていくということです」
「超高層ビルにはエレベーター・コアが必ず真ん中にあります。が、このタワーの『コア=核』を2つに分けて、最も重要なインフラ部分をパブリックに開くというのが私にとってはとても重要でした。横などではなく、ど真ん中を突っ切っていく。足元を最大限に解放するジェスチャーですね。この大胆なデザインに合意してくれた森ビルも凄いと思います(笑)」
映画監督にも憧れた学生時代
ところで、そもそもなぜ建築家を目指したのか?
「父が化学者だったので、高校は理系と決まっていました。それも日本的ですが(笑)。実際、数学も物理も嫌いではなかったので」
高校入学と同時にバブル経済が到来。TVでは、登場人物がみな高級な服を着てはゴージャスなマンションに住み、高いクルマを乗り回すようなトレンディドラマが溢れかえっていた時代だ。ところが重松の父親は団塊の世代。就職先は大企業であればあるほど良い、という時代の風潮に逆らう反骨精神は、息子にも深く刷り込まれていた。理系で自立する進路を探っていた高校生の重松は、音楽や絵を描くことも大好きで、黒澤明やスタンリー・キューブリックのような映画監督を目指した時期もあったという。総合芸術的な要素も兼ね備えた理系の職業は何だろう?と考えついた先にあったのが、建築家だった。
「建築のことなどまったく知らない状態でしたが(笑)、建築家になれば総合的に何かを作る立場になれるんじゃないかと思ったんです」
そして九州大学工学部建築学科に進学する。師事した教授はオランダ建築の研究者。卒業後、すぐにオランダへ留学した。重松は1973年生まれの団塊ジュニア。いわゆる就職氷河期世代だ。
「団塊ジュニア世代は当時、留学が多かった。どこの大学にも日本人が結構いて、今とは正反対。でも皆、日本に帰る前提で来ていました」
東京からの留学生ももちろん多い。地方の大学から来た自分は、日本に帰ったところで果たして彼らと同じ土俵に立てるかどうか……? ならば自分は居残ってやろうと決意した。残ったら残ったで、やはり辛い事もたくさんあったのだが。
そして1998年、その当時レム・コールハースが率いていた建築事務所OMAに入所する。面接試験での有名なエピソードがある。OMAの所員による面接を終了した重松はなんと、「自分からもレムと面談させてほしい」と願い出たという。向こうが決めるだけではない、こちらも相手を見極めさせてほしい、という訳だ。この伝説は真実なんだろうか?
「本当の話です。当時はまだOMA自体、規模が小さかったし、レムに気に入られないと良いパフォーマンスはできないというのは事前にいろんな人から聞いていたんです。面接時、たまたまレムがいるのが見えたので、ぜひ面接させて下さいと申し出ました」
ヨーロッパには10年、アメリカには重松がOMA NYを設立した2006年から数えて今年で17年目。彼にとって、虎ノ門ヒルズ ステーションタワーは日本で過去最大のプロジェクトだ。
「海外で手がけた仕事が日本に伝わるという形で、比較的海外の建築家にとっては参入が難しいとされる日本のマーケットに入ることができたというのはありますね。結局のところは、皆がたどる道を同じように進んでもなかなか厳しいものがある。自分の場合は常に人とは違うことを意識してやっていくと、こういう結果になることもある、というあまり参考にならない一例でしょうか(笑)。単純に、海外に残れば良いという話とは違うのですが」
異なる環境が同居し、文化を発信する理想の職場
そんな世界を舞台に長年活躍してきた重松が考える、理想の「働く環境」を尋ねてみた。
「昔のいわゆるオフィスビル的なところで働きたくないというのは皆、共通でしょう。オフィスはあるけれど、下に降りていけば公園のような場所で仕事ができて、カフェもある。上階に上がれば文化的な施設があり、ミーティングにふさわしいカフェやレストランもある。そういう、異なる環境が立体的に同居している場で働くというのはマストになっていると思います。
また自分たちでコンテンツを発信し、文化を作っていく役割を担うエリアや場で働きたいというのもあります。たとえばここソーホーのように、最初は倉庫街だったけれどアーティストや食などで共感する人たちが集まり、新しい街を自分たちで作り上げていく。NYにはそういう場所がたくさんありますが、そのような自然発生的で文化的な起源をもつことが街づくりの根本だと感じます。
そういう場所で、アーティストもオフィスワーカーもスタートアップもツーリストも最後にはコンバージュ(合流)する、そういう所で働きたいというか、何かをエクスチェンジしたい。虎ノ門のウォーカビリティ(歩きやすさ)も私にとってはほど良い指標で、赤坂や汐留あたりまでの徒歩15分圏内にあそこまで様々な界隈が入るというのは楽しいと思います」
人々に使われ続ける建築こそが、サステイナブル
重松にとって、環境へ配慮した建築とは何だろう。
「東京は、オフィス環境指標といい緑地面積といい非常に厳しい基準が設けられており、ステーションタワーは当然それらをすべてクリアしています。ただ、建物を建てること自体、環境に良くないというのはあります」
建物のサステナビリティというのは、ガラスや設備の性能や緑の多さといった科学的な環境指標だけではなく『壊されない』ようにしていく、愛される建物にしていく事こそ長い目で見たサステナビリティにつながると思います。ステーションタワーの公共的な低層部を皆さんが使い続けて、TOKYO NODEのギャラリーの展覧会に連れていった子供が成長して、30年後に訪れた時にもまた別の展覧会が催されていて……。ソフトとハード、オペレーションやマネージメントと建築を連動させ、あるいはコンテキストをうまく抽出することでなるべく長い歳月にわたって使ってもらえる、社会的にもサステイナブルな建物を目指しています」
地元にコミットする時代へ
コロナ渦以前は、常に世界中を飛び回り、NYには1カ月の1/3というペースだったという。今は出張も東京やパリなど遠い場所に絞り、NYとそれ以外で過ごす割合は6:4だという。
「NYとはこれまで健全なレベルで自分自身との距離を保ってきたと思っています。ですが、サザビーズNYやニューミュージアム、ティファニー五番街など、自分がここで建物を建てる立場になってくると、NYに対して他者的な姿勢を保つのはある意味、卑怯な気がしてきます。だからNYのコミュニティに今後もっとコミットして行きたいし、ローカルな文化に本質的に触れ続けたい。地元福岡で九州大学の教授になったのも、ローカルなコミュニティになるべく属する一つの形です。これまでのグローバリズム礼賛一辺倒の時代から世界は変わってきているし、自分自身も変わっていかねばと思っています」
重松象平|Shohei Shigematsu
Office for Metropolitan Architecture(OMA)パートナー/NY事務所代表。代表的なプロジェクトに中国中央電視台(CCTV)新社屋、コーネル大学建築芸術学部・新校舎、ファエナ・アーツ・センター、サザビーズNY、ニューミュージアム新館、ケベック国立美術館新館ほか。先頃は東京都現代美術館「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」展の空間設計が大きな話題に。
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