CITY OF AMORPHOUS

苗場プリンスホテルの一室にて——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」16

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第16回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

第16回:苗場プリンスホテルの一室にて

僕は今、フジロックフェスティバル18(以下「フジロック」)の楽屋にいて、出番待ちをしている。フェスについて、一回も行ったことがなく、何も知らない人でさえ、「フジロック」の名前ぐらいは知っているだろうから、フジロックの楽屋やバックヤードがどういった感じか、ルポしてみたいと思う(実際は、都合により余りに待ち時間が長いため、暇を持て余し、マネージャーのPCを借りて「あのさあ、ヒルズライフの今回分、この待ち時間に部屋で書くわ」と言って書いているのである)。
 
さてそれは、端的に言って、「苗場プリンスホテル」の客室の一つなのである。プリンスホテルの系列を、今は解体されてしまった赤坂と、ブッフェが有名な品川と、高輪ぐらいだと舐めてかかるとエライことになるのであって、ちゃんと検索して調べてないから正確な数はわからないが、僕が知るだけでも、とんでもない数がある。確か港区だけでも3つか4つある。
 
そのひとつがこの苗場であるが、プリンスホテル系列の中でも古参の方で(開業1962年。「プリンスホテル」の名称になったのは1970年)、現在の姿はバブル期前後の改修工事によるもので、それ以来、大きな改修はないので、要するにバブルで時が止まっている建築物の一つだ。類例のディスコだのホテルだのの中で、最大のものではないか。
 
というか、「<60年代開業、80年代で時が止まってる>物件」というものはリゾート地に群生していて、廃墟マニアやキッチュ愛好家の巡礼路があってもおかしくない。この苗場プリンスホテルだって、もし1999年にフジロックがオフィシャルホテルにしなかったら、高い確率で廃業していたか、大きく規模縮小を余儀なくされていただろう。
 
フジロックはその名の通り、第一回(97年)こそ富士山麓の天神山スキー場で開催されたが、台風の直撃によって初日から大きな被害を出し、翌年の第二回を豊洲の東京ベイサイドスクエアで行い、やっぱりスキー場じゃないと。と思ったのかどうか、第三回(99年)から以降、ここ苗プリを擁する苗場スキー場地区で行われ続けている。
 
僕が最初にフジロックに出演したのが何年だか忘れてしまったし、その後何回出演したかも正確には憶えていない。のだが、おそらく00年代の中期に初めて出演し、つまり、この苗プリに宿泊した時には、もうすっかり「なっつかしー」とヒーヒー状態だった。何故か? ヒント、スキーはやらない。ヒント2、1963年に生まれて、つい先月55歳になった。成人式は83年。ヒント3、実は音楽家であり、それ以前に音楽愛好家である。
 
そう、正解は「松任谷由実の<Surf&Snow in NAEBA>と、とんねるずの<こんと いん なえば>に通っていたから」である。どうだ、想像以上のバブルの波があなたをいま、押し流そうとしたに違いない。
 
先も書いたように僕は原稿を書くにあたって検索はなるべくしない。検索で得たソースの正確さより、個人の歪められた記憶の方が、エッセイのソースとしては遥かに上質だからであるが、僕はこのホテルが何年から時を止めているのか? 誰が止めたのか? という設問に対しては「松任谷由実が81年に止めた」という回答を希望する次第である。
 
つまりこういう事だ。19歳(82~)から5~6回ユーミンのコンサートのためにここに宿泊し、29歳(92~)から2~3回とんねるずの単独ライブのためにここに宿泊した。ユーミンからとんねるずの段階で、第1の「なっつかしー」があったのだが、まあ、ガキにおける10年は中年のそれよりかなり長い。さっき「ヒーヒー状態」と書いたが、フジロックでの再会よりも、むしろこの、とんねるずでの再会の時の方がヒーヒー状態だった。
 
とんねるずの単独ライブを見るために苗場まで行くのはさすがにしんどくなり94~5年でまた苗プリの連続宿泊は止まる。そして更に10年が経ち、二度目の再会がフジロックだ。僕はいつの間にか客から出演者となっていて、無料で泊まれるし、コンサートのチケットも要らない。「なっつかしー」のトーンはかなり侘び寂びに満ちていて、たかが45ぐらいの若造が「人生は長いな……」と、遠くを見つめながらBOSSの缶コーヒーのCMの、松田龍平時代(あれこそ黄金時代でしょう)の松田龍平が、海外に旅立ってしまう恋人を空港で見送る表情そっくりになる程度には充分パセティックだったのである。
 
それから散発的にフジロックに出演し続け、約10年(その間にいろんな事があった。僕の後ろから、ものすごい速さで走ってくる外人の子供がいて、思いっきり僕にぶつかって転倒したので、抱き起こして「大丈夫か君?」と言ったらそれがビョークだったとか)がたった今、ここである。やっと現在にたどり着いた。
 
僕は「スパンクハッピー」というバンドで出演するためにここにいる。厳密には僕はDJとして呼ばれていて、その持ち時間の中に、このバンドのショーが組み込まれているのだが、このバンドも11年前に活動を止めていたのが、今年からいきなり活動再開したのである。なっつかしー。活動期のレパートリーもやるしね。そして、あなたにやや複雑なパズルが解ける能力がおありなら、だが、このバンドでフジロックに出演するのは初めてだということがお解り頂けるであろう。
 
こうなるともう、懐かしさの多重的な自家中毒みたいになって、結果、さほど懐かしくなくなる。この感覚、「懐かしがりも麻痺して」あるいは「懐かしさを失った猿」とでも言うべき感覚は、逆転的にとても新鮮である。「くたくたにヨレた新鮮さ」と言う感じである。
 
僕は、これが「老い」という現象の始まりだと思っている。何かを懐かしがっているうちは若いのである。ベッドは60年代仕様で、即ち小さい。80年代仕様の壁紙はパステル&ファンシーで、バスタブも小さい。何も変わっていない。そして僕程度のステイタスでも、ツインの部屋を宛がってもらえる。
 
それは、その時その時の恋人とユーミンのコンサートに来て、終わったら怒涛のロマンチック成分(全盛期のユーミンっすよ! お分かりかね諸君?)を吸引しすぎた二人が、あまりの恋の気分に胸を壊しそうに痛めながら、全裸で熱烈なキスを繰り返し、そのまま眠ってしまった記憶をきちんと再生させる。しかし、そんな素晴らしいものが再生されようと、なんかもう、全然懐かしくないのである。
 
今年は昨日ケンドリック・ラマーが来て、今日のメインはボブ・ディランである。新旧の天才がシンメトリーで、などとまとめる奴は馬鹿だ。この歳なのに、ボブ・ディランの思い出は「ウィ・アー・ザ・ワールドで声の小さい、歌の下手な人」ぐらいしかない、それでもかなり懐かしい。そして何も感じない。
 
不謹慎な僕は「やっぱホフ・ディランの人は最前列で見ているのだろうか?」といったギャグを思いついて、一人でケタケタ笑ったりしている。何度も入った風呂場の鏡に自分の姿を写すと、髭が真っ白で、法令線が深くなり、中年性というより老人性というべき痩せ方をした自分の姿が映っている。昔どんな奴が映っていたのか忘れたので、特に感慨もない。
 
ケータリングとかはない。部屋の冷蔵庫も空だ。窓からはフジロック名物、客のテントがびっしり並んでいる。昨日は台風で、一昨日までは、今日は台風が直撃し、第一回の悲劇が繰り返されると言われていたが、奇跡的にコースを捻じ曲げ、ものすごい天気である(因みに、午後3時に書いています)。
 
老いの実感は身体から、とよく言われる。だが僕は、心が先だったようだ。多少腰が痛いだけで、膝も肩も20代と何も変わらない。だが、「ああ、マジ老いたな」と思う。この「懐かしさ」への、奇妙で新鮮な無痛感覚。僕はガラケーでマネージャーに「今からヒルズライフの原稿書いて、時間があったら出番まで寝るわ。1時間前に電話鳴らしてくれ」とメールして彼のノートブックを開いた。

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。